がんばれ!小保方春子さん  STAP細胞のパクリでは    




がんばれ小保方晴子さん35

 

以下({ }内は「捏造の科学者」毎日新聞化学環境部須田桃子著よりの引用)

 

問題

ジャーナリストと、科学者の考え方の相違

@ {「このままの幕引きは科学ジャーナリズムの敗北だ」}

(「捏造の科学者」毎日新聞化学環境部須田桃子著・2014年12月30日第1刷発行のカバーの言葉)

 

A 「今回の検証は、科学のやり方ではない。犯罪者扱いは科学にはあってはならない」

(STAP細胞再現統括責任者相沢慎一特任顧問・朝日新聞2014年12月20日よりの引用)

 

 一方はジャーナリストの意見である。もう一方は科学者の意見である。これは対立する意見である。そこでこの二つを考えてみる。

 

考察1 マスコミと科学の試合の土俵

(1)マスメディアの土俵

「このままの幕引きは科学ジャーナリズムの敗北だ」と、須田氏は頑張った。

マスメディアという土俵で、ジャーナリストと科学者が勝負したら、ジャーナリストが勝つのは当たり前だ。

マスメディアに意見を自由に発表できるのはジャーナリストだけで、科学者の発言や考えは、メディアのフィルターにかけられ、メディアの気に入ったことしか取り上げてもらえない。メディア側が、内容を自由に取捨選択し、好きなコメントをつけられる、のだから、自分たちの主張に有利なことばかりを取り上げ、不利なことは取り上げないということができる。主導権はメディア側にあり、科学者は取り上げてくれてありがとうくらいしかない。

小保方氏の場合も、小保方氏側の意見が載っていたのは、文芸春秋に一回ぐらいだった。他は、小保方は捏造した、という立場からのものばかりだった。調べれば、もっと小保方氏側の意見も載ったものもあったかもしれないが、私の知る限り、STAP細胞はないという記事がほとんどで、STAP細胞は存在するという立場の記事はなかった。せいぜい、文芸春秋の公平な立場で、双方の意見を載せるくらいだった。それが事実だから、というのはあくまでメディア側の意見である。科学者の側の意見ではない。捏造だから当然と考えるかもしれないが、そうではない。それは、メディア側の編集方針であって科学的事実ではない。このことは後段で具体的に検討してみる。

(2)科学の土俵

科学の土俵で、ジャーナリストと、科学者が争ったら、科学者が勝つのは当たりまえだ。科学者はたくさんの発明や発見をするが、ジャーナリストは、何一つ発明も発見もできないだろう。

そんなの当たり前だって。そういうことです。科学しか知らない人と、言葉巧みに、記事を書く人が、記事で争ったら、科学者はなにもできないのと同じです。

(3)比喩で考える

 もう少し例を挙げよう。たとえば、相撲取りと、スピードスケートの選手が争ったらどうだろう。土俵では相撲取りが勝つ。スケートリンクではスピードスケートの選手が勝つ。当たり前だ。

(4)結論

勝負は、「このままの幕引きは科学ジャーナリズムの敗北だ」などと、大見えを切らなくても最初からわかっている。ジャーナリストたちの攻撃に、小保方氏はなすすべもなく地位と名誉を奪われ、笹井氏は、何一つ悪いことはしていないのに、悪者扱いされて、自殺してしまった。こんなのやる前から勝負は決まっていたのだ。

 「今回の検証は、科学のやり方ではない。犯罪者扱いは科学にはあってはならない」と相沢氏が悲嘆に暮れても、最初から勝ち目はないのだから。STAP細胞は存在しなかったのかという記者の質問に。相沢氏は答えに窮しながら「科学者としてお答えできない。言えることは、再現することはできなかったということだ」(朝日新聞より引用)と言っても、もはや、だれもその言葉に耳を貸しはしない。

 

考察2

立場によって取り上げ方に違いがあることを「捏造の科学」に出てくる例で具体的に考えてみる。

問題

{サイエンスの査読でES細胞の混入の可能性が指摘}

考察

これは、サイエンスの査読者が、STAP細胞論文に対しての審査のとき述べた言葉だと、「捏造の科学」にある。これについて、いろいろな立場ではどうなるか考えてみる。

(1)立場による重要度の違い

ア マスコミ

7月5日付毎日新聞朝刊一面(東京本社最終版)に取り上げる。

{STAP論文「ES細胞混入」指摘}という題。

これはSTAP細胞が捏造であったと思わせる記事だ。

イ 科学

ネイチャーに小保方氏のSTAP論文が取り上げられる。

このことから、「ES細胞混入」は考慮されなかったと考えられる。

(後日、論文は取り下げさされたが、これは、マスコミの攻撃が大きな要因になったと思われるので、上記の査読者の疑問とは関係ないと思われる)

ウ 日本の裁判

(実際の裁判はないから、これは私の考えとして、こうなるのではないかと思うことを書いてみる)

 おそらく、捏造の証拠としては「ES細胞混入」は否定されるだろう。

(2)上記の違いの根拠を考える

ア マスコミ

「疑問」、これが、マスコミの重要な要素である。ミステリー小説の読者を引きつける要素と同じである。

 この場合、STAP細胞は捏造ではないかという疑問を裏付けるような新証拠として述べている。

この記事を、スクープとして須田氏は自画自賛している。「捏造の科学」ではスクープ合戦に狂奔する著者の熱情が随所にうかがえる。

ただ、小保方氏のSTAP細胞について、そのまま記事にしたところで、記者も新聞社もなんの手柄にもならない。小保方氏の手柄を日本中に知らせるだけにしかすぎない。ところが、これが捏造だとすると、スクープをあげた記者と新聞社の手がらになる。この場合は、小保方氏の手がらは地に落ち、メディアやジャーナリスト間の手がらの奪い合いになる。須田氏がスクープを上げることに一喜一憂したのは、そのためであろう。「このままの幕引きは科学ジャーナリズムの敗北だ」という言葉もそれをよく表している。

この{サイエンスの査読でES細胞の混入の可能性が指摘}もその一つである。単に、査読を読んでこの部分を見つけただけだ。それは、STAP細胞否定につながる可能性がある。それを言葉巧みに書きさえすればスクープになる。そのことの真実性は必要ない。権威者が言ったということは事実だから、いざというときは(ES細胞からSTAP細胞ができたのではないと後日わかったとしても)それに逃げ込める。

読者は記事を信じた。毎日新聞と須田氏の勝利だ。もちろんそれが真実だからではない。新聞の記事だから読者は信じたのだ。科学の方法を知らない普通の人は、可能性だけでは科学的には意味のないことだとは考えられないのだから。須田氏は科学ジャーナリストだから、可能性だけでは意味がないくらいは知っているはずなのに、不思議だ。科学ジャーナリストの、科学の方ではなく、スクープを上げ、手柄を立てるというジャーナリストの方であったのだろう。

 

イ 科学

 科学の証明には実証が必要である。だから、この査読者の「混入の可能性」という言葉だけでは、STAP細胞の存在を否定することはできない。

 たとえば、刺激によって細胞が多機能性を持つ可能性がある、と考えた場合、それを実験や、観測で実証する必要がある。そのために小保方氏は、何年もかけて、実験し、酸性液の刺激でSTAP細胞を作った。そして、その細胞が、多機能性を持っていることを証明するために、若山氏に依頼して、その細胞から、キメラマウスと、胎盤を作った(作ったのは若山氏)。複数の科学者に、それを確認してもらい、論文にして科学誌に発表した。

 これが科学の手順である。

 では、「ES細胞の混入の可能性」はどうだろう。この可能性が、事実であるというためには、まずES細胞から、キメラマウスと、胎盤を作らなければならない。そしてそれを複数の科学者に確認してもらい、論文にして発表しなければならない。そこまでしなければ、科学としては単なる可能性だけである。科学的証拠にはならない。

 ところが、この査読者はそれについてなにもしていない。証明するための実験も観測も、していない。しようともしていない。だからこれは科学として何の証明にも使えない。

 とくに、以下の事実があることから、これは間違いである可能性の方がはるかに高い。

 ES細胞が混入したということの否定的証拠

・ 科学の世界では、ES細胞から胎盤を作った人はいない。

(ES細胞から胎盤はできないという否定的実証になる。すなわち、ES細胞が混入したとしても、それが原因で胎盤ができたとはいえない)

・ ES細胞は胎盤にはならないというのが科学の世界では今のところ定説である。

・ 丹羽氏は若山氏のつくった胎盤を検査し、STAP細胞の特徴があると述べている。(胎盤はSTAP細胞であるという実証)

このように、否定する実証はあるが、ES細胞から胎盤ができたという実際の証拠は存在しない。

 

ウ 裁判

・ 科学と同じように実証しなければ証拠にはならない。

・ 混入の事実を証明するものがない。いつ誰がどのような方法で混入させたのか、何一つ、説明されていない。

・ 培養のとき、他から何かが混入するというのはあり得ない。なぜなら、他から何かが混入するということは、細菌が混入するということでもある。すぐ腐敗するだろう。素人なら、いざ知らず、科学者が、そのような不手際をするとは思えない。

・ すると,意図的にES細胞を入れたということになる。しかし、この証言では、それは言っていない。裁判では訴えられたこと以外では裁判にはならない。

・ すべてにわたって証拠にはならない。裁判にさえならないといえる。

・ 可能性だけで判決を下すことは裁判にはない。

・ 裁判では弁護側の意見も検事側の意見と対等に意見表明ができる。マスコミが、報道する側の考えに一致するものを大きく取り上げ、反対意見はほとんど書かれないか、書かれても、間違いであるように書かれるのと異なる。

 したがって、この場合、上に書いているような、弁護側のSTAP細胞が存在する科学的実証例が述べられる。

 すると、裏付けの一切ない可能性だけの証言と、実証があり、しかも、可能性を否定する学説がある意見の比較になるから、裁判ではES細胞混入は否定されることになる。

・ また、「捏造の科学」では匿名の人の証言が数多く取り上げられている。それが、判断に大きな影響力を持っている。しかし、裁判では匿名の人の証言は取り上げられない。証言すらさせてもらえない。なぜか。裁判は事実を追求するからである。須田氏のように、スクープに一喜一憂するのではない。大きな違いである。

・ 陪審員裁判では、陪審員はマスコミを見聞きして意見を左右されてはならないことになっているのも、このためである。

 

(4)その他のマスコミと科学の違い

 週刊誌によっては、小保方氏の容貌や、服装について述べていた。あたかも、チャラチャラした小娘に発明などできるわけがないと読者に思い込ませるかのような記事があった。直接言わなくても読者の想像力を刺激してそう思わせるのだ。あるいは、美人だから上司のおじさん学者がひいきしたとか言うのもあった。ひどいのは不倫疑惑まであった。

 能力のある女性が職場で言われる「陰口」とまったく同じ内容だ。典型的な「女性蔑視の悪口」である。いわゆる「職場いじめ」である。本来、悪いのは悪口を言う方である。ところが、このようなデマが、いったんマスメディアに載ると読者に信じられるのである。これも、職場いじめと同じパターンだ。悪口を言われている被害者が悪者になって、加害者が善人になる。この陰口まがいの、女性蔑視が、多くの人にとって、小保方捏造説を信じさせた陰の主役であったのではないだろうか。私のまわりの中年の女性の多くはそれを信じていた。女性蔑視(セクハラ)の考え方を、女性が受け入れるのである。

 

 これもマスコミと、科学の大きな違いだ。

科学では男女は関係ない。女性の顔立ちや、服装などはその人の研究とまるっきり関係ない。美人だから色目を使ってだました、などという最低な考え方は3流週刊誌に任せればいい。科学の世界ではまるっきり問題外だ。

ところがマスコミではこれが重大な位置を占める。情報をマスコミから受ける側も、その話を好むのである。難しい科学の話を聞いてもわからない。しかし、悪口や、性的噂話なら理解できる。ある種の週刊誌のジャーナリストも、科学の話はわからない、しかし、悪口や、性的噂話をでっちあげるのは得意だ、ということなのだろうか。何にしろ、このようなデマがまかり通り、それが、小保方氏のSTAP細胞捏造を普通の人に信じさせる影の力になったことはいえるだろう。

科学では無視されることが、マスコミでは重要視されることは、科学とマスコミの大きな違いの一つである。

 

結論

 このように、科学と、マスコミでは考え方が大きく違う。

 科学では実証が必ず必要である。しかし、マスコミでは実証はいらない、可能性や、疑問だけで十分なのである。そしてそちらの方を重要視する。

科学は、事実を追求する学問だが、マスコミは、ニュースを作るのが仕事だからである。ニュースに実証はいらない。可能性や疑問だけで十分である。可能性が生む疑問の方が、面白いニュースになるし、読者に喜ばれるニュースになる。

「STAP細胞おめでとう」より、「STAP細胞は捏造か?」の方がニュースとしてははるかに面白いのである。

今回ジャーナリストは勝利したが、それはマスコミの土俵上のことだ。科学の土俵では勝負していない。

 2015年になって、小保方氏以外の人の手で、否定されたはずのSTAP細胞の製法とそっくりの製法で多能細胞がつくられている。科学の土俵ではSTAP細胞は生きているのではないだろうか?