「宇宙,無からの創生」(Newton別冊)への疑問と反論 38

著者 高田敞

 

     

 

(以下{ }内は上記本よりの引用)

 

{「ヒッグス場」が素粒子に質量を与えている}(P110

 

問題1

{「場」とは空間が持つ性質のことであり、なじみのあるものに「電場」,「磁場」などがあります。}

考察

「電場」,「磁場」と「ヒッグス場」は根本的に違う。

「電場」,「磁場」は、磁石や、電流がつくりだす。磁石や電流がなければ「電場」,「磁場」はできない。空間の性質というが、それは磁石や、電流の持つエネルギーによってつくられている。空間そのものがつくりだす性質ではない。

 これに対して、ヒッグス場は、もしあるなら、空間そのものが持つ性質のようだ。何かのエネルギーがヒッグス場を作っているのではない。空間そのものがヒッグス場を作り、陽子の130倍もある粒子をびっしり生むという離れ業をやってのけるのだ。このことでも電場や磁場とは違う。電場や磁場は、陽子の130倍もの粒子を生まない。

 ビッグバン論では、高温の火の玉のエネルギーが素粒子を生んだということだ。真空から生まれたのは陽子より小さい素粒子でしかなかった。それが高温でヘリウムまで変化した。その高温でも陽子の4倍のヘリウムまでだった。その後、恒星の中で、高温高圧で核融合が始まり、やっと鉄までできた。それでもまだまだ130倍には届かない。超新星爆発という、巨大な爆発の圧力と熱でやっとそれ以降の元素ができている。

 ところが、ヒッグス場は、圧力があるわけではない、熱があるわけではない、なんのエネルギーも持たない、ただの真空だ。それが、ひょいと、陽子の130倍もの質量のあるヒッグス粒子をびっしりと生成するのだ。いったいどこからそのエネルギーを持ってきたのだろうか。まあ、初期宇宙は、インフレーションビッグバン論者が思いついたらどのようなエネルギーでも即座に無尽蔵に出してくれるようだから、そのような宇宙なのだろう。

 ヒッグス粒子もダークマターのように、見えない、触れない。普通の元素は簡単に見られたり触れたりする。鉄にしろ、銅にしろ、一番小さい水素だって火をつければその瞬間見える。ところが、金ほど重いヒッグス粒子が、私たちのまわりにも満ち満ちているというのに、普通では絶対見えない、触れない、反応しない、どのような観測機器でも観測できない。まるっきり幽霊なのだ。そんなに重いものが空間に満ち満ちていたら、必ず気がつくはずなのだが、その影さえない。それよりはるかに軽い水の中でさえ歩くのに骨折れるのに、である。やっと{世界最高エネルギー加速器「LHC」}でそれらしきものが見つかったという。このことから、ヒッグス粒子は通常はわれわれのまわりにはないが、ヒッグス場というものに強烈な刺激を与えると、飛び出してくるらしい、ということがわかる。不思議な存在だ。あるいは都合のいいものだ。

結論

なぜ、真空は、元素場というのを作って、最初からさまざまな元素を作らなかったのか。真空がヒッグス場を作って、陽子の130倍の質量を持ったヒッグス粒子を作れるのだから、普通の元素だって、元素場から、質量を最初から持って生まれても不思議ではない。

何故、生まれたての宇宙は、質量を持たない陽子より小さな素粒子しかつくれなくて、巨大な質量を持ちながら幽霊のような性質のヒッグス粒子を作って、そこから普通の素粒子に質量を生まれさせるという手間暇かけたのだろう。

簡単である。ビッグバン宇宙論がその仕組みを必要としたからである。宇宙がその仕組みを必要としたからではない。だから、観測には引っかからない。インフレーションビッグバン論者に必要な性質(物質に質量を与える)しか持っていないからだ。これはダークマターも同じ性質を持っている。こちらは、重力だけという性質だが。見えない、触れないというのは同じだ。物質の5倍もの量がありながら、いまだにどのような観測にも引っかからない。重力以外に何もない謎の何かだ。こちらも、ビッグバン論者が重力が必要と思ったから現れた物質なので、重力以外何も持っていないからだ。

このことから、これらの謎の粒子は、インフレーションビッグバン論者の理論の不備を補うために作り上げられた架空の粒子にしかすぎない、ということもいえそうだ。巷のことばで言えば、でっち上げということだ。

ヒッグス粒子は見つかった、ということだが、本当かしら。手前みそではないのかしら。すべての物質に質量を与えたのだから、すべての物質はそれに衝突しているということだ。なにも陽子を光速同士でぶつけなくても、人があるけば通常の状態でぶつかっているはずだ。それなのに何一つ抵抗がないというのはどういうことなのだろう。空気抵抗の方が大きい。自転車で走って、感じるのは空気抵抗で、ヒッグス抵抗ではない。

 

問題2

 {ヒッグス場(水のイメージでえがいた)による“抵抗”が生じ,ほとんどの素粒子は光速で飛べなくなった}

 (ヒッグス場によって、素粒子は動きにくくなる)→(動きにくさは質量である)→(動きにくくなったことで,見かけ上,質量をえている)→(物質は質量をえた)という説明である

 

考察

 これが素粒子が質量を獲得した仕組みということだ。(注;ヒッグス場ではなく、ヒッグス粒子が抵抗になって素粒子に質量を与えたという意見もある。どちらも同じことだという人もいれば、ヒッグス場がヒッグス粒子を生むという人もいる。まだまだ、定説はないみたいだ)

 質量には、動きにくさだけではなく、止まりにくさもある。又重力質量もある。しかし、この本の説明ではヒッグス場(あるいはヒッグス粒子)の抵抗で生じるのは、動きにくさだけである。それも、水の抵抗と同じような仕組みだという。そんなことで、抵抗が、素粒子の質量になったことが説明できたというのだろうか。科学なんてちょろいものらしい。また、質量が持っている他の性質をどのようにヒッグス場が与えたのか、説明する必要がある。

 ヒッグス場ではそれが説明できないから質量を動きにくさと言い換えているのだろう。

ヒッグス場にしろヒッグス粒子にしろ、抵抗しかないから、止まりにくさも、重力質量も与えられない。それでは困るので質量の方を、「止まりにくさ」と言い換えたのだろう。

慣性質量と、重力質量は等価である、動きにくさが生じたら、必然的に重力質量も得られることになる、と説明している人もいるがこれは間違いである。ヒッグス場が「動きにくさ」だけを素粒子に与えたのなら、それが重力質量と等価であるという根拠は崩れる。万有引力=動きにくさとは言えないから等価であるとは言えないことになる。これは、慣性質量と重力質量を測ると同じだから、慣性質量と、重力質量は等価であるといっていることからきているのだろう。これは、質量は慣性質量と重力質量を持っているという前提からの理論である。質量は、動きにくさであるという前提でのことではない。動きにくさは、万有引力ではない。等価ではない。前提を変えたら、当然結果も違ってくる。

 

そもそも重力質量が生じるメカニズムがヒッグス場には存在しないのだから、素粒子が重力質量を手に入れるすべはないのである。素粒子は、ヒッグス場から動きにくさしか手に入れることができない。止まりにくさも、重力質量も生じることはない。

 しかし、現在の物質は、現実に動きにくさばかりではなく、止まりにくさも、重力質量も持っている。ヒッグス場が素粒子に与えた性質と大きな隔たりがある。

 インフレーション論者はそれをこのように説明する。

 素粒子は質量がない→質量は動きにくさだ→ヒッグス場が動きにくさを素粒子に与えた→動きにくさは質量だ→素粒子はヒッグス場から質量をもらった→質量をもらったのだから、素粒子は他の性質、止まりにくさも、重力ももらった→素粒子は質量を持った

 ということである。このながれで一番重要なのは、質量を、「動きにくさ」と言い換えていることである。質量を「動きにくさ」といいかえなければこの流れは成立しないということである。

 やってみよう。

素粒子は質量がない→ヒッグス場が質量をあたえた→素粒子は質量を持った

ということになる。このほうがよほど簡単そうだ。しかし、困ることがある。ヒッグス場が素粒子に質量を与える仕組みがないことだ。「動きにくさ」なら、ヒッグス場の抵抗であるといえばいいのに対して、質量が持つ、慣性質量(「動きにくさ」と止まりにくさを見かけ上持つ、本質は運動エネルギー保存則)と重力質量(万有引力)を素粒子に与えるとなると、ヒッグス場の抵抗だけでは説明できない。「止まりにくさ」しか与えられないヒッグス場を生かすには、質量を、ヒッグス場に合わせて言い換える必要がある。そこで、質量は動きにくさだといいかえたのだろう。質量は動きにくさだという証明はない。動きにくさは、質量の本質である、運動エネルギー保存も、万有引力も持っていないのに、質量だといいきっているのは間違いである。

 要するに、ヒッグス場論は科学ではなく言葉巧み学である、ということだ。これはアインシュタイン直伝なのだろうか。彼はブラウン運動の発見など素晴らしい功績を残した。しかし、相対論の証明で、言葉巧みな言い換え術と、三段論法で煙に巻く方法も後世に残した。実証ではなく、いかにうまく言いくるめるかというやり方だ。

 

{ヒッグス場(水のイメージでえがいた)による“抵抗”}が素粒子に動きにくさを与えた、ということを考えてみる。

 もうひとつの問題は、抵抗である。

水に浮かぶ船は、動くと水の抵抗を受ける。動力を切るとやがて止まる。

 {ヒッグス場(水のイメージでえがいた)による“抵抗”が生じ}素粒子を動きにくくさせる、という。すると、このヒッグス場の中で素粒子が動くと、船のようにやがて止まることにならないのだろうか。考えてみる。

 物質がヒッグス場にある限り、素粒子は抵抗を受け続けることになる。すると、船のように、物質は止まってしまうことになるはずだ。しかし、現在は慣性の法則で、物質は等速直線運動を続ける。ヒッグス場の影響はないと考えられる。すなわちヒッグス場は現在はないとも考えられる。ヒッグス場がなければ抵抗もない。すると、質量もなくなることになる。いや、一度質量をもらったのだから、それは永久に持ち続けるということなのだろうか。すると、抵抗が、素粒子の質量になったシステムがあるはずだ。水の抵抗は水がなくなると消える。ヒッグス粒子がなくなっても動きにくさだけが残るシステムを説明する必要がある。

ところが、加速器で、ヒッグス粒子を空間から叩き出したということだ。このことから現在もヒッグス場は存在しているということになる。ヒッグス場があれば物質は抵抗を受け続けるのだから物質は止まってしまうはすだ。通常世界の通常の物質は慣性の法則で動いている。止まるのは他の物質(水とか空気とか)の抵抗による。

ヒッグス粒子が、抵抗で物質を動きにくくさせているのなら、物質の持つ運動エネルギーはヒッグス粒子に移動して無くなってしまい、止まるはずだ。それが止まらない。慣性の法則は現実に存在する。

ヒッグス粒子が抵抗で「動きにくさ」を与え、なおかつ、等速直線運動をする性質を素粒子に与えた方法を説明する必要がある。そんなものがあればだが。

 

 また、抵抗が、物質に質量を与えるということなら、水や空気も抵抗があるから、物質に質量を与えるはずだ。ところが、そんな現象はない。ヒッグス場の抵抗だけが、物質に質量を与えるようだ。仕組みが違うのだろうが、その違いは説明されていない。

 空気の抵抗は空気がある限り続く。空気がなくなれば無くなる。ところがヒッグス場は一度抵抗で質量を与えてしまうと、あとは何も抵抗を与えないで素通りさせるようだ。今もヒッグス場はあるようだが、今の物質には何一つ抵抗を与えていない。ビッグバンのときに一瞬だけ抵抗して質量を与えたきり、あとは眠っているようだ。最近陽子同士の衝突でびっくりしてヒッグス粒子を1個くらい飛び出させたみたいだが。ほんとかしら。

 

結論

インフレーション論者の必要なことだけしかしないようにしつけられているヒッグス粒子はお利口だからよけいなことはしないのだろうが、それでもあまりにも仕組みがお粗末だ。科学とは思えない説明である。

 

まとめ

 もし、空間に陽子の130倍ものヒッグス粒子が今も満ちていたら、それを押し分けて進むのは至難の技だろう。金の塊の中を進むようなものだろう。それよりはるかに軽い水でさえ進むのは大変なのだから。

 それでは困るので、今はヒッグス粒子はなくヒッグス場だけあるということにしているのだろう。としたら都合がいい話すぎる。ヒッグス場が大きな粒子を出したり引っ込めたりする仕組みを述べなければならない。できないでしょう。

 今、地球の公転も、人間の営みも、ヒッグス粒子の影響は何一つない。ヒッグス粒子は今はないということの証明になる。では、現在の通常の世界では、ヒッグス場だけが残っているのだろうか。それはちょっと都合がよすぎるのじゃないだろうか。

加速器でヒッグス粒子が見つかったというのが真実なら、ヒッグス場もヒッグス粒子も、加速器の中にだけあるということになる。

大昔、すべての素粒子の動きに抵抗を与えたのに、今は総ての物質に何一つ抵抗を与えないというのは、どうしてなのか。簡単である。ヒッグス場も、ヒッグス粒子も、インフレーション論に必要だから作り出されたものであるからだ。インフレーション論者のパソコンの中にだけ存在する場であるということだ。