臓器移植を受けてでも、生きたいですか?


参考リンク『ある医学生の言いたい放題』(5/30316/1「臓器移植に関して」
        『みみうち』(6/8)

 最初に書いておきますが、僕はLEEさんや栗さんを責めようなんて、これっぽっちも思っていません。むしろ、率直な言葉と素直な反応には、感動してしまいました。

 テレビで向井亜紀・高田延彦夫妻の代理母出産の番組を観たり、海外で臓器移植を受ける子供のために募金を求める人たちの姿をみて、感動の涙を流したり、「大変だなあ、がんばれよ」と感じたりする人がいる一方で、「もし自分だったら、そこまでして子供を産みたくはないなあ」とか「日本という国の『金の力』を使って、海外で移植を受けるなんて、なんだか釈然としないなあ、その国にだって移植を待っている子供がいるだろうに…」とか感じる人もいると思うのです。

 それはもう、どっちが正しいとかそういうのではなくて。(そりゃ、本人たちに直接イヤガラセとかするとなると話は別だけど)

 僕だって、「そこまでして生きなくても…」とか思うこともあるし、自分が脳死になったらドナーになるか?と言われれば、かなり悩んでしまいます。僕は今のところ「死後の世界」とかを信じていませんから、たぶんどの臓器を取られても痛くもないだろうと思いますし、それで誰かの命が繋がるのなら、それはそれで役に立ててもらえばいいんじゃない?と思う一方で、自分の体がまだ温かいのにお腹を開かれて臓器を取り出されるというのは、イメージとしてはちょっと厳しいですから。それに、家族は後悔しないだろうか?とかね。

 もちろん、「移植のドナー適応になるような死に方」というのは、現実的にはかなり頻度は低いものなんですけどね。

 ただ、僕は医療の現場で働いてきて、こんなふうに感じています。

 「最初から『他人の臓器を貰ってでも生きたい』なんて思っている人はいない」

 本当に当たり前のことなんですが、「臓器移植を受けて生きる」ということを希求している人の大部分は、自分がそんな立場になるまでは、「他人の臓器を貰ってまで生き長らえようなんて、往生際が悪い」と考えていた人たちです。
 実際に「移植が必要です」という話をしても、「なんとか他の方法はありませんか?」と言われることがほとんどなのです。
 やっぱり、他人の臓器を貰うのには、感情的に抵抗もあるし、貰う対象の相手に対する遠慮もあります。ドナーは健康な体にメスを入れられるわけですから、自分から身内に「くれ!」なんて言い出せるわけもない。実際に「誰がドナーになるのか?」もしくは「誰かがドナーになれるのか?」ということで争いになることだって多いのだから…
 兄弟だってお互いに結婚していればそれぞれの家庭もあるし、夫婦であれば、患者である夫(あるいは妻)にパートナーがドナーとなった場合に、「もし2人ともに何かトラブルがあった場合、子供はどうするんだ!」という議論になることもあります。そもそも、夫婦というのはもともと遺伝子的には別々の存在なので、あまり移植の対象としては優れていない、という面もあるのですが。

 でもね、もちろん100%ではないけれど、どんなに日頃「いつ死んでもいい」とか「他人の臓器の移植を受けてまで生き延びたくない」と口にしている人でも、実際に自分が死に直面してみると「自分にはまだやり残したことがあるし、なんとかして生きたい!」と思うことが多いようなのです。もし「臓器移植」という唯一の方法が残されているならば。

 向井さん夫妻にしても、「そこまでして子供が欲しいの?」と彼らに疑問を感じた人々(僕も含む)の多くは、「別にそこまでしなくても、普通に子供を作る能力がある(あるいは、そう信じている)」もしくは「もともと子供を作ること自体を望んでいない」という「多数派」の人たちなんですよね。

正直、彼らの場合にはあまりの露出ぶりと「(経済的な面や原因によっては)誰にでも平等に行うことはできない方法」であるために、世間の理解を得られないところもあるとは思うのですが、もし僕が同じ立場だったら、と想像すると、僕だって「絶対に代理母出産を選択しない」と断言はできません。今は「そこまでやらなくても」と思っていますが。

 「もしあなたが『移植を受ければ助かるかもしれない』病気になっても、信念を貫いて移植を受けずに死ね」なんて言うのもヘンだし、健康な人が「移植を受けてまで生きたくない」のは当然のこと。人の考え方なんて、立場や状況によって変わっていくのが当然なのだから。

そして、だからこそ、「移植を受けてでも生きたい人たち」に対して、あんまり心無い言葉を投げかけて欲しくないなあ、とも思うのです。自分が臓器移植のドナーになるかどうかは、その人の人生観だから、良いとも悪いとも言えませんが。

でも、「そこまでして生きたいの?」とか「他人の臓器を貰ってまで…」なんていうのは、「パンがなければ、お菓子を食べればいいのに」というのと同じなのではないかなあ。
 お菓子もパンもなければ、雑草だって食べて生き延びようとするのが人間だから。

正直なところ、僕もこんなことを偉そうに言いながら、やっぱり「実感」できてないんだろうな、なんて思うのです。「もう90歳と御高齢ですし…延命処置はどうしましょうか?」なんて御家族と話しながら、「患者さん本人は、『90歳だから、もういい』なんて諦められるものなのだろうか?」なんて、心の中では考えてしまいます。

「自分の番」になるまで、わからないことなのかもしれないし、だからこそ「自分以外の人の死」というのを受け入れることができるのかもしれないけれど。