ジャスミンの風
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4/25(金) 晴れ時々曇り
クメール語レッスンの最終日(テュガイ・チョン・クラオイ)。いつものように淡々と進む。今日は 動名詞、時間を使った表現(「ちょっと待って」「時間ですよ」
「遅れるな」「1時間以内に」等) ・天候の言い方等を学ぶ。12時15分前に終了(チョップ・ハウイ)。 最後にノートに先生のサインをしてもらう。これでようやく
解放されたが、消化不良の感じ。あとは実地訓練しかない(職場で、市場で あるいはメイドと)。あーあ !! こんな我々に熱心に付き合ってくれた先生方 あり
がとうございました(オークン・チラウン)。みなさん お疲れさまでした。
←クメール語の名刺(読めますか?)
昼食後 銀行へ引き出しに行く。初めてモトドップ(バイクタクシー)に挑戦。1,000リエル(=0.25$)で交渉成立。快適に走ってくれるが、突然対向車が現れ
たりしてヒヤッとすること数回。銀行へ では通じないということで、セントラルマーケット前で降りて徒歩数分で銀行に到着。引き出し額を所定の用紙に書
いて番号札をもらい長いすに座って待つ。番号呼び出しも順番ではなくて、次かなと思うと突然若い番号になったりする(理由は不明)。こ1時間ほど経っ
て、再び用紙にサインをしてようやく受け取る。一枚一枚ドル札をチェックして完了。また 声をかけてきたモトドップに乗って(2,000リエルを1,400リエルに交
渉)JICA事務所の向かう。これもJICA事務所は知らないということで すぐ手前にあるベトナム大使館へ行くように指示。借家にガードマン2人(現職の警
官-アルバイト?-)を夜のみ雇い入れる申請書を提出。引越しをする29日から配置してもらうことにした(当方の払う分は27.5$/月)。セキュリティ再チェック
結果O.K.の書類を受け取る。
その後 自転車でワット・プノンの近くにある公共事業運輸省(MPWT)の川村専門家を再訪問。借りていたカンボディアの地形図と地質図を返却。昨日
PPIの土木主任の先生Vuthyにこの地質図をみせたところ 見たことがない、欲しい ということだったので、入手先(この建物の5階にあるMappinng Office)
を紹介してもらい いつでも入手できることが分かった(日本人の地図専門家も居るよう)。また 土のことが分かる人ということで、隣の部屋(公共事業リサ
ーチセンター)に居る所長のDr.Yit Bunnaと土質エンジニアのPaul CARIOを紹介してもらった。カンボディアの地質や土質のことをもっと知りたいと思って
いる と言ったせいか、部屋に置いてある種々の土が入った試料ビンを指差しながらPaul CARIOがフランスなまりの英語で一生懸命に説明してくれる。よ
く聞き取れなかったが プノンペン近郊の土はメコン川の氾濫原からできており軟らかいので改良が必要だ とか言っていた。詳細は後日また教えてくださ
い と言って辞する。他にフランス人の所長の居る土質試験室や農林水産省、鉱工業エネルギー省、水資源企業省等にもそれなりの資料があるのでは と
のこと。カンボディア工科大学の土木部長Dr.Meas Sokhonにも会ってみれば---との助言ももらった。電話番号他を訊いてMPWTをあとにした。川村専門
家は3年の任期を終え5月1日には帰国して阪神高速道路公団に職場復帰とのこと。お疲れさまでした。なお 後任は首都高速道路公団から近々派遣さ
れる予定らしい。
夜 シアヌーク通りに近いレストラン「クメール スリン」でクメール語の先生(女性)2人を招いて慰労会。同僚のS/V12人のうち1人(小学校の音楽の先生)
は寝る時にクーラーをつけっぱなしにしていて体調が悪いとかで欠席。皆アルコールが入って わけの分からないクメール語で相変わらず先生を悩ませ
る(先生方はビールは飲まないとかで水のみ)。日本へ行ったことのある1人の先生は皆にビールを注いでまわる。和気あいあいのうちに1時間半ほどで
散会。帰り道は特訓が終わった安堵感も加わって足元がふらつく。
4/26(土) 晴れ時々曇り
テアリーさんから電話があり、不動産屋に連絡をとって14:00に借家を訪れる。家主夫婦といつもの娘さんが迎えいれてくれる。偶然だったが、この家主
とテアリーとは小さい時からの知り合いだ ということが分かった。なお この家は将来大家が住むつもりで建てたとのこと(この2月に完成したばかり)。テア
リーと各部屋のトイレの水の出具合い・台所の使い勝手・裏のメイド部屋の状態等を見て廻り、特に問題ない ということで契約書にサインすることにした。
ベッドの掛け布団(毛布?)は用意してくれる ということで納得。テアリーは 万一火事になった時はどちらが責任をもつのか と心配してくれたが、契約書に
「この契約書に明記されていないことが生じた場合は双方誠意をもって対処する」という一項を追記させていたので、これに相当する ということで解決。メ
イドが火事を起こした時は、その契約内容によるが 基本的には借主の責任となるらしい。隣の火事が延焼した場合は当然ながら 家主・借主どちらの責
任でもない とのこと。また家主から「こんなことは無いと思うが、日本へ一時帰国して万一2ケ月経っても帰って来なかった場合は誰が家賃を払うのか?」と
いう質問があり、「JICAの都合でそうなるのだから JICAが責任を持つのだろう と思う」と答えたところ、「何か書いたものが欲しい」と言うので 「この契約書
は当人同士でかわすのであって JICAは関与しないので、書面をもらうのはむづかしい。けれども月曜日にJICAに確認してみる」と言って納得。JICAから
当方の銀行口座への振込みが4/30(水)となる と聴いているが、手持ちが余り無く敷金の2,800$だけしか今日は払えない、残りの前払い金5,600$は5/6
(火) には払う予定 ということで 交渉成立。領収書を受け取り、英語とクメール語の契約書2通づつに双方サインしてそれぞれで保管することになってい
る。これであとはメイドだけ。テアリーに再度紹介を依頼。家主にも頼んでみよう。
朝 同僚S/Vの1人が新居へ引越し済み。
夕食は 街角でバッタリ出会った同僚S/Vとシアヌーク通りの中華レストランで3$。
4/27(日) 晴れ時々曇り
朝起きた時には 同僚のS/V7人が新居へ引越し済み。内6人がホテル・アパートメント「Mi Casa」で、残る1人がアパートメント「Lotus Villa」に移転。結果
として12人の内 バッタンバン行きの3人を除いて7人が集合住宅で、一戸建ては当方を含めて2人のみとなった。当ホテルでの滞在が最後になった。
朝食後 自転車で3ケ所の市場めぐりに出かける。一番近くの(ホテルから歩いて5分ぐらい)バンケンコー市場はそれこそ近くの主婦たちが日常の買物
をするための市場で、野菜やら生きた魚(なまず他)やら肉やらそれに衣料やらが所狭しと並んでいる。肉などは豚肉や牛肉のぶつ切りを板の上にその
まま並べて売っており、それをおばさんがなにげなく買っていく。この暑さ、この湿気の中でどうにもならないのだろうか? ひとごとながら心配になってくる。
ドリアンなどのトロピカルフルーツも置いてあって 市場全体が異様なにおいで充満しており、吐き気をもよおすほどである。口を押さえながら外へ出る。次
にモニボン通りと毛沢東通りを横断してトウール・トンポン市場(ロシアンマーケット)へ向かう。日常品以外に骨董品や民芸品がいろいろ並べられており、
人(欧米人も多い)でごった返している。ここはそうそうに引き揚げて、再び毛沢東通りを北向きに横断してオリンピック市場に向かう。毛沢東通り・ロシアン
マーケット・シャンジェリゼホテル等この国の置かれていた立場を象徴する名前をあちこちで見かける。市場の周りはどこもそうであるが、舗装などはして
なく車やバイクが通り過ぎるたびにモウモウたる砂ぼこりが舞い上がる。食品の衛生状態はどうなっているのだろう、といつも思う。オリンピック市場はか
なり大きな3階建ての四、角い建物で、中に入ると古いっぽいエスカレーターがガタガタ動いている(多分プノンペンで唯一のエスカレーター)。1階は食料品
売場で、エスカレーターで2階に上がると衣料品店とライトアップされた種々の宝石店がここも所狭しと並んでいる。なおもエスカレーターでガタゴト3階に上
がってみても、ガラーンとしている(何故かところどころに何人かが固まって座っている)。のどが渇いたので外の屋台で氷入りのサトウキビジュースを一
杯。おばさんと雑談(ほとんど聞き取れないが)。これがやみつきになりそう。
←屋台でサトウキビジュース
汗ビッショリになってホテルに帰って来たのが12時過ぎ。帰途 大音響のテントの中での食事会(結婚披露宴?)に出くわす。
午後は 部屋にこもってクメール語レッスン報告書の原稿作り(バラバラになった皆の報告書を預かっており、全部まとめて明日JICAに提出予定)。
夕食は4人でオリンピックスタジアム近くのタイレストランへ。牛肉やらエビ団子やら竹輪やら豆腐・春菊それにエビを湯葉みたいなもので包んだものや
らをなべスープで沸騰させて食べ、タイガービールを飲んで一人当たり8$。 明日の早起きに備えて早い目にベッドイン。
アジア・カンボジア雑貨 ご来店お待ちしています
http://www5f.biglobe.ne.jp/~jasumin/
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