「医療者」と「一般人」の悲しき断絶
参考リンク:割り箸を見つけられなかったのは、「医療ミス」なの?
「わりばし死亡事故」の求刑が行われた日、僕のところにも、ささやかな波があった。
いやまあ、そんなに多い件数ではなかったのだけれど、批判・非難のメールも来て、嫌な気分になったりもした。
僕の周囲の医療系のサイトでも、さまざまな反応があったのだが、その多くは、「もし本当にこれで『有罪』として禁固刑になってしまうのなら、日本の救急医療の『事なかれ主義化』は、ひどくなっていく一方ではないか」というものだった。確かに僕もそう思うし、実際に、そういう「事なかれ主義化」は、進む一方だ。
あの「一関のたらいまわし事件」にしてもそうなのだが(あのときは、幸いにして実際に診療した医師が責任を問われることはなかったのだけれども)、「自分のところでは、当直医の専門や設備の問題で診られないから」ということで断れば(まあ、小さい子どもを夜中でもキチンと診られるような施設というのは、もともと希少なのだ)、少なくとも刑事罰に問われるようなことは、まずないだろうから。
そして、多くの病院の当直医にとっては、「夜中に急患を診ること」というのは、けっして喜ばしいことではない。何かあっても相談する人もいないし、できる検査も限られる。正直、怖い。
今回の事件に関するやりとりで僕が絶望的になったのは、「患者」と「医者」のあいだには、ものすごく大きな「断絶」があるのだなあ、というのを実感したということだ。
僕のところに来たメールにも、「あの医者を擁護するなんて、信じられない!」「医者失格!」というようなものがあったのだが、その人たちは、僕が書いたものをちゃんと読んでからそういう反応してきたのだろうか?「医者のミスのせいで亡くなった、かわいそうな子どもがいるのに、医者という特権階級の連中は、仲間うちで擁護しあっている」という先入観のみで、「医者が書いている」というだけで、実際に何が書いてあるのかよく読まずに、脊髄反射的に苦情メールとかを送ってきているのだろうという内容のものばかりだったし。
僕としては、あの事件について書いた文章は、現在医者が置かれている現実をなるべくそのまま書いたつもりだし、ことさらに「同業者を擁護」しているつもりはなかったのに。
それにしても、この事件に対する「医療従事者」と「一般人」とのあいだの乖離は大きい。
多くの人が、「あんなミスをしても、謝罪の言葉もない」と言っていたのだが、もし僕が、あの担当医の立場だったら、やっぱり、そう簡単に「すみませんでした」とは言わないと思う。それが「医者の傲慢」だと言う人もいるのだろうけど、考えてみてもらいたい。「アメリカでは、車をぶつけたときに、“I’m sorry.”と自分から言ってしまうと、裁判で不利になるから絶対に言うな」という伝説がある。それと同じことで、今回の事件だって、「お前のせいだ、謝れ!」と言われても、そう簡単に、謝るわけにはいかない。もちろん、小さな命が失われてしまったことは「残念」だと、担当医も痛切に感じているはずだ。でも、自分のこれからの人生が、そういう「自分の力が及ばない状況(と、少なくとも本人は考えている)での悲劇」によって歪められてしまう可能性があるのなら、たやすく「すみません」なんて言えるわけもないではないか。
この事件の「原因」は、不幸な偶然の事故であり、あの時点で、その「可能性」を予見できる人は、まずいないと思う。あの事故が起こってはじめて、その「可能性」をみんな考えるようになったのだ。
あらためて、「一般人」の反応の医療者への冷淡さには、背筋が凍る思いがする。そもそも、担当医がわりばしを突き刺したわけでもないし、その結論にたどり着くヒントも、診療した時点ではほとんど無かった。そして、今回のようなケースは、以前にも報告例がないので、ごくあたりまえの対応を担当医はしただけだと、僕は感じた。現代の医療というのは、そこまで万能ではありえない。
しかしながら、その一方で、多くの医者側から発信される「嘆き」というのも、たぶん、「非医療者」には伝わらないものだろうなあ、と思えてしかたがない。
「このままでは、夜間に救急を受け入れてくれる病院は、なくなってしまいますよ」
「すべてのこういう事例に、CTを撮るなんて、現場の忙しさや医療経済学的観点からみれば、ナンセンスだ」
これらの声は、僕らにとっては「事実」だ。でもまあ、一歩引いて考えると、患者さん(=非医療者)サイドからみれば、「おまえらは、自分たちが『医者』であるのをいいことに、患者を脅迫するのか?」というふうに、受け取られてしまうのかもしれないなあ、という気がする。というか、実際に困っている患者サイドからすれば、「救急診療の医療者にとってのリスク」とか、「医療経済学」なんていうのは、「そっち(医療側)の勝手な都合」にしか思えないのかもしれない。「ガタガタ言わずに、ミスしないで完璧な治療をすればいいんだよ!」というのが本音だという人も多いだろう。
そもそも、「医療側の都合」に理解を示すことは、「非医療側」にとっては、デメリットこそあれ、ほとんどメリットはないのだから。
結局、「医療者の立場というのは、医療者にしかわからないのか…」と口をつぐむしかないのかな、とか考えてしまうのだが、「本当にそれでいいのか?」という想いもある。ときおりこうやって「生贄」を与えておけば、なんとかやっていける、という考えもあるのかもしれないが、次の生贄は、僕かもしれないのだし。
これはまさに、この事件をマスメディアで知った人たちが、「もしかしたら、自分の子どもだって…」という気持ちから、大きな非難の声を上げたのと同じような危機意識なのだ。
残念ながら、この世界では「医療従事者」というのは少数派だ。そして、多くの人は、「自分の知識や経験で理解できるもの」以外を受け入れるのは難しい。いや、こんなに偉そうに僕も言っているけれど、例えば、野球中継で、「何でここで打たれるんだこのピッチャーは、何考えてるんだ!」というのも、プロ野球選手側からすれば、それなりの「理由」があるし、現場からみれば、「やれるだけのことはやっているけど、結果が出なかった」だけのことなのかもしれない。「公務員なんて…」と言う人は多いけれど、そういう人たちは、実際の「公務員の仕事」というのをどれだけ知っているのだろうか?
「介護に疲れた娘が母親を殺害」というのには、人々はみんな、「同情の余地」があると感じるはずだ。でも、「タリウム女子高生」に関しては、「言語道断!」という人がほとんどだろう。もちろん僕だってそうだ。本人にとっては、「どうしようもない衝動」だったのかもしれないが、やっぱり、その状況とか心情というものが、自分に理解できる範囲かどうかによって、その物事への評価のしかたというのは変わってくるものだ。そして、わざわざタリウム女子高生の心情を理解しようとする人が少ないのと同様に、「自分とは関わりのない医療者の世界」を積極的に理解しようとしてくれる人は少ない。 僕だって、自分の子どもが実際にこんな不幸な事故で命を落とせば、考え方がガラッと変わってしまう可能性もある。
僕は、今回あらためて、医療者サイドも、もう少し「患者の声」というのを真摯に受け入れていかなければならないな、とも感じた。僕たちの側も「患者は病気に対する知識が乏しいし、言いなりになっていたら過労死してしまう」というような先入観とか「医者の世界の現実も知らないくせに!」というような優越感を捨てて、テーブルにつかなければならない時期にきているのではないかと思う。「そんなんだったら、診てやらないぞ」ではなくて、「我々も困っているので、なんとか良い方法はないでしょうか?」というふうに。
むしろ、今の最大の問題点は、「医療の問題を、医療者だけが抱え込んでしまっている」という点にあるのかもしれない。「現実」を語ろうとせずに、「現実も知らないくせに!」なんて言っても、相手は、反感がつのる一方だろう。しかし、本当に「解答権」が与えられたとき、「一般人」を自称する人たちは、「医者は過労死するまで奴隷のように働け!」と言うのだろうか?
ゴーマンかましてよかですか。
とりあえず僕は医者なので、その自分が立っている位置から、自分の手の届く範囲だけでも、「医療者の世界」と「非医療者の世界」を繋ぎたいと思っているのだ。
まあ、そんな大風呂敷を広げてみても、道はあまりにも遠く、厳しいけれど。
どうせ、お前らにはわかんないんだよ!という罵りあいから生まれるのは「断絶」と「誤解」だけだなんて、みんなわかっているはずなのだからさ。