相対論の二つの土台について目次  相対論の二つの土台2  


「相対論の二つの土台」(Newton 2017,5)について 1

著者 田 敞


(以下{ }内は上記本からの引用)


問題1{速度は見る人の立場によって速くも遅くもなる}

 一見そのとおりのようです。でもそうでしょうか。

 

考察

3通りのボール投げが例として挙げられています。

Aはピッチャーもキャッチャーもその場にいる。Bはピッチャーだけ20キロで前進(キャッチャー方向)しながら投げる。Cはキャッチャーだけが20キロで前進(ピッチャー方向)しながら受ける。

 キャッチャーから見たボールの速度は、Aは150km/h、Bは170km/h、Cは170km/hである。だから{速度は見る人の立場によって速くも遅くもなる}といっている。これについて考えてみます。

これはキャッチャーとボールの相対速度を測っているだけです。地面に対しては、ボールはAとCでは150キロだが、Bは170キロになっています。

ボールが地面に対するのと、キャッチャーに対するのでは、速度が変わります。だから、見る人によって速度が変わるといいたいと思います。でもそうでしょうか。これは見る人によってボールの速度が変わったのでしょうか。見る人によって変わったのは相対速度だけで、ボールの実際の速度は変わっていないのではないでしょうか。

 アインシュタインの得意の思考実験をやってみます。

 この本では以下のようになっています。

 ピッチャープレートをスタートラインとし、キャッチャーの位置をゴールラインとする。

 ACはピッチャーがスタートラインに立って投げ、Bはピッチャーが時速20キロで走ってきてスタートラインから投げる。Cはキャッチャーが時速20キロで走ってきてゴールラインで受ける。ABのキャッチャーはゴールライン上で受ける。

 3者とも、スタートラインで投げ、ゴールラインで受けるということです。ボールの飛ぶ距離は同じです。

 同時に投げると、Bのボールが最初にキャッチャーに届きます。遅れて、AとCのボールが同時にキャッチャーに届きます。

 理由は、Bのボールは、ピッチャーの速度20キロと投げる速度150キロが足されて、時速170キロになっているけれど、AとCのボールは、ピッチャーの投げる速度だけだから、球速は同じ150キロだからです。

 この本では、球速はBとCが同じ170キロになっています。そうすると、BとCのボールが同時にキャッチャーに届き、Aのボールが遅れなくてはなりません。ところが実際はCのボールはBのボールより遅れてキャッチャーに届きます。なぜならCのボールの球速はAのボールと同じだからです。

 ニュートンに慣性の法則というのがあります。新たなエネルギーが加わらない限り物質は等速直線運動をするというものです。

 AとCは投げる力だけがボールに加わっています。だからAとCは同じ速度150km/hになります。Bは投げる力に投手の前進する力がプラスされています。だから運動エネルギーが大きくなり、170km/hになります。

 キャッチャーが動く場合はどうでしょう。キャッチャーがいくら速く走っても球速に影響することはありません。音速で走る台車にキャッチャーが乗ってボールを受けると、ボールの速度が音速プラス150キロになるかというと、そうはなりません。ボールの速度は150キロのままです。ただ、衝突のエネルギーは大きくなるので、キャッチャーの腕は吹っ飛ぶかもしれません。これはキャッチャーが音速でボールにぶつかっていくからです。ボールが音速プラス150キロでキャッチャーにぶつかっていったからではありません。

 反対に、キャッチャーが150キロでボールから逃げたらどうでしょう。ボールの速度は0キロメートルになるのでしょうか。するとボールはピッチャーの足元に落ちてしまいます。そんなことはありません。

もしキャッチャーの速度がボールの速度に影響するなら、キャッチャーはいつも後ろから走ってボールを受けるといいと思います。すると、へぼピッチャーの投げるボールも、時速160キロにもなって名投手になれます。

 実際にはキャッチャーの速度はボールには影響しません。それが事実です。キャッチャーが動いたからといって、球速が20キロメートル速くなることはありません。これが事実です。

結論

 ボールそのものの速度はAとCが同じでBだけ速くなります。この本のBとCが同じ球速170km/hはキャッチャーとボールとの相対速度で、球速ではありません。

 

問題2

 {速度は見る人の立場によって速くも遅くもなる}を他の例で考える。

考察

 では{速度は見る人の立場によって速くも遅くもなる}を他の例で考えてみましょう。

 静岡です。下り新幹線と、下り東海道を列車が並行して走っています。富士山が見えます。

 この本の定理{速度は見る人の立場によって速くも遅くもなる}によると、下りの新幹線の人から見ると、富士山が時速250キロで東京に向かって走っています。富士山は1時間後東京駅に着きます。めでたしめでたしです。しかし、新幹線の乗客は困ってしまいます。自分たちは止まってしまうからです。せっかく京都観光をしようと思っていたのに、これではいつ京都に着くか分かりません。いや、心配には及びません。京都が走ってきてくれます。ということが、相対性原理の素晴らしいところなのです。

 在来線の乗客から見ると、富士山は、時速150キロで、東京に向かって走っています。富士山は困ってしまいます。時速250キロで走っていいのか、150キロで走っていいのか判断できません。どちらかの乗客は目をつぶってくれ、と叫びたくなります。このときの富士山の速度はどちらでしょう。

 新幹線がすれ違います。

 この本の定理からすると、下りの新幹線から見れば、上りの新幹線は時速500キロで東京に向かい、富士山は時速250キロで東京に向かっています。問題はない。ということでしょう。上りの新幹線から見た人は、下りの新幹線は時速500キロで京都に向かい、富士山は時速250キロで京都に向かっていると言うでしょう。{見る立場によって速度は変わる}のですから問題ないというでしょう。

リニア新幹線はいらないですね、在来新幹線で時速500キロ出るのですから。でも、富士山は困ります。どちらに走ったらいいのでしょう。

 新幹線はモーターで走ります。エネルギーは電気です。在来線も同じです。電気エネルギーをモーターの回転に変えて、それを車輪に伝えて走ります。

 では富士山はどうでしょう。富士山を走らせているエネルギーは何でしょう。そんなものはありません。

 富士山が走るわけはありません。小学生は言うでしょう。「富士山が動いているように見えるけれど、本当はこちらが走っているから、そう見えるだけなんだよ」って。

 小学生は、相対性原理という、20世紀最大の天才アインシュタインが考えた理論を知らないからそう言うんだよ。無知なだけなんだよ。この理論に反対するあなたも小学生なみだ、と言うことでしょう。実際の現象は、富士山が走りますか。アインシュタインと一緒にやってみて下さい。

アインシュタインが、軌道から見ると列車が走っている。列車から見ると軌道が走っていると言ったからといって、それを真に受けるなんてどうかしています。アインシュタインが20世紀最大の天才だからといって、何もかも、そうだそうだと受け入れるのは科学ではありません。権威主義にしかすぎません。列車にはエンジンがついていますが、軌道にはエンジンはついていません。軌道が動くということは地球が動くということです。富士山が動くということは地球が動くということです。ヨーロッパで列車が動くと、富士山が動くということです。そんなことを信じている科学者の気がしれません。

 もうひとつ例をあげましょう。静止衛星から見ると、地球は止まっています。自転していません。公転もしていません。すると、万有引力と遠心力の関係で、地球は太陽に落下してしまいます。ところが現実は違います。なぜかというと、地球が{本来の速度}を持っているからです。だから、見る人がだれであっても、火星人が見ようが、かぐや姫が見ようが、アインシュタインが見ようが、静止衛星から見ようが、音速ジェットから見ようが、地球の1日は24時間であるのは変わりがないのです。1年で太陽を1周公転するのは変わりありません。地球は{見る人の立場によって速くも遅くもなる}ということはありません。

 もし、{速度は見る人の立場によって速くも遅くもなる}と、地球から見ると太陽が東から昇り、西に沈み、また東から登ってくるのだから、太陽が地球を1日で1周していることになります。太陽の速度が変わるのです。この本でいうと、キャッチャーが移動しているCの場合です。キャッチャーが時速20キロで動くと球速が20キロ増えて、170キロになる場合の考え方です。

昔の人はそう考えていました。この話は、天動説の復活ということです。

これだけでなく相対性理論は懐古趣味の傾向があります。物は重いから落ちるという考えから、ニュートンが、引き合う力、引力に変えました。アインシュタインはもう一度、物は重いから空間を押し下げる。そこに落ち込むのが重力だと引力から物は重いから落ちる重力に変えました。

 

−続く−