私はとりたててパヴァロッティのファンと云うわけではないが、この写真にはたくさんの素晴らしい想い出が詰まっている。今から20数年前イタリアのモデナ市のベヴィラックワ家のサロンでのスナップだ。
それに先立つ6年前音楽大学の学生だった私は春休みを利用して初めてのイタリア旅行に旅立った。ナポリから乗ったソレント半島一周の観光バスで知り合った初老のイタリア人夫妻は私がオペラを勉強していると知ると、パヴァロッティは彼等の次男の親友だと言う。その時は半信半疑であったが、帰国後ソレントで撮った写真を送ると何とパヴァロッティの直筆サイン入りのLPが送られて来たのだった。私がミラノに留学してすぐ列車で2時間程の彼等が住むモデナに遊びに行くと、彼等は私を街中の親戚縁者や友人らに紹介し、私を彼等の家族の一員として遇する旨告げた。その日からベヴィラックワ家は私のイタリアでの実家となった。クリスマスや復活祭等の休日は言うに及ばず、暇があるとモデナに出かけ彼等と共に過ごし北イタリアの中産階級の家庭生活を身をもって体験する事となった。このへんのことはまたゆっくり紹介するとしてパヴァロッティの事に触れよう。
もうすでに世界的大テノールだった彼は世界中を飛び回りほとんど自宅のあるモデナにいなかったのだが、帰って来るとよく友人達と食事に行ったりしていたようで、ベヴィラックワ家の次男マウロとも必ず連絡を取り合っていた。そこでよく私のもとにもメッセージ、サイン入りの新しいレコードや本が届けられたりしていた。そんなある日突然電話がかかって来た。「明日の昼ルチャーノ(彼等はルチアーノをこう呼ぶ)が家に食事に来るから来ないか」と。あいにく翌日は夕方から通訳のアルバイトが入っていた。食事は無理でもちょっと会って話ぐらいは出来るだろうとモデナに向かった。そしてついに本物が現れた。当時彼はダイエット中で現在程ではなかったが、さすが声のように体もデカかった。マウロから、今日の訪問はプライベートな友人達との会食だからレッスンなどせがまないように、と言われていたのだが、紹介されるとルチャーノは私をピアノの所に連れて行き簡単なヴォカリーゼを歌わせ、いくつかのアドバイスを与えてくれた。そして私がすぐミラノに戻らなくてはならない事を知ると、まだ食事には早いのに彼も大好きなベヴィラックワ家特製のパスタ“タリアテッレ”を私と一緒に食べてくれたのだった。もちろん彼はその後友人達と又食べ直したそうだが。なお私はこの秘伝の“タリアテッレ”をマウロの母リーナにパスタの打ち方から習い、我が家の食卓の重要なメニューとなっている。ルチャーノは気取らぬ朗らかな人だった。
かの有名なカンツォーネ"Santa Lucia"にまつわる話を少々。本来女性の聖人の名前で、ご存知のようにナポリの海岸の一部の地名であり、そこを歌った歌である。正しくは「サンタ ルチーア」と書くべきところだろうが、日本式に「サンタルチア」とさせていただく。(私は子供の頃『サンタ・ルチア』ではなく、『サンタル・チア』だとばかり思ってました。エッ、あなたもですか?!)
普通「サンタルチア』の楽譜にはこの歌の作曲者としてテオドーロ・コットラウという名前が記されている。しかし彼が本当に作曲したかどうかは定かではない。彼の父、ギヨーム・ルイ・コットラウはナポリに定住したフランス人作曲家で、この地で<Girard>という音楽出版社を19世紀初頭に設立した。1827年生まれの息子は父の仕事を引き継ぎ、古くから歌い継がれてきたナポリのカンツォーネを次々に採譜しては出版した。そのお陰でいまだに我々はこれらの古い歌を歌う事が出来るのだ。私の手許にあるイタリアの資料でもこの歌は彼の作曲とされて入るが、私の敬愛する偉大なナポレターナの歌手であり研究家の(その父は偉大なナポレターナの作詞家であった)ロベルト・ムーロロは、『コットラウはサンタルチーア(当時は漁村であった)の漁師達によって歌い継がれていたこの歌を、採譜し、アレンジして出版した。』とそのアンソロジーの解説に記している。また"Sul mare lucica〜"という良く知られた歌詞はコットラウが出版した際に、コソヴィッチ(これも本来イタリア人の姓ではなく、何者か不明)がナポリ方言の歌詞からイタリア標準語へと直した、いわば『訳詞』である事も記されている。
さて私がミラノで暮らしていた頃、詐欺同然ではあったがアルバイトにピアノやギターを教えていた。生徒はイタリア人やらイラン人、そして日本人の子供達も多くいた。イタリア人に教える際に印象的だった事は、ご存知のように<フォルテ>とか<ダ カーポ>だとかいう音楽用語は全部イタリア語なので説明しなくても生徒は読んだその通りに理解し弾いてくれるのだ。さて現地日本人学校に通う生徒の一人が学芸会でコーラスの伴奏をするというので見学に出かけた。会場に近所のイタリア人の小学校の子供達が大勢招待されていて、日本人の子供達が演ずる「走れメロス」等の劇に大喝采を送り大いに盛り上がっていた。プログラムの最後は日本人の子供達のコーラスで私の生徒が何とか無事に大役を果たしてくれた。その最後にイタリア人の子供達にも一緒に歌いましょうと呼び掛けて「サンタルチア」をイタリア語で歌った。ところがイタリア人の子供達は誰もこの有名な歌を知らず沈黙してしまった。イタリアは北と南のギャップが大きく人々の多くは互いに快く思っていない。ミラノがある北イタリアではナポリに代表される南部を軽蔑する風潮が強い。ここでは「オーソレミオ」より「ラ マドニーナ」(ミラノの代表的カンツォーネ。皆さんご存知ですか?!)の方がポピュラーなのだ。それに小学校には音楽の授業はなく、ミラノの子供達は「サンタルチア」という歌を聞いた事も習った事もなかったのだ。
<Santa Lucia> 「サンタ ルチーア」
訳詞 友谷達則
1) 風爽やか 月輝き 波穏やか 空も澄み
何してるの 海においで
サンタルチーア サンタルチーア
2)そよ風吹けば 心なごんで 楽しいひととき すごそうよ
舟の準備 もう出来てる
サンタルチーア サンタルチーア 3)テントをたてて 食事の用意 たっぷり食べて 満足しよう どうぞ僕の 舟に乗って サンタルチーア サンタルチーア![]()
サンタルチーアの風景 1972年3月初めてナポリを訪れた際に撮影。
今月もパヴァロッティと食事をしたモデナでのお話し。
イタリアでの私の実家、ベヴィラックワ家の長男Marioはイタリア人のくせにRの巻舌が出来ない。つまり自分の名前を正しく発音できないのだ!。ある日彼は私を彼の友人が勤めている地元のUHFのテレビ局に連れて行った。スタジオに入ると何か歌ってみてくれと言うので、そこにあったピアノで「Core 'ngrato(カタリ−)」を引きながら歌うと(ピアノの弾き語りはそれしか出来なかった)、その夜8時から放送予定の映画を30分繰り下げ、私の特別番組を作るから出演してほしいと言うのだ!。大体国営放送のRAIでも「映画xxxは***時頃から」とかいうのは当たり前、しばしば番組が何分も遅れて始まったり、逆に番組が早く終わって時報用の時計だけが映しっぱなしになっていたりする国なので、多少の事では驚かないがこれにはさすが驚いた。夜になり急きょ借り受けたギターを手にスタジオに入った。インタヴューを挿みながら主にカンツォーネを弾き語りで歌った。放送終了後ディレクターが個人的にオペラ「愛の妙薬」の「人知れぬ涙」を歌ってくれと言うので歌うと「なんて美しい声だ!」と感激して涙を流しながら聞いてくれた。さらに局には放送後何本か電話が入り、その中には私の歌った「マンマ」を聞き、亡くなったお母さんを思って泣いてしまった、という女性からのもあったと言う話だった。この局はFMもやっていて、マリア・グラーツィアという名のDJの女の子と友達になった。名前はかっこいいのでどんな美人かと思うと、残念でした。どちらかと言うと亭主を怒鳴り付けている肝っ玉母さんを少し若くしたような感じと言ったら分かりやすいかも。しかしいかにもイタリア人らしい陽気な娘で、彼女とも家族付き合いになる。その次ぎモデナに行った時はついに彼女の番組にも出演してDJまでやってしまった。彼女はその後玉の輿に乗り"Contessa"つまり伯爵婦人になってしまう。訪れてみると館の裏手には森があり、サロンには歴代の伯爵の肖像画が掲げられ、田舎貴族とはいえ上流社会の生活を垣間見ることが出来た。しかしその後モデナで、まるでロワール川の古城巡りツアーにでも出てきそうな、この伯爵家より更に凄い豪邸に遭遇した。まずその館の裏門の前に立つと、たかさ5m位はありそうな大きな古い鉄棒製のゲートと、左右にそれぞれ30mくらいのフェンスが続く。なかは真ん中に真直ぐ小道が続き左右は畑でずっとむこう百数十メートルくらい先まで続いてトラクターが耕していた。そのまたむこうに鬱蒼と茂った林があり、更にそのむこうに3階建ての館の屋根が見えている。その館の主こそはあのパヴァロッティだったのだが、なんとその年、若い彼女の存在が明るみに出て離婚、この館を奥さんに譲り渡して出て行ったのだった。
テレビ出演中のスタジオで 旧パヴァロッティ御殿前にて
イタリアを相手にビジネスをするのは大変だという話はよく聞く。納期を守らないだの、休んでばかりだのと悪評ばかりだ。確かに日本の商習慣から見ればルーズなのだろう。ある知人が絹のスカーフをさる有名なデザイナーにデザインさせイタリアのある染色工場に発注したものの納期がいい加減で困り果て、ドイツに発注してみたところ、こっちはきっちり契約通りに納品してきたそうだ。ところが肝心の色とか風合いとかがちっとも良くなく、「味がない」製品になってしまったそうだ。これでは売れないというのでやむなくまた元のイタリアの工場に再発注。相変わらず納期はいい加減だったものの、なんとも言えない良い風合いに仕上がり、ホッと胸を撫で下ろしたそうだ。
以前ある舞台関係者がローマで公演をしてきた。帰国後感想を尋ねたところよほど苦労をしてきたらしく、「あそこは仕事をしに行くところじゃない。でもアーチストとしてはあんなに居心地のいい国はない。」と話してくれた。私もこの意見には賛同する。しかしここではビジネスのいい加減さをあげつらうよりは良い方の話をしよう。
イタリアは国中が芸術であると言っても過言ではないだろう。当然芸術家にとっては居心地も良い訳だが、何よりも特筆すべきは人々の芸術に対する意識の高さだろう。人々の持つ芸術的センスの凄さはもちろんの事、その価値観の高さ、つまり芸術にどれだけ高い価値観を置いているかは、一般的には我が国とは大きな差があると言わざるをえない。パヴァロッティの故郷モデナの旧市街の真ん中に、街のシンボル、通称"ギルランディーナ(花束)"と呼ばれる美しい白い大理石の鐘楼を持つ大聖堂がある。そしてその向いに「芸術家教会」という古い教会があって、時折「芸術家のミサ」というのが行われる。1980年5月イタリア留学も丸3年目を迎えた頃、私はこのミサに招かれた。見上げるばかりの高い天井にパイプオルガンの荘厳な音色が響く。ここまでは普通のミサと何ら変わることはないのだが違うのはここからだ。普通なら聖歌隊または会衆が聖歌を合唱するのだが、ここではその代わりにゲストとして招かれた私がパイプオルガンの伴奏で聖歌を独唱しミサが進行する。このような環境で歌えるだけでも感激だったのだが、ミサの一番最後に会衆の代表が祭壇に進み出て跪き、何と!「芸術を我々に与え給うた神様と、それを我々に直接伝えてくれる芸術家に心からの感謝と祈りを捧げます」という祈りを捧げてくれたのだった。芸術家の端くれとはいえ、一応はそのミサに芸術家の代表として招かれていた私の前でである。イタリアという国がどれだけアーティストにとって居心地が良い国であるかというほんの一例をお話した次第。
9月号ではミラノの子供達が「サンタ・ルチア」を知らなかったという話を書いた。何しろミラノをはじめ北イタリアの人間の多くは、ナポリをはじめとする南イタリアの人間を「やつらは怠者で貧乏人」とバカにしきっているのだ。北も南も等しく大好きな私には何と悲しい風潮だろう。
ミラノに留学してすぐ、仲の良かったミラノっ子の友人達に誘われて、街はずれにある「ガット・ネーロ(黒猫)」という居酒屋に遊びに行った。ここは週末の夜11時を過ぎると急に賑やかになる。老若男女を問わずグループごとにギターを抱えやって来ては、「バルベーラ」とか「ドルチェット」等の地の赤ワインを飲みながら、それぞれに好きなカンツォーネを歌って盛り上がる店なのだ。そこを初めて訪れた夜、何か歌えというので「オー・ソーレ・ミーオ」を歌った。皆一応静かに聞いてくれて中には一緒に歌ってくれる人もいたのだが、どうも今一つ盛り上がらない。アンコールに応えて「カタリー(Core
'ngrato)」を歌うがこれも今一つ。こっちは上手く歌ったつもりなのに何故?と、その夜はもっぱら聞く方に回ったのだが、この店で皆が歌って盛り上がっている歌を私はほとんど知らなかった。聞けばそれは多くがミラノ方言で歌われるミラノのカンツォーネ"Canzone
Milanese"であるという。いくら名曲でもナポリの歌を歌っても受けない訳が良く分かった。北と南の仲の悪さがこんな所まで及んでいたのだった。そこでさっそく友人に付合ってもらってミラネーゼの楽譜を早速買い込み、方言もミラノっ子達に教えてもらい、ギターを弾きながら歌い込み数曲をモノにしたところで、再び「ガット・ネーロ」へと乗り込む。ミラネーゼの代表曲「ラ・マドニーナ」を完璧なミラノ訛りで歌うと、拍手喝采、その受け方たるや予想をはるかに超え、その夜はあちこちのテーブルに引っ張りだことなり、ワインや料理がドーンと差し入れられたり、店も私の分の勘定をついに取ってはくれなかった。以降いつ行っても歓待され、ここでミラネーゼ以外にも人気のある多くのカンツォーネを覚えることが出来たのだった。はっきり言って経済とは違って、カンツォーネ・ミラネーゼはナポリターナよりは音楽的にもヒット曲の数もランクは数段劣る。しかしなかなか味のある渋い歌が多くあり、今ミラネーゼを歌えば、修行時代を過ごした想い出の街、あの寒々とした濃い霧に包まれた灰色の町並みすら懐かしく、優しく親切だった友人たちの面影が蘇り目頭が熱くなるのだ。
その日配られた非売品のスカラ座での未発表のライヴ録音のLPのジャケット。「メデア」「夢遊病の女」「ノルマ」「マクベス」「ト
ロヴァトーレ」「椿姫」の1952年から1955年にかけてのスカラ座での記録が収められている。指揮者の名を見ると、A.ヴォット、C.M
ジュリーニと並んでL.バーンスタイン(メデア・夢遊病の女)の名も見える。1977年10月16日(日)16時とジャケットの裏に記されて
いる。右下にスカラ座のマークがあり公式の物であることを示している。
この冬もスカラ座では数々のオペラ・バレーの名演が繰り広げられていることだろう。私の留学中の三年間のスカラ座通での想い出を前号に引き続き幾つかお話ししよう。
現在スカラ座のチケットは超入手困難なプラチナチケットであるが、その頃も今程ではないにしろ、やはり手に入れるためにはかなりの努力と運が必要だった。私は貧乏学生の身分なので当然安い天井桟敷の座席を、予約開始と同時に郵便局から振替を送って申込む。たまたま年金の受給日等とぶつかると郵便局はどこも押し合いへし合いの大混乱となる。大抵午前中いっぱいかかってやっとの思いで為替を送る。それでも上手くするとチケットが手に入るのだが、大抵は返金の振替のみが送られてくる。取れる確率はせいぜい3割位といったところだっただろうか。取れなかったり、また急に思い立った時などは約五百円の天井桟敷の立見をねらう。大抵は昼過ぎから並べば入れたが、人気のある演目だと朝から並んだものだった。立見の良い位置を占めようとすれば、階段を6階まで駆け上がって行かねばならなかったが、何度も見ている演目は切符を手に入れてから一旦帰宅し、食事を済ませて開演ギリギリに出かけて行く。何しろ始まるのが8時か8時半だ。こんな時は桟敷後方のベンチに腰掛け、舞台は見ずに音だけ聴く。とにかく天井桟敷の立ち見は体力と暇のある方が有利なので私は得だった。
ご存知のように天井桟敷はオペラ狂の巣窟だ。誰かが「ブラヴォー」を叫んでも自分が気に入らなければすぐ「シーッ」とやり返す。またアリアが終わっても後奏が鳴り止むまでは決して拍手をしない、誰かが叩くとすぐ「シーッ」とやられる。口角泡を飛ばして猛烈な論争を始める輩もいる。例えば私が目撃した例としてはドミンゴが<オテロ>を歌った時のことだ。カーテンコールで「ブラヴォー!」を叫ぶ観客の隣にいた年輩の女性がその人に冷ややかにこう言った。「笑わせないで、どこがブラヴォーなの。マリオ
デル モナコはこんなもんじゃなかったわよ!」てなもんである。言われた方ももちろん黙ってはいない。ドミンゴといえば面白い癖があった。開演前多くの歌手は皆楽屋やリハーサル室等で、また舞台でやるとしても開場前に発声練習をするものだが、彼だけはよく開場後観客が入り始めてから緞帳の降りている舞台で発声練習をしていた。何しろドミンゴの発声練習が生で聞けるのだから、早くから来て退屈している天井桟敷のファン達は大喜びで、発声練習に拍手とブラヴォー!が贈られた。
歌劇場の場合客席と舞台の間にはオーケストラピットがあるため、花束をコンサートのように舞台の歌手に観客が直接手渡す事が出来ない。そこでスカラ座ではオケピットの真上まである天井桟敷から(ここからは舞台は前っ面以外ほとんど見えないが)カーテンコールに出て来た歌手や指揮者に花を投げ落とすのだ。まさに花の雨がステージに降り注ぐという感じで美しいものである。私が師事していたソプラノのチオーニが主役を歌う時には私もよくここから舞台に花を投げ落とし、拾ったチオーニがこっちを見上げて手を振ってくれたのがなつかしい。
私が始めて体験したスカラ座のシーズンは創立200周年の特別なシーズンで、特に豪華なプログラムが続いた。その中でも忘れられない公演に、ヴェルディのレクイエムがある。会場はスカラ座でなく、その初演が行われたミラノ市内のある教会。アッバードの指揮、スカラ座管弦楽団、合唱団、Sop.フレーニ,
Alt.オブラスツォワ, Ten.パヴァロッティ,Bs.ギャウロフという凄い顔合わせ。私は幸い切符を入手出来たが、入れない人々が教会の周囲に溢れ、内の様子が映し出される何台ものテレビのモニターが置かれ、多くの群集がそれを囲んだ。みぞれが降る寒い夜だった。スカラ座はヴェルディの本家、家元である。ミラノに住みスカラ座に通っているだけで私はヴェルディはかく演奏されるべきである、と云う事を知らず知らずのうちに学んだと思う。その夜の演奏は忘れられぬ名演であった。凍るようなみぞれに濡れながら帰りのバスを待つ間、体の中を駆け巡るその高揚と幸福に心は充たされ熱かった。ミラノの寒く陰気な冬も、人々はこれがあるから過ごしていけるのではと、つくづく羨ましく思った夜だった。
雪の日のスカラ座正面。冬のミラノらしい風景。 1階平戸間から見上げたスカラ座のシャンデリア
昨年スペインの名テノール、アルフレード・クラウスが72才で亡くなった。最期まで舞台に立っていたのかは知らないが、ほぼ現役のまま亡くなったと言っていいはずだ。一般的に寿命の短いテノールとしては極めて異例な事だろう。
私が始めて彼の舞台に接したのは、音大目指して浪人中にNHKが招聘した「イタリア歌劇団」公演のドニゼッティ作曲「ラ・ファヴォリータ」だった。生れて初めて聞く生の本物のベルカントオペラに衝撃を受け、のめり込んでしまったのだった。自分も勉強をすればクラウスの様に歌えるようになるかもしれない、などと思ったのがそもそも人生の大いなる誤りの元だったかもしれない。とにかく彼の声は凄かった。ただ声が大きいとか、高い声がいくらでも完璧に出るとかだけでなく、その知的で端正な歌唱も驚きであった。またその舞台姿が美しく気品にあふれ、私はすっかり彼のファンになってしまった。数年後にもう一度最後の「イタオペ」で来日し、今度はグノーのファウストを歌った。これも凄かった。留学中のスカラ座ではマスネーの「ウエルテル」があり、彼の出る日は全部天井桟敷に通った。当時すでに50代であったわけだが、その声も舞台姿も若々しく、凛々しい青年ウエルテルだった。スカラ座に出演した歌手にサインを貰おうと思ったら、終演後しばらく寒い楽屋口で待ち、お目当ての歌手が出て来るのを待たなければならない。また出て来てもサインに応じてくれるとは限らない。しかしクラウスだけはメイクも落さず、衣装のままで終演後すぐ楽屋口に現れ、受付窓口に座り、行列したファン一人一人の差し出すプログラムに快くサインをし、握手をしてくれたのだった。しかし目の前の彼の顔をよく見れば、ドーランの下に皺が目立ち、さすが歳は隠せなかった。彼のスカラ座でのコンサートの時だった。プログラム最後の歌が終わり、満場の拍手鳴り止まずアンコールとなった。彼は数曲モーツァルトやスペインの曲を歌った。しかしスカラ座の聴衆は誰も満足せず、次々とアンコールを求め彼を舞台から解放しようとしない。5曲か6曲のアンコールの後、クラウスの歌ったその歌に聴衆はやっと満足してリサイタルは終り彼は解放された。その歌は<リゴレット>の「女心の歌」だった。似たような事が同じスペインのテナー、ホセ・カレーラスのコンサートの時もあった.彼の場合はあのカンツォーネ・ナポレターナ「つれない心」通称「カタリー」だった。イタリアのオペラファンはやっぱりこうじゃなきゃダメなんだ!と実感したものだ。私の師匠のチオーニはクラウスとの共演が数多いが、彼の凄さの一面についてこんな話を聞かせてくれた。オペラ歌手はだいたい誰でも朝は苦手なもので、声も良く出ない。特にテノールはそうなのに彼だけはどんなに朝早くからのリハーサルでもいともやすやすと声が出て、常に完璧に本番同様に歌えると舌をまいていた。当時日本では入手困難だった"Buongiovanni"というボローニャの出版社が出していた、マイナーレーベルの彼の数枚のアリア集のLPと、楽屋口でプログラムの写真にもらったサインは今も大事な私の宝物である。
楽屋口で貰ったサイン Buongiovann版LPのジャケット。ファウストのコスチューム。
ロベルト・ムーロロ(ムローロと呼ぶ人もいるが、ムーロロが正しい。)というナポレターナ(ナポリターナ)歌手をご存知だろうか。ドマ通読者の中にはご存知の方も多いとは思うが、一般に我が国では、かなりカンツォーネがお好きな方でも知らない方のほうが多いだろう。ところがイタリアでは超有名人、ナポレターナと言えばムーロロ、ムーロロと言えばナポレターナ、ナポレターナの神様、国民的な敬愛を受ける偉大な歌手なのだ。と言うと知らない方はどんな凄い声をしているんだろうと思われるかもしれない。ところが残念でした、イタリアでは素人でも彼より立派な声の人は掃いて捨てるほどいる。きれいな声ではあっても特別美しいというわけではないし、声域も狭く、ごく普通の人の声だ。では実は凄いテクニックでも持っているかと言えばこれもNo!.歌の技術を聞かせる歌手でもない。ギターの弾き語りで歌うがそのギターも特別うまいというレベルではない。ではなぜ?!そう、それはハート。ただ情熱的なだけがナポリの心ではないと思う。愛する人への優しさ、人間としての悲しみ、温かさ、ナポリ人だけではなく人間の持つ普遍的な心を、ナポリの雰囲気と共に歌うことが出来る歌手なのだ。まったく誇張のない、素直な歌い回し、そこからにじみ出てくる人間性が聴衆の心を打つ。これが第一の理由だと思う。ロベルトの父エルネストは有名な作詞家で、今世紀初頭"Piscatore
'e Pusilleco""Napule ca se ne va"等のナポレターナの名曲を数多く作詞し、本当のナポリの心を書くことの出来る数少ない詩人であったと言われている。そんな家庭環境でカンツォーネにどっぷりと浸かって、当然本物のナポレターナを自然と身につけ育ったわけだ。そしてロベルトもシンガーソングライターとしてその天分も受け継ぎ、「センプリチタ」「ロバに引かれて」などその人柄がしのばれる素朴で美しい多くのヒット曲を持っている。私がミラノに留学中のことだった。時々テレビに登場し、優しい声でにこにこ笑いながら、わたしが知らないカンツォーネを歌う老歌手がいた。その頃レコード屋で12枚組のナポレターナのアンソロジーのLPを見つけ、それがその老歌手の物であることを知り、財布をはたいて買ってしまった。そう、それがムーロロであった。12枚のLPを私は一気に聞いてしまった。そしてその日から人生が変わってしまった。それまで聞いたことのなかった名曲の数々とムーロロの歌い方にすっかり魅了されたのだった。その録音はギター2本のみの伴奏で歌われていた。へたくそではあるが幸い私はギターを弾きながら歌うことが出来たので、楽譜を探し、見つからなければ自分で採譜しレパートリーを広げ始めた。また通っていたイタリア語学校の先生がナポリ出身の家系ということで、授業が終わってから教室に残り、ただでナポリ方言の歌詞の解釈を個人指導してくださった。この時のノートは今も貴重な資料として、いまだに続くナポレターナの更なるレパートリー作りの基礎となっている。またナポリ語の辞書(イタリア標準語と対訳になっている)も購入、現在百曲余となった私のナポレターナの訳詞のための、これも強力な武器となった。彼がいなかったら、私は別な人生を歩んでいたに違いない。
最近のムーロロのCDのジャケット。
今年(2000年)8月でイタリア留学から帰国してちょうど20年になった。この間いろいろな舞台に立ってきた。有名な大劇場の舞台から、田舎の学校の体育館まで・・・。ちゃんと数えたことはないがとにかく数多くの舞台を踏んできたわけなのでいろいろと「どじ」も踏んできた。今回は忘れられないどじの数々の中から、恥を忍んでまず一つお話ししよう。
ミュージカルのデビューとなった日生劇場での東宝の「マイフェアレディー」。とにかく初めてのミュージカル、初めての商業演劇の世界で戸惑うことが多かった。その一つが役者の付けるワイヤレスのピンマイクだった。それまでオペラ、オペレッタしか出たことが無く、ピンマイクをつけるのも初めてのことだった。普通衣装の襟のところに目立たぬよう小さいマイク本体をピンで留め、衣装の下にコードを通して後ろに回し、袋に入れて腰のあたりに吊した送信機から電波を送り、音響さんがボリュームを調節して会場に音を流すという寸法。出ずっぱりの主役には一人一台が与えられていて、付けっぱなしなのだが、我々出入りが多い役者は、一台を何人かで使い回す。使い終わった役者ははずして、舞台袖の所定の位置に置いておくと、次に使う役者が今度はそれを付け、舞台に出て行く。 初めのうちは緊張していたのでそんなどじは踏まなかったのだが、公演も残り少なくなってきたある日のことだった。終演後隣の帝国ホテルのティーラウンジでお茶しながら、その話題で盛り上がったので良く覚えているのだが、高校の同級生で女優でフルーティストの神崎愛が見に来ていた日だった。2幕で暗転中に私は板付き、ヒギンズ邸前の街路灯にもたれかかり、灯りがぼーっと灯ってくると、「君住む街角」を静かに歌い出す。この日、この部分を歌い出すと、いつもは客席にスピーカーから僕の歌が流れているのが聞こえるのに、どうしたことかそれが聞こえてこない。『あれっ!』と思い、何気なく視線を襟元に落とすと、付けてあるはずのピンマイクが無い!『うわーやばい!付けるの忘れた!!!』と思ったがもう後の祭り、何とかこの場を乗り切らなくてはならない。そこで私は唱法をそれまでのポピュラー唱法からベルカント唱法、つまりオペラ用の発声に切り替えたのだった。瞬間声量がドーンと向上、さりげなく歩きながら舞台の前の方に行き、ごく自然に客席との距離を詰める。これで私の声はマイクを頼らずとも生で客席に響く。この時ほどオペラの勉強をしてきて良かったと思ったことはない。こうしてその場は無事歌いきる事が出来た・・・のだったが、問題は次のシーン。ヒギンズ邸から出てきたイライザ(栗原小巻さん)とのからみだ。彼女は当然ちゃんとピンマイクをつけている。『わーっ、どーしよー!』頭はパニックだ。・・・でも何とかこの場も乗り切った。どうごまかしたかって?!、袖に引っ込んでから小巻さんが私に言った、「ねえ、なんか今日はみょうに私にくっついていなかった?」。そう、私は小巻さんに可能な限り近付き彼女の襟元のピンマイクを利用させてもらったのだった。とりあえず音響室に内線電話を入れてあやまり、(音響さんは私の声がオンラインでやって来ないためパニックになっていた。)翌日改めてビール券を持って音響室までお詫びに行ったのだった。
前号に引き続き舞台上でのどじを今回も恥を忍びつつ一般公開。今回はまだプロになる前、学生時代の話である。
音楽大学の4年生の時「重唱」という授業があった。これはオペラの重唱シーンを演技付きで勉強する授業である。声楽科
の学生は圧倒的に女性が多く、男子学生は一人で何人もの女子学生の相手をしなくてはならないので大変だが、(えっ、羨
ましいって?ハッハッハッ・・・、そんな甘いもんじゃあないです。)まあともかくその分同じ授業料でたくさん勉強でき
るので得ではあるわけです。さて、前期、後期各一回校内のオペラスタディオで発表会がある。ここは狭いながら舞台があ
り、一応劇場の体をなしている。発表会では簡単な衣装、小道具も使い歌い演じる。確か後期の発表会だったと思う。モー
ツアルトの「女は皆こうしたもの」のデュエットをした。私が短剣を持って女に迫り、私を愛してくれないならこのナイフ
で自殺すると脅す。相手は隙を見て私からナイフを取り上げる。そしてそのナイフを彼女の立ち位置のそばのサイドテーブ
ル上に置く段取りになっていた。リハーサルでは上手く出来ていたのに、本番ではとんだハプニングが待っていた。何故か
サイドテーブルがリハーサルの時の場所に無く舞台のずっと奥に置かれていたのだ。しかも短剣はこれまた何故か長いサー
ベルになっていたのだった。
さて本番が始まり練習通り私は彼女に迫った、彼女は私からサーベルを取り上げた。私は彼女に対して背を向ける格好
で半身になりながら独白の部分を歌い、そして段取り通り彼女を背後から抱きしめるために振り返って、抱きしめようと
したその瞬間、ものすごいショックが襲い、私の視線の先には舞台の天井があった。私のおなかの上には彼女のお尻が乗
っかり、重なり合って二人は舞台に横たわっていた。一瞬何が起こったのか理解できなかった。客席は爆笑の渦。指揮の
先生も両腕を振り上げ音楽を止めた姿勢のまま笑い転げている。我々がもぞもぞ起きあがり体勢を整えてもしばらく笑い
は続きやっと収まってきたところで続きが始まったが、当然雰囲気はぶち壊し、我々の歌もメロメロ。笑われるは痛いは
とんでもないステージとなってしまったのだった。終演後我々二人の間では当然非難の応酬となった。しかしどうしたっ
て非は彼女にあった。なぜなら彼女は私から取り上げたサーベルの処理に困ったのだった。置くはずのサイドテーブルが
そばになかったのだ。プロなら歌いながらでも歌って無くてもアドリブ芝居でさりげなくテーブルまで置きに行っただろ
う。しかし慣れない彼女はその場面で動くという段取りにはなっていなかったから、当然動けなかった。置きに行くとい
うことが出来ず、サーベルを何と!足もとに転がしてしまっていたのだった。そうなんです。ご想像の通り。そんなこと
とはつゆ知らず、私は振り向きざまに彼女を抱こうと一歩踏み出したとたん、そのサーベルを踏んでしまい自分で倒れる
だけならまだしも、彼女の足をはらう形で転倒したため、まるで柔道の技が見事にかかった感じで私の上にどさっと落ち
てきたのだった。例の先日のオリンピックの柔道のニュージーランドの主審でも誤審せずに「イッポーン!」と手を上げ
てくれただろうというくらい見事に。
幸いプロになってからはまだこの技はご披露せずに済んでいる。但し舞台上の自損事故で肉体的に痛〜い体験をしてい
るのでそれはまた次回。
さて、恥を忍びつつの舞台での失敗シリーズ第3弾をお届けしよう。前号の予告通り今回は文字通り痛〜い失敗。
これは1989年の東宝のミュージカル「ラマンチャの男」出演中のこと。私は「ギター弾き」という役名でプログラムに載っ
ている。オリジナルの台本にはこんな役名はない。本来「アンセルモ」というのが私の役名であった。この役は「小鳥よ小
鳥」というカリプソ風の美しいアリアがあるので、代々オペラ界からミュージカルに強いテノールが起用されるという伝統が
ある。この歌は舞台ではギター伴奏で歌われるのだが、それ以前、またその後はプロのギタリストに衣装を着せて舞台に上
げ、伴奏をさせて来たのだ。役が決ってしばらくすると音楽監督から電話がかかってきた。私が少々ギターを弾くことを知っ
ている彼は、私に自分でギターを弾きながら歌ってみたらどうだと言うのであった。そこで、いえ、僕には出来ません、とお
断りしていればあの悲劇は起こらなかったのだ。お調子者の私は、うん、面白そうだと愚かにも引き受けてしまったのだ。ま
だ本番までに半年の猶予があったので、私はそれからスパニッシュギターのテクニックを学ぶべく、フラメンコギターの先生
に弟子入りした。そうこうするうちに公演が近づいてきてミュージカルの稽古が始まった。ここで音楽監督から更なる依頼
を突きつけられる。幕開きの暗転中に歌われるスペイン風のメロディー、これは従来別の役者がギター伴奏で歌って居たのだ
が、この歌とギターを私が兼任し、またアルドンサ(故上月昇さん)のアリア前半の伴奏、これも従来 ギタリストが舞台で
弾いていたのだが、これも任されてしまったのだった。なおこれだけ仕事が増えてしまったがギャラは増えなかった!
さて青山劇場の公演は4〜5月の2ヶ月間だった。無事に初日を迎えて約1週間ほどたった頃である。アルドンサのアリア
のシーンが始まる前、私は舞台の下の階段のところにギターを抱えてスタンバイをする。前のシーンが終わると舞台は暗転し
その間に我々はワーっと階段を駆け上り舞台に走り所定の場所に付く。すると再び照明が入り二言三言セリフがあり、私はギ
ターを弾きはじめアルドンサが歌うのだ。その日は前のシーンで出ていた人がなぜか引っ込んでくるのが遅かった。早く引っ
込んでもらわないとこっちは出ていけないのだ。それでもやっとの事で私は舞台へ飛び出した。あせらなくても良かったのだ
が何故かかなりあわててしまっていた。わたしの位置はステージ下手側の階段(舞台にも階段がある)の上の方で、階段に
腰掛けてギターを弾くわけだ。そしてこの時私は何と足を滑らせ、ギターを両手で抱えたまま尾てい骨で階段を数段落ちてし
まったのだった。尾てい骨付近はショックでしびれ感覚がなかった。ギターも振動でチューニングが狂ってしまったようだっ
たので、セリフの間に必至で調弦し直して、なんとか伴奏を終えた。次のシーンに向けて立ち上がろうとすると尾てい骨か
ら頭の先まで激痛が走り思わずよろける。しかしいかんともしがたく、ともかくこの日の公演を終え病院へ。レントゲンには
しっかり折れた尾てい骨が写っていた。医師の説明では尾てい骨は固定のしようがなく、湿布をして(といっても場所柄上手
くできないが)痛み止めの薬を飲みながら自然にくっつくのを待つしかないとのことだった。
痛くて普通に仰向けには眠れないし、柔らかい物の上に座るとシートが当たって痛いので、電車バスなどは勿論のこと、普
通の椅子にも座れない。楽屋の化粧前の椅子には厚い板を載せて、その上から座ってメークをした。立ち上がったり腰を下ろ
したりするときが一番痛く、舞台上での動きについては数回演じるうちに、どういう動きが痛いかわかってきたので、出来る
だけ楽な動きを考え、ともかく舞台を続けた。今から思えば骨折した旨きちんとプロデューサーに報告しておくべきであった
と反省しているが、その時は関係者に心配をかけないようにと、共演者の友竹正則さん以外には誰にも言わず、知られないま
ま2ヶ月の公演を何とか乗り切った。千秋楽の頃はほとんど治ってはいたがやはり完全でなく、痛みはまだ少しあったように
覚えている。その2ヶ月後の大阪公演の時は、やっと自由に動き回れるようになっていた。
3回にわたるステージでのドジシリーズ、この他にも色々やってはいるが、次号からは話題を変える予定。
Fiat600(フィアット セイチェント)私がイタリア留学中に乗っていた車の名前だ。詐欺同然だったがアルバイトでピアノを教えていた。その生徒のお母さんが新車を買い、不要になったFiat600を5万リラ(当時で約1万5千円)で譲ってくれた。既にFiatがこのモデルの製造を終えてから10数年たっていた中古車だった。かの有名なFiat500(チンクエチェント)の姉妹車で、初めて世に出たときは600ccのエンジンを積んでいたので600という名だったが、その後バージョンアップでエンジンは850CCになっていた。
さてまず車の名義変更はスムーズだった。手続きの最後にナンバープレートを渡され、仮車検証を発行してくれる。これを持って一ヶ月後に本車検証を取りに来るようにとのことだったので一ヶ月後に行ってみると、まだ出来ていないからとスタンプを押して、これで後6ヶ月間乗れるからまた取りに来るようにと言う。そこで6ヶ月後再び取りに行くとまだ出来ていない。またスタンプをポン。この繰り返しで2年後帰国するまでついに本車検証をもらえなかった。
車検証はなくてもけっこう良く走る車だった。ミラノ市内はもとよりミラノ郊外、コモ湖、マジョーレ湖、ベルガモやその山の方へキノコ狩り、ヴェローナのオペラ見物や遠くはトスカーナあたりまで走り回った。アウトストラーダ(高速道路)でも時速90Kmが精一杯、でも粘り強いエンジンで山道もすいすい走ってくれた。
ある日ミラノ市内で大渋滞につかまった。やっと渋滞を抜けて走り始めて初めての信号で止まろうとしてブレーキを踏んだら、ぎゃーブレーキが利かない!ペダルを踏み抜いてしまった。あわててローにシフトダウン、続けてハンドブレーキを引いて必死に止まる。
また別のある日、友人の車とつるんで走っていた。信号で止まったとき後ろから友達が降りてきて「純ちゃん、なんか車が傾いてるみたいだよ」と言う。路肩に寄せて車の下をのぞいてみたら、左の後輪のサスペンションが折れていた。
またまた別のある日、走っていたらドンという音と共に運転席の横の窓のガラスがドアの中に落ちていた。つまり窓を一番下まで降ろした状態になっていたわけだ。ガラスを上下するハンドルとガラスを支持している金具のジョイントが折れていた。夏で良かった。
この車大変にシンプルに出来ていてエアコンは勿論ない。ヒーターはあるのだがきわめて原始的作りで、モーターで回すファンなどというものは付いていない。シートの下に棒が一本出ていて、これを引くとバタンと音がして床下の空気取り入れ口が開く。そこから風圧で外気が取り入れられ、パイプを通りエンジンルームへ。そこで暖められた空気が室内に出てきてやっと暖まる、という寸法だ。ということは走っていないと空気は入ってこないからヒーターは効かない。真冬の場合暖まり始めるまで走り始めてから約10km必要である。市内の移動だと10Km移動することは少ない。ちなみにミラノの町はずれの歌の先生の自宅まで10.5Kmだったので、オーバーを着込んでマフラーを巻いて手袋をして車に乗り込む。先生の住んでる大きい団地(日本の団地を想像してもイメージできない立派なマンション群)の入口に付く頃、やっとなま暖かい風が出始めるものの室内が暖まる前に先生の棟に到着してしまう。
ミラノ市内中心部は迷路のようだ。我が物顔で細い道を駆け抜けていたものだが、4〜5年前久しぶりにレンタカーで走ってみたらほとんど忘れていてかなり苦戦した。ミラノの住人だったはずなのに、ただの観光客になっていてショックだった。車を持っていなければ経験できなかったことも多い。イタリアを肌で理解する一助となってくれたセイチェント。たくさんの想い出を作ってくれたセイチェント。ぼろ車であったが僕のイタリア生活を限りなく豊かにしてくれたセイチェント。今ではイタリアでもほとんどお目にかかれなくなってしまった。日本でただの一度だけ走っているのを目撃したことがある。自分の車の前を走っていたので、次の信号で並んで止まって話しかけようかと思っていたらすぐ左折していなくなってしまった。マボロシノヨウニ。セイチェントのオーナーの方、もしこれを読まれたらご連絡を。
友人の別荘があったミラノの北東セルビーノの山中で愛車FIAT600と
皆さんはアマーロ(Amaro)と呼ばれる酒をご存知だろうか。最近では日本でも売っているし、ちょっと気の利いた
イタリアン・レストランに行けば置いてあるようになった。分類すれば食後酒として飲む、薬草を多数つけ込んだリキ
ュールであり、アマーロとはそもそも「苦い」という意味であり、文字通り苦いか甘苦い味である。各メーカー独自の
処方を持つ一種の薬草酒でありイタリアのどこに行ってもそれぞれ自慢のアマーロがあるようだ。
初めてシチリアを旅行した際に、胃腸の調子を崩して、何も食べられなくなってしまったことがあった。生憎胃腸薬
の持ち合わせもなく、土日にかかって薬局も休みで(街のどこかに必ず開いている薬局はあるのだが・・・)困ってし
まった。その時誰かが「アマーロ」は胃腸にいいんだ、と言っていたのを思い出し、早速Barに行く。Barはイタリア
のどこにでも必ずある喫茶店で、原則立ち飲み、ソフトドリンクだけでなく各種アルコール類や軽食、お菓子などが用
意されているイタリア人の生活にはなくてはならない店である。さてそこでアマーロを注文する。アマーロも色々ある
が何が良いか?と聞く。シチリアのが良いと答えると<AVERNA>というのを飲ませてくれた。まずはちょっと舐
めてみる。もともと薬草系の味や香りが好きなので一口飲んで気に入ってしまった。濃くて甘苦くて美味しいのである。
リキュールグラスに一杯だけであったがちびちび飲んでいると、それまで重苦しかった胃腸がスーッと楽になっていっ
た。おっ、もう効いてきた!という実感。それからレストランに向かい事情を話して美味しい野菜スープと柔らかめに
スープだけで煮たリゾットを食べさせて貰い、更に食後もう一杯Avernaを飲み、それから胃腸は元気を取り戻していっ
た。以来Avernaの信者になり食べ過ぎたと思ったら飲むようにしている。
初めてお客様方をご案内してイタリアツアーに行った時のこと、フィレンツェでサービスの良すぎるレストランに入
ってしまった。夜遅く閉店間際だったせいもあって、もうお腹一杯で食べられないからいいと言っているのに、これも
うまいから食べて見ろ、これはどうだうまいだろ!と次々残り物?を出してくれる。皆肩で息をし始めたのでアマーロ
をとった。皆は恐る恐る飲んだのだが、翌朝元気に朝食に集まってきて、アマーロのお陰でもたれなかった!と口々に
感謝された。それ以来毎食後にアマーロを注文するメンバーが続出。帰りのMILANOの空港の免税店では我々のグルー
プが立ち去った後、アマーロの棚は空になったのだった。
現在日本でも、このシチリアのAVERNAのほか、北イタリアの「Fernet Blanca」という全然甘くない、これぞ薬草
酒!というアマーロ、またアーティーチョークを使った「Cynar」など数種類が入手可能なのでぜひ皆さんもお試しあ
れ!私はいまイスキア島で買ってきた「Rucolino」という、最近日本でも食べるようになったルーコラ(ルッコラと
呼ぶ人がいますが、ルーコラが正しい読みです)という香味野菜のアマーロを大事に飲んでいるところです。
なお似た名前のイタリアの酒で「アマローネ」「アマレット」がある。「アマローネ」は陰干しにしたブドウから
作る、力強い赤ワインで、「アマレット」はアンズの核から作る甘いリキュールで、ともにアマーロではない。
日本では似たものに「**酒」が有名だが、あくまで薬として飲まれているようだ。食事を楽しく美味しくする為に
胃腸の調子をよくするという点では同じだろうが、それ自体の味を食事の締めくくりとして楽しむというアマーロと
は違うような気がする。食事を美味しく楽しくするための酒類のバリエーションの豊かさという点では、イタリアの
それは日本それを遥かに上回っている。
イスキア島で買ったルーコラのアマーロ。アルコール度30%。
イタリアはことのほかリアリズムを好む国民のようだ。我が国ではまず見ない「フォトロマンツォ」なるものの存在と人気からも想像できることだ。この「フォト(写真)ロマンツォ(小説)」とは、漫画のようにコマ割がしてあって、写真でストーリーが展開、これまた漫画のように写真にト書きやセリフが書き込まれている代物である。何しろイタリアにはこの専門誌があるほどで、一般誌にも連載されていたりする。ご婦人方が美容室でドライヤーに頭をつっこんで読んでいたりするわけだ。
イタリア留学をしてしばらくたってから、日本人の留学仲間に声をかけられてテレビのCMに出演した。この時はスーパーマーケットのCMで、日本人商社マンに扮してズッコケ台詞を言わされた。この時からタレントのエージェンシーと知りあいになり、よく「外タレ」としての仕事が入ってくるようになった。たとえばタイヤのミシュランのCMではジンギスカンの兵隊になった。とにかくアジア系の顔ならなに人でもよし、のようだった。
ある日このエージェンシーから「フォトロマンツォ」なるもののオーディションがあるから行って来いと言う。現場に行くと顔見知りも含めて10人近い日本人が来ていた。カメラテストがあっただけで芝居のテストなどはなかった。数名残されてディレクターの面談があった。ギャラの提示がされ、その安さにあきれてぼく以外のいっぱしの役者気取りの連中はみな帰ってしまい、ぼく一人が残った。正直言ってギャラの安さは気に入らなかったのだが、未知の仕事に対しての興味が勝っていたし、きっと勉強になるだろうと思ったからだった。
さて撮影の日が来た。ロケバスでミラノから西に約50Km,Novara郊外の雑木林に着いた。農家の壊れたような納屋を借りて撮影が始まった。共演はイタリアではテレビドラマなどで活躍し人気があった俳優のGiuseppe Pambieriと女優のFlora Saggeseであった。行ってから初めて自分の役を聞かされて驚いた。「ベトコン」だというではないか、名前はティアン、19歳。戦闘服を着せられ手にはおもちゃの自動小銃(けっこう重く肩が凝った)。ディレクターが撮るコマごとに状況、ストーリー、セリフ等を説明、ポーズをつけてくる。こっちは言われるままにポーズをするが顔だけは芝居をしなくてはいけない。従って当然演技力がいる。ディレクター氏はやたらぼくの顔の演技を誉めてくれたので実に気分良く撮影は進んだ。
午前の撮影が終わり昼食になった。日本でならここは当然「ロケ弁」となるところだがそこはイタリア。大きな保温容器から取り出されたその日の昼食は温かいラザーニャと子牛のステーキだった。もちろんワインも、デザートにコーヒーも付く。
さすがに昼寝はしなかったが休憩後午後の撮影となる。ベトナム戦争中の戦場で出会ったイタリア人修道女とイタリア人ジャーナリストの恋物語なのだが、夕方までかかってぼくの登場する全シーンを取り終えた。3号に渡って登場するのだが最初の号は小銃を持った手のみ。次の号は主役となり、次の号では死体として登場。とにかく各ポーズごとにじっとしていなければならないので非常に疲れた。このころはイタリアでの生活も既に1年半位になっていて、イタリア語も上達、各シーンごとのディレクターからの説明を聞き、自然に理解している自分に気付き、それがとても嬉しかったこともよく覚えている。
さてロケバスはこのプロダクション事務所へ戻る。到着すると別室に呼ばれた。そこで待っていたディレクター氏は何と、「あなたは我々が期待したより遥かに、とても素晴らしい仕事をしてくれた。そこでギャラは約束の倍支払うことにした。」と言い(それでも安かったが)倍額払ってくれた。ぼくは初めての仕事でとても面白く、また大いに勉強にもなったので余計嬉しく満足だった。さてその雑誌が発行されたとたん近所のSignora(奥さん)の間で有名になってしまった。クリーニング屋のおばさんやパン屋のおばさん、八百屋のおばさんあたりは行くたびにおまけをしてくれたものだった。滞在中には何故かベトナムを舞台にしたフォトロマンツォにもう一度登場。こっちは医師の役だったがチョイ役だった。昼食で出たチーズが美味しかったことぐらいしか覚えていない。
<Grand Hotel> 1978年10月号 <Piu' in alto dei Gabiani> (カモメより高く)から
「僕はもう行く。明日はずっと南東に向かって行きなさい。ソンバまではずっとジャングルだ。歩きにくいけど隠れるにはいい。」 |
バリトンの友竹正則さんが亡くなってからもう7年たってしまった。63歳でなくなったので生きておられれば70歳だ。友竹さんは私の師匠であり仕事仲間であり、「歌座」はじめあちこちで共演させていただいたものだった。何しろ私のペンネーム「友谷達則」は、友竹さんと越谷達之助先生の名前の合成であり、心から慕う大先輩であった。この先何回かに分けて友さんの想い出を書きたい。
友さんは歌手、俳優、詩人で、かつテレビタレントとしても活躍された。特にテレビでは「食いしん坊万歳」に3代目食いしん坊として出演されていたので全国的にグルメとしても顔が売れていた。今から約10年ほど前会津若松で「うたよみざる」の公演があった。地元高校生のための鑑賞教室であったので、終演は午後4時過ぎだったと思う。その夜の食事は皆で友竹さん推薦の会津料理店でとることになり予約を入れてあった。主役のぼくと友竹さんに鑑賞した高校の新聞部が取材をしたいというので2人だけ残り、他の出演者達は先にホテルに帰って行った。さて5時前にはそれも終わり、二人でぶらぶらと会場から近所のホテルへと歩き出すともうお腹が空いてきた。友さんに言うと彼もだという。そばでもいっぱい食べたいねーといっているとちょうどいい具合にそば屋があったので入ってみた。かなりこだわりの店らしく、メニューが一般的そば屋と全く違い、それぞれに固有名詞が付いていた。運ばれてきたそばは確かに美味しいものであった。そばをすすりながら友さんがこう言った。「純ちゃんね、ぼくは『食いしん坊』をやったんで、どこへ行っても感想を聞かれたりするでしょ、うまけりゃいいんだけどそうじゃないときなんてなんて言っていいか困っちゃうし、もっと困るのがいろいろ頼みもしないもの出されて食べさせられて、それだけでお腹がいっぱいになっちゃって、肝心の自分の食いたいものが食えなかったりするんだよね・・・。」と帽子を深くかぶり直し、つばで顔を隠した。よからぬ気配を感じていたに違いない。案の定その店の主が出てきた。「友竹先生でいらっしゃいますよね・・・?!」主は有名なそば屋と自分とのつながりをとくとくとしゃべり、そのうちに注文しない蕎麦が出てきた。どこそこの粉で香りがたつように打ってみた蕎麦なので食べてみてくれという。勿論私の分も出てくる。確かにその蕎麦もまあまあ美味しいものではあった。それを食べ終わるとすかさず更にもう一枚のせいろが登場。主人が再び登場し講釈を重ねる。多少盛りは少な目にしてあるものの、どんなに良い蕎麦だかは知らないが三枚目となると飽きてくるし腹もふくれてくる。友さんは涼しい顔で食べながら的確な感想を述べるものの、目を見れば迷惑そう、時折ぼくに『ほら、言ったとうりになっちゃった、こういうのが困るんだよね!』と目配せしてくる。さてその蕎麦もまあ美味しく半分迷惑を被りながら平らげると、じゃーん!でかい豆腐が一丁ずつ登場。自家製の豆腐とやらでかなり固く締まった堂々たる冷や奴であった。蕎麦と豆腐だけとはいえ、大食らいにはほど遠いぼくはもう満腹だった。そばがらの枕をお土産にもらい店を出る。もう集合時間までには30分もない。「友さ〜ん、晩飯どうします?」「うん、ぼくはちょっと書き物があるし、何度も行ってる店だから行かない。美味しいとこだから純ちゃん行ってらっしゃい。」まだ伝統的会津料理なるものは食べたことがなかったので、事実食欲はなかったがこの一言に後押しされて皆と食べには行った。行ったものの実際はお酒を飲みつつ、出てくる料理を掛け値なしでほんの一口ずつ味見するだけだった。美味しかったんだろうけど(皆よく食べていた)こっちはお腹がいっぱいだから美味しくも嬉しくもないし感動もしない。それどころか腹が苦しいし、うまそうに食べてる連中を見れば面白くないし、おまけに割り勘でむさぼり食ってた連中と同じ勘定を請求されがっくり。友さんの話を聞くと食べ物番組のレポーターは過酷な仕事であるようだ。大酒のみで超大食らいの友さんをしてもしんどかったらしい。早死にするのもうなずけることであった。美味しいものをちょっとずつ食べる幸せを大事にしたい。
あるミュージカルの公演で群馬県のM市に行ったときのこと、隣接するT市にある老舗のご主人から食事の招待を受け、美味しい牛肉を食べさせてもらえそうだからと、友さんに連れられて出かけた。夜は公演なので昼食であった。この地方に美味しい牛肉が有るという話は聞いたことはなかったが、全国のブランド物の牛肉になる肉牛の子牛を育てている農家が多く、中にはいい牛を売らずに育てているところがあるとかで、美味しい牛肉が食べられるのだそうだ。長屋のような家があり、出窓のようなショーケースが有るだけで、どう見ても肉屋にも、すき焼き屋にも見えない店に案内された。奥に通されるとすっかりすき焼きの支度が整っていた。美味しい牛肉で、友さんに言わせると「すき焼きの美味しい肉っていうのは、たいてい熟成させて、もう腐る寸前っていうところで食べさす物なんだけど、ここの肉は新鮮なのに軟らかくて美味しい!」のだそうだ。招待してくださった某老舗のご主人が接待上手で、ご自分はほとんど食べずサービスしてくれたので本当に腹一パイ食べてしまった。更にオジヤを作ってくれるわデザートは出るわと、飽和状態を通り越し、明らかな食べ過ぎ、お腹が苦しくて肩で息をするという腹式呼吸の専門家たる歌手にはあるまじきありさまだった。友さんは明らかにぼくより多く食べたようだった。
さて少し早かったがTaxiで夜の公演に備えて直接会館へ。友さんとぼくは同じ楽屋だった。ぼくはといえば胃薬飲んで畳の上でひっくり返って、相変わらず肩で息をしていると友さんは「純ちゃん、腹ごなしにちょっと散歩してくるから。」と出ていってしまった。しばらくすると買い物袋をぶら下げて帰ってきた。「外を歩いていたら、なんかこだわりの和菓子屋さんみたいのがあったんで草餅買ってきたよ。ひとつどう?」とうまそうに食べ始めたではないか。全く食欲はなかったがつき合いで一個だけ目を白黒させながらのみこんだぼくに「どうこの草餅は?」「うっ・・・・あのー、あんこはさっぱりしていていいですね。でも餅が・・・、何て言うか、そう、餅と言うよりは食感がもそもそして団子みたいですよね・・・。」口頭試問を受けている学生の気分だったが何とかぼくがそう答えると、「そう、なかなか的確な意見でした。」と涼しい顔で友さんは3個目の草餅を頬張ったのでした。
イタリアでも秋になると八百屋の店先にはいろんなキノコが並びます。キオスクに行けばキノコ図鑑が並べられ邸ますイタリア人のキノコ好きも大したものです。イタリアのキノコといえば最近は「ポルチーニ」がすっかっり有名になりました。このHPにもポルチーニのリゾットのレシピを掲載してありますから是非お試し下さい。
イタリア滞在中、秋になると何度もキノコ狩りに出かけたものだ。ミラノから北東に50Km行ったベルガモという古都に小野さんという現代美術のアーティストが住んでいた。彼がキノコに詳しく、ベルガモから更に北に行ったスイスに近い山林に誘ってくれたのがきっかけだった。ポルチーニだのトリュフだのという超高級キノコは採れないが(そういうキノコの生える山は利権が絡み、本当か嘘か知らないけれど、下手に山に入り込むとズドンとやられたり・・・という噂も聞いたことが・・・。)しかしいろいろ美味しいキノコがたくさん採れたものだ。キオディーニという椎茸に似たキノコはよく採れて美味しかった筆頭格。チベリウスというオレンジ色のアンズ茸の一種は、その色、形、香りが麗しかったなあ。勿論これは絶対大丈夫というのしか採らなかったから事故もなく秋の味覚を満喫したものだった。そのパターンがいくつかあって、町に戻り小野さんのアパートのキッチンに持ち込み、そのキノコにあった料理法、たとえばバターでソテーしようとか、炊き込みご飯を作ろうとか、あーでもないこーでもないと意見を戦わせ(そんな大げさなものでもないか)ビールやワインを飲みつついろいろと楽しんだものだった。もう一つはピクニックがてら現地ですぐ料理して大自然の中で食べてくるパターン。ここでの料理の代表格は何故か和風にすき焼きかカレーライス!。いろんなキノコがでてきて、それはそれは美味しくて楽しいアウトドアライフだった。
ベルガモというともう一つキノコの思い出が・・・。ポルチーニはイタリアでも高価なキノコだ。最近は日本にも乾燥したものが入ってくるが結構いい値段だ。イタリアで買えば勿論少しは安いがそれでもやっぱり高いことに変わりはない。5年前にベルガモに行ったときのこと、丘の上の中世の町がそのまま残されている歴史保存地区を散歩中、ある八百屋の店先にそれは積まれていた。おお乾燥ポルチーニ!、値段を見てまたびっくり!、東京で10g位しか入ってない小袋のポルチーニを買う値段で、100gも入った大袋を売っていた。聞けば店主が自分で山から採ってきたものだという。勿論大袋を買い込む。ポルチーニのリゾットを家で作るときには、ポルチーニは香り付けに少量使い、その他の安いキノコを大量に混ぜて作っていたのだが、おかげで帰国してからついに100%ポルチーニのリゾットをついに食べることが出来てしまったのだった。ただし2週間の旅行の2日目からスーツケースの中にはポルチーニの強烈な香りが充満して服にまでうつってしまい、ポルチーニの香りをばらまきながら旅を続けるはめとなってしまったのだった。
採れたキノコを囲んで。
左端が青木(手にキノコを持っている)
右へ友人の賢ちゃん(20数年たった今もミラノに暮らす)と
小野さん一家。
イタリア料理が好きである。食べるだけではなくて作るのも大好きである。イタリアに行く前からだ。しかしイタリア留学以前は実はほとんど何も知らなかった。もっとも当時はイタリア料理といえばケチャップ味の「スパゲッティ ナポリタン」と「スパゲッティ ミートソース」という2大定番メニュー以外はほとんどない時代であった。「ピザ」はあっても「ピッツァ」はなかった。似て非なる料理だった。学生時代初めてイタリアに行くまではそんなものだと思っていたから、現地で食べる本物の味は感激の連続だった。ことにPizzaはあまりの違いにショックを覚えたものだった。本格的に自分で料理を始めたのはイタリアに留学して自炊生活を初めてからだ。もっぱらイタリア人の友人達に教えてもらっていたわけだが、一番よく教わったのはModenaのRinaだった。詳しくはエッセイのバックナンバーにRinaのことやイタリア料理レシピコーナーに詳しく書いてあるので参照していただきたいが、Tagliatelleはじめ、いろいろとエミリア・ロマーニャ地方の家庭料理を教えてもらった。勿論教えてもらった料理はミラノに帰ってからもよく作り、レパートリーにしていった。ある日Tagliatelleを手打ちで作ってから、アルバイトで、イタリア人の高校生の女の子達にギターを教えにいった。僕の指の爪に白くこびりついていたパスタを見て、一体それはなんだと聞く。今Tagliatelleを打ってきたというと、私達はそんなの作れない!と彼女らは驚き呆れていた。
ミラノでは普通のアパートで日本人のインテリアデザイナーF氏と共同生活をしていた。それぞれ個室を持ち、サロン、ダイニングキッチン、洗面所などを共同で使っていた。彼は朝は勝手にコーヒーを入れて飲んで仕事に行ってしまう。昼はイタリア人のように自宅に戻りゆったりと昼食をとり(2時頃)、かるく横になって休んで再び職場に戻り(4時頃)、夕方かなり遅くまで働いて帰宅、夕食は8時〜9時になる。僕は彼より家にいる時間が多く、しかも料理が大好きなので、料理人をつとめていた。もっぱら昼はイタリア料理、夜はご飯を炊いて日本式の食事を作って彼に食べさせていた。食費は折半、皿洗いはもっぱら彼の役目となる。彼は僕より年上、イタリア生活も先輩であったのだが、料理がほとんど出来ない人だった。そうなると面白いもので、家の中でのリーダーシップは料理を作る僕が握ることになる。それを見た友人が言った一言、「調理するものは勝利するものなり!」
帰国して日本のイタリアンレストランの実体に直面することになる。どこがイタリア料理だ!腹の立つ味と料金ばかりであった。これなら自分で作った方がましだと、パスタなどほとんど外で食べたことはなかった。しかしそれから20年。世の中は変わった。イタリアで修行してきた料理人は当たり前になり、食材や機材もどんどん輸入されるようになり、おそらく今はイタリア以外で一番イタリア料理がうまいのは日本じゃないかと思えるようになった。居ながらにして、ほぼ遜色ないものが食べられる。でもつまらなくなった。イタリアに行く楽しみが何割か減ったことは間違いない。久しぶりに行ったイタリアで、あの日本では絶対に味わえなかったPizzaを食べつつ、イタリアを再び訪ねた喜びをかみしめたあの感激は、ああ、もう味わえないのだ・・・!。
まだ小学4年生頃だったと思う。父の友人で画家の前田常作さんがフランス留学から帰国された。お土産に僕と弟に一枚の45回転のドーナツ盤レコードを下さった。大変に美しいパステル画のジャケットで、子供のシャンソンだということだった。前田さんがこの中身の歌をご存知だったのかどうかはよくわからないが、画家だけあってきっとそのジャケットの絵が気に入られて、お土産に下さったのではないかと思われた。タイトルは<Les vieilles chansons de France no4>(フランスの古いシャンソン 4集)、子供のシャンソンとは言ってもAndr Claveau とか Mathe' Altryといった実力のある大人の歌手が歌っている。曲は< Le roi Dagobert>(ダゴべの王様)・<Mamon,les p'tits bateaux>(ママ、小舟はどうして)・<Il pleut berge're>(牧場に雨が)・<La Tour prends garde>(お城を守れ)の4曲で、いずれもシンプルではあるが美しく楽しい曲ばかりである。ただ歌や歌唱が素晴らしいだけでなく、アレンジ、オーケストレーションそして美しい絵のジャケットと、いかにもフランスらしい洒落たセンスのレコードで、また子供相手だからと言って手を抜かず大人の鑑賞に十分堪えうる、フランス文化がこれ一枚に凝縮していると言ってもいいくらい文化の薫り高いものである。子供心にもまだ見ぬフランスにあこがれを抱かせてくれた。歌が大好きだった我が家では、我々子供達だけでなく親たちもこれが大好きで、何度も何度も繰り返しこのレコードをかけて楽しんだ。勿論子供の頃なのでフランス語などなにもわからず、ただメロディーだけで楽しんでいたわけだが、しょっちゅう聞いていたおかげで、発音は耳から覚えてしまい、意味は分からずとも、まねしてそれらしく歌えるようになっていた。
さて、それからウン十年、最近押入の一角をいまだに占領しているLPレコードの山を整理していた。その時にこのレコードを発見。なつかしくて直ちに針を落としてみた(レコードプレーヤーまだ現役で動いています)。今聞いてもその輝きはまったく失われていなかった。いやむしろ長年の歌手生活を経た耳にその輝きは増していた。まだちゃんと聞ける今のうちにと思い、ジャケットも音源もデジタル化して、CDを作ってしまった。これで自分が生きてる間ぐらいは間違いなく保存できる。次に、3曲目の<Il pleut berge're>をちょうど企画中だったファミリーコンサートで歌ってみようと思い、仏文科卒のファンクラブ会員にお願いして原訳をしていただいた。それを元に訳詞を自分でつけ、この正月横浜山手のイギリス館で行われたファミリーコンサートで歌ったところ、大評判であった。楽譜が欲しいとおっしゃる方までいらっしゃったくらいで、どなたに感想を伺ってもあの歌はよかった、また是非聞かしてくださいと言われる。
ところでこのコンサートの数日前、実家に家族が集まり正月を祝っていた。今度実はあの歌をコンサートで歌うと言ったところ、弟が意外な話をしてくれた。弟がある時フランス人の知人に、実は子供の頃もらったレコードがあって、それにこんな歌が入っていた、知ってるか?と、この<Il pleut berg俊e>の出だしの所を歌って聞かせたところ(弟も耳で覚えてフランス語で歌えるようになっていた)、そのフランス人は「この歌を知らないフランス人など誰もいない!」と言ったというのである。フランスの小学校で皆この歌を習うそうである。そんな有名な歌だったのか!と皆で驚いたのだった。きっと今もフランス人達に愛されているのであろう。おそらく日本人でこの歌を知っている人は、フランスの学校に通ってた帰国子女とか、ごくごくわずかな人だけだと思われる。明治初頭に文部省唱歌として輸入されなかったばかりにこの歌は日本では全く知られないままだったのだ。僕はカンツォーネ歌いで、シャンソン歌手ではないが、この歌はこれからあちこちで歌っていきたいと思っている。本当に素晴らしい歌なのです。
「牧場に雨が」(原題:雨だよ羊飼いの娘さん)
1.牧場に雨が降り始めたよ
さあ、羊飼いの娘さん早く
雷もなる ぼくとさあ行こう
藁葺き小屋へ 雨宿りに
2.小屋には母さんと妹が来て
愛しい君の 濡れたその服を
乾かしてくれる たきぎをくべて
可愛い子羊も さあお入り
僕はイタリア語をほんの少し勉強しました。この少しというのは謙遜ではなくてほんとにほんとにほんのちょっとと言う程度です。大学で4年間、授業の他にイタリア語研究会の部長もして、おまけに3年もイタリアに留学していながらこの程度か?!と我ながらあきれるというレベルです。それにもう帰国して22年たちますから、かなり忘れていて情けなくなるくらいです。で、この頃ではイタリアにたまに電話をすると、よれよれになって落ち込むことしきり。イタリアにいる頃はもっとしゃべれて通訳のバイトまでやってたのに〜!。しかしそんなことは棚に上げて、今、日本に溢れているインチキなイタリア語には腹が立つぞー!。先日イタリアから帰国したばかりの友人と話をしていてこの話題で盛り上がったので今回はそのお話。
その1 「カフェラテ」 アメリカ経由で日本に入ってきたため、こんな間の抜けた名前になったものと思いますが、ちゃんと「カフェラッテ」っと言って欲しい。アメリカ人が「ッ」を発音できないのは仕方がないとして、日本人はちゃんと発音できるじゃあないか!「カフェラッテ」とオーダーしたら「カフェラテでございますか?」だと。バカやろ〜!これはアメリカの飲み物じゃあネーヨ!、イタリアの飲み物だ〜っ!!! この間の抜けた発音を聞くと本当に腹が立ってくる。それなら「エスプレッソ」も「エスプレソ」って言やーいいじゃないか。(ほんとに言われたらこっちは発狂するけど・・。)
その2 こないだ千代田区内某所に「ラ・ドルチェ」というイタリアンレストランがあった。ドルチェは形容詞で甘い、名詞でお菓子・デザートの意。ただし男性名詞だから定冠詞はイルが付く。なんで女性名詞の定冠詞ラをつけるんだ!なんでもラをつけりゃあイタリア語になるってもんじゃないぞ〜!。
その3 中央高速の某サービスエリアのレストラン。「スパゲッティー・ポロネーズ」とは何だ?ポーランド風?ショパンがレシピを作ったのかい?ショーウインドーのサンプルを見るといわゆるミートソースのようであった。それなら10歩ゆずってボロネーズ。イタリア語ならボロニェーゼ、それをフランス語でボロネーズ。
その4 銀座の某デパ地下のイタリア料理カウンター。「スパゲッティー・メランジャーネ」だと。これは茄子のスパゲッティーかと問えばそうだと言う。それを言うなら「メランザーネ」だ!zaneをどう読めばジャーネになるんだ???
その5 目下開催中のサッカーワールドカップ。われらがアッズーリ、イタリアチームは日本でも(特に女性に)いい男揃いとかで大人気のようだ。第1戦も昨夜終わってまず1勝。いや〜めでたい。日本チームがもしだめでもイタリアが勝ち進んでくれたら満足だが・・・、選手のDi Biagioのことを中継した某テレビ局が「ディ ビアッジョ」と呼んでいたのも気に入らない。おまけにご丁寧にスーパー(字幕)もそう書いてた。あれは「ディ ビアージョ」でこっちは「ッ」は入らないの!。某大新聞は「ディビアジオ」と書いていたこれはまあ許さんでもないが、ディ ビアージョと素直に書けばイタリア人が発音するのと全く変わらない音で発音できるのに、なんでわざわざ違う発音書くんだろう。
その他 「ルコラ」は「ルーコラ」で、断じて「ルッコラ」ではないぞ!。「クッチーナ」とは何事だ!台所は「クチーナ」だ!。専門の歌の分野で言えばあの大テノールは「ステファーノ」じゃないぞ!「ディ・ステーファノ」ダゾ〜!。「ムーロロ」を「ムローロ」などと呼ばないでくれ〜!!。etc.
ネタはまだまだあるけれど、腹がたつやらばかばかしいやら、いい加減いやになったのでもうやめよう。何?一番のインチキイタリア語はお前のしゃべるイタリア語だろうって? ・・・・・よくご存じで・・・、ごめんちゃい。
このところスケジュールがきつくて、なかなか更新が出来ませんでした。今日は幸いオフでしかも台風21号の来襲で外出をあきらめざるを得ないため、やっと更新する時間が出来ました。
今年から某イタリアンレストランでカンツォーネをレギュラーで歌っています。といっても他で舞台がある場合はエキストラに任せて休んでしまうのですけれど・・・。レストランでレギュラーでというのは久しぶりの仕事です。音大2年生の頃から留学するまでの4年間、銀座の某ドイツレストランで歌っていたとき以来なので、歌手生活の原点に戻ったような気分で歌っています。
このレストランでは、ギターを抱えてテーブルを回って歌うので色々なリクエストが来ます。知っている曲の場合は、たとえレパートリーではなくても、あるいはギターの弾き語りで歌ったことがなくても、歌さえ知っていて、キーが決まれば、手が勝手に動いて伴奏をしてくれますし、自分で伴奏するので歌と伴奏がずれることも絶対にありません。ということはぶっつけ本番OK、リハーサル不要というわけ。そこでプロ根性がむくむくとわき起こり、よーしやっ、やってやろーじゃないか!と、何とか歌ってしまうのです。一瞬うろたえたものの、何とかこなした曲の例としては、オペラ「椿姫」の「乾杯の歌」、同じく「トスカ」の「星も光りぬ」、「リゴレット」の「女心の歌」。「星も光りぬ」はレストランの隣の県民ホールで今をときめくテナー、ホセ・クーラのカヴァラドッシで、トスカをたった今見てきたお客さんからのリクエストでしたが、「歌手に間近で歌ってもらえて、こっちの方がよっぽど感激した」と言ってくれました。「乾杯の歌」をリクエストしたお客さんは感激して、かなり高額のチップを置いて行かれました。レストラン常連のイギリス人のご婦人はご両親がナポレターナが大好きだったとかで、子供の頃からナポレターナのレコードを家で随分聴かされたそうで、その中でも特にご両親がお好きだったという「夜の声」をリクエストされました。この歌はレパートリーのうちで訳詞も付けていますが、何しろここ10年ぐらいは多分歌ってなかったはずで、ちゃんと歌えるかどうかわからなかったのですが、え〜いままよ!と歌ってみたところ、結構覚えているもので少々歌詞をごまかしつつも何とか歌えてしまいました。そのお客様はというと涙を流し感激して聞いてくださっていました。この同じお客様に先週「あかとんぼ」を歌って差し上げたところ(勿論日本語で)、やはりまた涙を流しながら聞いてくださいました。「ほほにかかる涙」(これはレパートリーなので寝ていても歌えます。)をリクエストした熟年のご婦人は聞きながら、タイトルのようにやはり涙を流していらっしゃいました。そのほかカンツォーネ以外にもいろんなリクエストが来ますが、知ってる歌ならアドリブででも歌っています。
さて一番困るリクエストはみなさんは一体何だと思われますか?それはなんでもいいから「あなたの一番好きな歌を歌ってくれ」というリクエストと「あなたの一番得意な歌を歌ってくれ」というリクエストです。一番好きな歌なんて優柔不断で移り気な私には絶対決められません。得意な歌ですか?、レパートリーの曲はどれも得意で好きだからレパートリーになってるんです!。どうか皆さんこの2つのリクエストだけは是非ご遠慮下さい。
今や日本に輸入されていないイタリア食品はないと言ってもいいくらいなのに、これだけはまだ来てないぞ!というものに「ゴリーア」がある。簡単にいってしまえばのど飴の一種なのだが、漢方で言う「甘草」(イタリア語でLiquirizia)のエッセンスのようなものである。イタリア人はこの手のが好きで、その代表的ブランドのゴリーアはじめ、いろんなメーカーで出しているし、菓子屋に行けば、ノーブランドの量り売りのまで売っていて、子どもから大人までよくなめている。甘草は独特の甘苦い味がして、抗炎症作用があるとかで喉と胃にいいそうだ。ゴリーアに関して言えば飴と言うよりヌガーのようで、ゴムのような柔らかくて粘りのある食感、砂糖も入っているので甘みもある。味に麻薬的効果があって、癖になるとやめられなくなる。日本人はわりとこの手のが苦手のようで、試しに口にして変な顔をする人が多い。しかし僕のイタリア留学仲間はみんな大好きで、ことに歌をやっている連中には必需品となっていて、仲間の誰かがイタリアに行くと大量に買ってきて分け合っている。まあ、お土産に頭を悩ます必要もないし、自分にとっても必需品なので私もごっそりと買い込んでくるが、結構重い。
このゴリーアと同じメーカーの「タブー」とか別メーカーの「サイラ・エクストラフォルテ」というブランドがあって、この2つはさすがのゴリーア中毒のぼくでも食べるのにかなりの覚悟がいるくらい強烈だ。普通の日本人ならすぐに吐き出す。ところがこれは成分が濃くてほぼ純粋の甘草エッセンスの塊なので喉の痛いときなど、我慢してなめているとだんだん楽になってくる。これはもう完全に薬と言っていいのだが、バール(バー&喫茶&スナック)やたばこ屋のキャッシャーの横とかに、ガムやキャンディーと並んで売られているのだ。
ゴリーアについての想い出をもう一つ。イタリアに留学したての頃ゴリーアのポスターがあっちこっちに張ってあって、そこにこんなキャッチフレーズが書かれていた。「キ ノン スィ マンジャ ゴリーア スィーア スピーア」。ゴリーアを食べないやつはスパイだったりして、という意味だが、声に出して読んでみるとよくわかるのだが見事に韻をふんでいる。調子がいいのですぐ覚えた。ついでにessere(英語で言うbe動詞)の接続法現在形三人称単数siaの使い方も覚えられたというなかなか優れもののコピーだった。
話は元に戻るが、これだけイタリアの食品が入ってきてるのにゴリーアだけはない。まあ、輸入したところで売れるわけはないだろうが・・・。しかし輸入して欲しくもない。これだけ何でもイタリアのものが日本にいても食べられる時代になったので、正直イタリアに行く楽しみがかなり減っているのが現実。そこでやはりイタリアに行かないと手に入らないものは残しておいて欲しいというわけ。みなさんも今度イタリアに行ったらぜひゴリーアを食べてスパイと思われないようにしてください。
これがその<ゴリーア> | この前ミラノの空港の免税店で買ってきた徳用袋。これ一袋あると1〜2ヶ月は大丈夫。(このイメージは縦横各1/2に縮小) | これが強烈なサイラ。箱が透けていて(セロファンが貼ってある)中身が見えてます。 |
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Vol.24
<風邪と花粉症>
インフルエンザが猛威を振るっている。普通の風邪もひいている人は多い。満員電車の中でゲホゲホやられるとたまったものではない。何故か最近はあまり風邪をひかなくなったが若い頃はよく風邪をひき、イタリア留学中もしょっちゅう風邪をひいていた。風邪といても僕の場合は熱がでることは少なく、もっぱら喉と鼻だった。何しろ声が命なので風邪をひくと喉と鼻の炎症を取るためにありとあらゆる事をする。基本的には医者に行き、薬を付けてもらい吸入し、内服薬を服用、飴をなめたり、トローチをなめたり、うがいをしたり、そして眠るということなのだが、イタリアでは、いろいろ日本では体験出来ない経験をした。
医者に言っても医者は処方箋を書くだけで何もしない。薬は薬局へ、吸入は専門のクリニックへでかけていかなければならなかった。吸入に関しては、家庭用の吸入器(ネブライザー)を買えば自宅でも出来た。吸入で面白かったのは薬剤の吸入でなく、喉の痛みに効くという鉱泉水の吸入というのがあった。濃い温泉の蒸気を吹き付けられている感じで硫黄っぽいにおいと若干の塩分を感じた記憶がある。あまり効いたという感じはしなかったが・・。日本だと喉に薬を塗ってくれたりするが、イタリアでは一度もしてくれなかった。資格を得るにはかなりの勉強が必要らしかったが「エルボリスタ」という職業の友人が二人いた。これは「薬草師」とでも訳したものか「ハーブ屋さん」とでも言うか、ともかくいろんな薬草とその関連グッズを売っている。ここでよく吸入用の薬草を調合してもらった。ユーカリとか若い松ぼっくりとかミントとかいろいろ混ざっていて、鍋にお湯を沸かし、そこにこの薬草類を入れ、火を止めて頭からバスタオルをすっぽりかぶって蒸気を吸うのだ。これは良い香りがして、気分はとてもよくなるのだけど、でもこれで喉の痛みが取れたとか、鼻づまりが治ったという記憶もない。目のかゆみを取るというのもあって、薬草を煎じた汁をガーゼに含ませ目の上にあてる。これも効果は感じられなかった。エルボリスタで売っているハーブキャンディーは結構成分が濃いという感じであまり甘くなく、愛用していた。またイタリアにはマスクというものがない。仕方がないのでマフラーを顔の下半分に巻き付けて歩いて寒いミラノの冬を乗り切った。
今年も花粉症のシーズン到来である。一月下旬から抗アレルギー剤の服用と点鼻薬・点眼薬を使いはじめ、予防対策はバッチリである。小学校時代の友人が耳鼻科の医師(ありがたいことにアレルギーを得意としていて、このシーズンよくテレビや雑誌にも登場する)になっていて、体に合う薬を処方してくれているので、イタリアから帰ってきてからは、多少の症状はでるがずいぶん楽をしている。そもそも花粉症が発症したのは学生時代で、まだ花粉症なんて言葉のまだない時代だった。最初はなんだか訳が分からず、くしゃみと鼻水、目のかゆみにさんざん悩まされた。当時恩師がある漢方薬を服用していた。浦和のほうの漢方薬局のご主人が研究して販売しておられたもので、そこでしか売ってなかった。この薬は血液をきれいにする働きがあって、血の汚れが原因となっている症状を緩和してくれるという。そこでぼくも一冬飲み続けてみたところその春は症状がでなかった。さてイタリアには日本の杉はない。従って杉花粉症はないんだそうだが、アレルギー性鼻炎はいろんな原因物質がある。それがなんだかはわからなかったが、イタリアでも花粉症に悩まされた。特に五月には猛烈だった。そこで友人の「エルボリスタ」に相談したところ、イタリアにも血をきれいにする「デプラティーヴォ」なるものがあるという。辞書にもちゃんと「浄血剤」とかいてあった。そこで早速買ってきた。白い粉末を茶碗に入れ水を注ぎ、かき回し、一晩おいて上澄みを飲む。しかしこの粉末は白い壁土みたいな感じで、石灰ぽい泥水のような味がした。我慢してしばらく使ってみたがちっとも効かないのでやめてしまった。
これから杉、檜、カモガヤと花粉症原因物質が次々飛ぶため、6月上旬まで薬がはなせなくなる。副作用はほとんどなく、眠くもならず、喉も渇かず、しかも一日一回の服用ですむ。しかしこの薬を飲んでいるときは確実にアルコールに弱くなる。ただでさえ弱い僕だが余計回りが早くなる。従って2月から6月までは飲み代がかなり節約できるようである。
Vol.25
敬愛するナポレターナ歌手ロベルト・ムーロロさんが3月14日に亡くなった。91歳だった。ムーロロさんのことは過去にも書いているので(バックナンバーをどうぞ)そちらをご覧頂きたい。僕が彼のファンであることを知っている方が何人か早速お知らせをくださったり、私は家族でも友人でもないけれどお悔やみの言葉をいただいたりしてしまった。昨年から体調を崩されて入院されたりしていたのは知っていたが、とうとう亡くなられてしまった。詳しい病名はわからないが呼吸器系と心臓のトラブルを抱えておられたらしい。ご自宅がナポリの高台ボーメロにあったことも初めて知ったが(ボーメロは現存するもっとも古いナポレターナ「ボーメロの洗濯女」でなじみがある)、ご自宅でご家族に囲まれての大往生であったらしい。事情が許すなら葬儀に駆けつけたかった。インターネット上には早くもお葬式の写真も何枚か掲載された。教会前の広場を埋めた大勢の人(3000人が集まったそうだ)の中を運ばれていく棺や、警官が警護し脇に80歳で出されたCDのジャケットに使われた写真が大きく飾られた祭壇の写真などを見つけたので、早速ダウンロード、プリントアウトして黙祷を捧げた。この次ナポリに行ったらお墓参りしてこようと思う。
彼が去年90歳を記念して出したCD「歌を夢見て」は本当に素晴らしいアルバムだと思う。まず選曲がいい。僕の知らない新しい歌ばかりだったがどれもいい曲ばかりだ。ナポリのカンツォーネの古くからの良さを受け継いでいる。僕の愛するナポレターナが今もそこに息づいている。アレンジがまた素敵だ。シンプルなんだけど心憎い。そしてムーロロの歌・・・・。あんな暖かくて優しい歌が歌えるなんて・・・。90歳まで歌い続けてこられたのは勿論強靱な体力があったからだろうが、あの歌声の中にあふれた暖かさ、やさしさがあったから、それが人々の心をとらえ続けてきたからに違いないと思う。今までもムーロロの歌はぼくの大きな目標であったけれど、そしていったいいくつになるまで僕が歌い続けられるかわからないけれど、あんな歌が歌える歌手になりたいと思う。心底そう思う。ムーロロさんとは本当に残念なことに一度もお目にかかることはなかったし、生の演奏を聴かせていただけるチャンスもなかった。一度でも良いから僕の歌を聴いてもらって、お教えを請いたかった。留学中ならその可能性はあったのだろうが、彼の偉大さがわかるようになったのは自分が演奏活動を初めて、かなり経験を積んでからのことで、あの頃はNapoliに行こうとも思わなかった。今となって思えば本当に悔やまれる。そんなわけでムーロロさんは僕のことなんか当然ご存じない訳なのだが、この秋のリサイタルはムーロロさんを追悼し、彼に捧げるコンサートにしたいと思っている。
No26
先週誕生日でした。ファンからイタリア製のエスプレッソ・マシーンをプレゼントしてもらいました。前から欲しかったので大喜び!早速エスプレッソを入れたり、カップチーノやマッキャート、さらにカフェラッテといろいろ作っては楽しんでいます。家庭用のガスコンロにかけるタイプのアナログエスプレッソポットも勿論持ってて、今まで愛用してました。バールで飲むエスプレッソではなく、家庭でのむカッフェはイタリアでもほとんどの家は未だにこっちだろうと思います。それはそれでイタリアの家庭の味でいいのですが、でもやはりバールで飲むエスプレッソの方がやはり美味しい!。ほぼイタリアのバールで飲むそれと遜色のないエスプレッソが飲めるようになり大満足の今日この頃です。おまけにいまはイタリア製のエスプレッソ用の豆も選り取り見取!。各種楽しめてほんとし・あ・わ・せ!。
さて去年このコーナーに「カフェラテ」とはなんだ!「カフェラッテ」と言え!、と言う文を書きました。イタリア語ではミルクはラッテでラテとは言わないのです。ラテというのは実に間延びした響きで、言葉と音のリズムに命を懸ける(大げさだ!)プロ歌手の自分としては何とも許せないのですが、昨日うれしい事がありました。横浜の石川町駅中華街側改札口横にあるパン屋さん「神戸屋」に入りました。(昔からの実家の近くの神戸屋キッチンで焼きたてのパンを食べながら食事をするのは好きでした。)店内で焼きたてのパンやデニッシュをつまみながらお茶が出来るので、昨日仕事が終わったあとおやつにしようと思って入ったのです。ブルーベリーとアプリコットのパイを取りキャッシャーで飲み物もオーダー。メニューを見たらおお!!!「カフェラッテ」とちゃんと書いてあるではありませんか!!!!。神戸屋は偉い!。神戸屋は本物だ!。おまけに全店禁煙!!!もう目と鼻の先の改札口まえのXX-Xコーヒーになんか行かないよ。お宅しか使わないからね〜!!。
ひょっこりひょうたん島のCDが発売されました。音源が1964〜1969のオリジナル版なのがうれしいです。90年代のリメーク版は声優の皆さんには悪いのですが、ほとんどの方の声に老いの陰が忍び寄り精彩を欠いていました。そして何よりドンガバチョが藤村有広さんなのがいいですよ。藤村さんはとっくに亡くなられていたのでリメーク版ではN・Aさんが担当されて健闘されていますが、藤村氏にはやはりかなわないですよね。あのめちゃくちゃなパワーはすごい。CDには60曲も入っていて、もうすっかり忘れていた歌もあります。解説に各シリーズの解説が書かれています。読んでいると徐々に様々な登場人物や場面の記憶が霧の中からよみがえってきます。高校生の頃やっていたフォークバンドの復活ライブをここ数年やっているのですが、アンコールは必ず「ひょうたん島」のテーマソングを歌い盛り上がっています。。来年で誕生以来40年になるというのにまったく色あせず、繰り返し放送され、こうしてCDも、本も、ファンクラブまで存在するひょうたん島。少年時代からずっと楽しませてくれるひょうたん島万歳!
マンション住まいなので、ベランダで園芸をやっている。狭いから原則的に食べられる物、ないしはハーブ系の香りの良い物しか栽培しない方針(少数花だけという物もあるが)。今あるハーブはミント、ローズマリー、タイム、バジリコ、プレッツェーモロ(イタリアンパセリ)、セージ、山椒、ラベンダー、ジャスミン。例年ルーコラ(ルッコラと言う人もいるが間違え)も作るのだが、昨秋忙しさに紛れて種をまき損ねてしまった。その他実がなる物としてアーモンド(花もきれい)、ブラックベリー、ラズベリー、レッドカーラントがある。この間までブルーベリーもあったが残念ながら枯れてしまった。環境が合わないのか、何回植えてみてもだめになる。ハーブ類は当然イタリア料理を作るために栽培している。食べ物なので無農薬で作るからしばしば害虫にやられる。しかし何と言っても安心だし、自分で作ったハーブで料理するといっそう美味しく感じるものである。
さて、実のなる物だが、アーモンドはだいぶ前に新聞にアーモンドの種プレゼントと言うのが載っていて、はがきを出したら送ってくれた。マニュアル通りにしたらちゃんと芽が出て、3年目から花が咲き出し、5年目の去年はついに数個実がなった。ちゃんとした美味しいアーモンドだった。今年も沢山花が咲いたが何故か実はみな未成熟で落果してしまった。残念・・・。でも今年は鉢を大きくして肥料をたっぷりやったから来年の収穫は期待できる。
ブラックベリーなどのベリー系を作っているのは理由がある。イタリアでは夏になると「森のフルーツのカクテル」というデザートをレストランなどで食べることが出来る。ワイングラスなどにブラックベリー、ラズベリー、ブルーベリー、レッドカーラント(赤い房スグリ)、グリーンのスグリなど、イタリアでは「森のフルーツ」と総称する果実を盛り、砂糖とレモン汁をかけるだけのシンプルなデザートである。味はしばしば酸っぱくて口がひん曲がるこのもあるのだが、甘酸っぱくてなかなか美味しい。そして何よりもその美しい色が魅力なのだ。まるで宝石を食べているかのようなのだ。八百屋の店先には6月にもなるとこれらの美しく可愛い森の宝石達が、厚紙のパックに入れられて並べられる。今でこそ日本でもベリー類が高級スーパーなどで売られるようになったが、僕が留学したころは日本では見たことがなかったから、イタリアでそれらを見たときは大いに感激したものだった。10年ほど前に園芸店でブラックベリーの苗を見つけたときは狂喜乱舞(ちょっと大げさか)!直ちに購入して栽培開始。これはどんどん大きくなり毎年かなりの数を収穫するようになった、その後ラズベリーやレッドカーラントも我が家のベランダ菜園の仲間入りをはたした。ブラックベリーは色や形が美しい。しかし実はがくから離れないので枝からはさみで切らねばならず面倒くさいし、種が結構大きくて固く食べにくいのが欠点。レッドカーラントも色が本当にきれいで、まさに宝石のようなのだが、味は熟してもかなり酸っぱい!。一番のお気に入りは何と言ってもラズベリー。色はきれい形はかわいい、実ががくから簡単に離れて収穫しやすい、香りが魅力的で味も甘くて美味しく、初夏と秋の2回収穫できるという優れもの。今年も順次赤い実が実り始めているのでその写真を公開。この先当分楽しませてくれるはず。
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南東向きのベランダなので午前中しか日が当たりませんが、その割にはよく実ります。 |
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