医学の進歩と倫理観の変化と「卵子ブローカー」の摘発と


読売新聞の記事より。

【韓国・ソウルの瑞草署は6日、200人以上の日本人に韓国人女性の卵子をあっせんしていたブローカー10人のグループを、生命倫理及び安全に関する法律違反の容疑で摘発し、関与していた産婦人科4か所を同容疑で捜索した。
 調べによると、グループは2002年から今月にかけ、日本人の不妊女性249人に対して、1件あたり1700万ウォン(約150万円)で韓国人女子大生らの卵子をあっせんしていた疑い。日本国内にも事務所を置き、相談に来た日本人女性に韓国の産婦人科も紹介していたという。
 ソウル警察庁も同日、インターネットを通じて卵子をあっせんしたとして、ブローカーの男(28)を同容疑で拘束、卵子を提供した女子大生らを書類送検した。押収された契約書には、日本人夫婦の名前も含まれていた。韓国では、今年から精子や卵子の売買が禁じられるようになった。】

参考リンク(ともに「Doctor's Ink」より):
「感動的な代理母出産」の理想と現実
                                           臓器移植を受けてでも、生きたいですか?


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【韓国人女性の卵子不法あっせん事件で、卵子を提供したり、提供を望んでいたのは、女子大生や主婦だったことが7日、ソウル警察当局の調べで分かった。動機は「遊ぶ金欲しさ」といい、倫理観の乱れに韓国社会は衝撃を受けている。】とう続報もあり、韓国では非常に大きな問題となっているようです。ちなみに、【インターネット上で卵子の提供意思を伝える際には、身長、体重、血液型、学歴などを明らかにしているが、警察当局は「自分の卵子を高く売るために学歴などを詐称したケースもある」とみている】のだとか。日本よりさらに学歴社会の要素が強いといわれる韓国社会だけに、そういった「付加価値」を重視する人も多かったのでしょうか。いずれにしても、韓国では、去年までは精子や卵子の売買が認められていた、ということのようなのですが、そういうものが「自由競争」になった場合、自分の血縁者の卵子という選択肢がない場合には、「良質の遺伝子」を求める人がいるのは、不思議なことではないのだろうなあ、という気がします。「何をもって『良質』とするのか?」と問われたら答えづらいのですが、「どうせ自分に関係のない人ならば、外見が美しい人とか、頭がいい人の卵子のほうがいい」という発想になってしまうのは、わからなくはないんですよね。「人間は平等」だと言う建前の一方で、「じゃあ、結婚相手はランダムでいいのか?」と言われれば、「そんなバカな!」という話になってしまう。「生まれてくる子どもだって、そのほうが幸せなんだし」とかいう「親心」に目覚めてしまったりもするわけです。
 
ちなみに卵子を提供する側への1回の謝礼は、30〜40万円程度だそうです。たしかに、「どうせ利用しないものなら…」とか、考えてしまうのも無理はない、のかなあ…僕だったら、この世ののどこかに、自分が知らない、自分の子どもがいると想像するのは、それだけで怖くてしかたないのですが……
 「そもそも、『卵子(精子)提供』なんてことじたいが、自然の摂理に反している!」という考えの人は、けっこう多いと僕は考えています。自分では実際に不妊治療にかかわるということが無いこともあって、僕自身にも、やっぱり釈然としない、という気持ちはあるのです。そもそも、金がある人間が優先的に「子ども」をつくれて、しかも「遺伝子を選べる」というのはいかがなものか、とも思うし。
 
でも、それって、僕自身の「自分はそういう(不妊治療の)必要がない(はず)」という大前提で振りかざしている「倫理」でもあるのです。もし僕あるいはパートナーが、切実に子どもを欲していて、それが通常のやりかたでは不可能であるということがわかってしまった場合、僕はそれを「自然の摂理」だと自分に言い聞かせて、あきらめることができるのだろうか?と。そりゃあ、100年前とかなら、「あきらめる」とか考える以前に「どうしようもないこと」なのですから、あきらめざるをえないでしょう。しかしながら、そこに「方法がある」のなら、それを「あきらめる勇気と信念」があるかどうかなんて、その立場になってみなければわからない、と思うのです。それこそ、「元気なときに臓器移植を受けたがる人はいない」のと同様に。そして、その「方法がある」ときに、「どうせだったら、どこの馬の骨だかわからない卵子よりも、『優秀な卵子』がいい」と思わない自信もないのですよね。こういう「商売」が成り立って「学歴詐称」まで起こってしまうのは、そういう「欲」を人というのは持ってしまうものなのだということの、ひとつの実例にすぎません。不妊治療がない時代には、「養子をもらう」しかなくて、不妊治療が可能となった時代には「とにかく自分の子どもなら…」だったのが、その「選択」が可能になると「なるべく優秀な遺伝子を…」ということになってしまう。でも、当事者だったら、そう考えるのは、自然な流れなのかもしれません。
 
「女の子しか欲しくない、男の子だったら中絶する」という夫婦に対して、「産み分け」をしていた産婦人科医の話が以前ありましたが、あれは本当に「自然の摂理に反する」ことではあると思います。しかしながら、「じゃあ、実際に男の子ができて、中絶されてしまうことを考えたら、どっちがいい?」と問われたとき、「そんなのできてから考えろ!」とか言うのは、無責任なのかもしれません。人間なんて、本当にエゴイスティックな存在なので(だからこそ「自己犠牲の物語」に、みんな感動するのです)、「自分の子どもの命のためなら、外国の知らない子どもを押しのけて、臓器提供を受ける」ことだって、「それが親心というもの」だと、みんな内心は認めているのです。
 
「医学・科学の進歩」は、これから、人間に「究極の選択」を課そうとしています。「助かる(かもしれない)命を、『倫理』の名のもとに、見捨てることができるのか?」あるいは、「生みだすことができる命を、『倫理』の名のもとに、生み出さないことができるのか?」
 
これまでは、「それは今の医学では無理です」ということなら納得するしかなかったとしても、「今の倫理では無理です」ということで、果たしてすべての人が納得できるのか?そして、「倫理的ではない方法」で生まれてきたからといって、その命を消滅させるという選択がありうるのか?

「こんなに医学を進歩させるのではなかった!」という時代は、もう、すぐそこまで迫っているのかもしれません。