敵来る

昭和20年2月17日、私は10人くらいで高射砲の陣地作りの作業指導に行った。父島で世話になった砲兵隊で顔見知りばかりなり。昼食をご馳走になって雑談に花を咲かせていた。その時、この部隊に電話が入る。敵機動部隊北上中その数約800なり、である。さあ大変だ、来るものが来た。戦争だ。敵は内地に行くのでない、硫黄島に来たのだ。軍人である我等、恐ろしいだの命が惜しいなど口には出せない。みんな喜んでいるような顔はしているが内心はおだやかでない。次々と電話がはいる。南硫黄島付近を北上中という。もうすぐ硫黄島に来るのだ。この部隊の兵も我等工兵も少しも騒がぬ。作業を続行する。夕方終わり、我が陣地に帰る。帰っても誰も騒いでいない。みんな平気な顔をしている。その夜は穴の中で寝る。朝になった。

 

包囲さる

昭和20年2月18日、私は目が覚めた。穴の外に出て海上を見て驚いた。平常驚かない私であるが、この時ばかりは驚いた。海面いっぱい敵の軍艦である。島は完全に包囲されている。恐れていたものが遂に来た。私は生まれてこれほど多い軍艦を見た事がない、聞いた事もない。大部分の艦はいかりを下ろしている。大本営発表では、米国にはもはや軍艦はない、爆弾もなくセメントの爆弾を落していると言うが、軍艦が無いどころではない。大艦隊が目の前に居るではないか。戦艦は白い40センチ砲を6門揃えて島に向けている。大艦隊は全部砲身を島に向けている。どの艦も一発も撃たぬ。不思議である。私は全員に知らせた。

 

応戦準備

我等工兵もこの時とばかり武器も弾薬も飲料水も、なんでも地上にあるものは全部地下穴に引きずり込む。敵は撃ってこない。飛行機も全く飛ばぬのだ。嵐の前の静けさである。無気味である。我方も一発も撃たぬ。実に静かである。おかげでわれらは地上にあったもの全部地下に引きずり込んでしまった。

硫黄島最高司令官栗林忠道中将は全部隊に命令を下した。「諸士待望の敵来る、諸士は太平洋の防波堤となり最後の一兵たりとも尚ゲリラとなりて敵をなやますべし」である。最後の一兵たりとも戦えとは聞いたが、最後の一兵となっても死なずゲリラとなって戦えと言うのである栗林中将は玉砕を覚悟でこのような命令を出したものと思われる。胸中は察しられる。2万の部下と共に死ぬつもりであったかもしれない。

 

攻撃始まる

24時間何事もなくすぎた。敵さんこのまま帰ってくれ、頼む、と思ったがそうはいかん。島に向けていた40センチ砲以下一斉に火を吹いた。島には大地震が起こった。火柱は天に届くと思われるようだ。黒煙は島を覆う、鉄片はウナリを生じて四散する。直径1メートルもあるラワンの大木も根の方が上になってふっ飛ぶ。轟音は雷が100も200も一度に落ちたような物すごさである。地下30メートルの穴の中でも身体が飛上る。正にこの世の地獄となった。

続いて母艦からグラマン機が飛出して来た。その数の多いこと空一面であり、昼間だのに暗くなった。雲も見えないほど多く飛んできて機銃掃射をする。小型の爆弾を無数に落す。兵隊を見れば地面すれすれまで下って追いかけ必ず殺す。草も木も空中高く舞い上がる。近くの母艦から来るので、入れ替わり立ちかわりだから空にはいつも同じくらいが舞っている。空いっぱいである。日本の機銃のようにトントントンドドドウなどの音でない。何十機も一度に掃射する音は、雨のようにザーザーである。スコールが降るような音である。何物も残さず地上のものをなぎ倒すのである。

次はサイパンから大型機B24が何十機もそろってやって来る。ブルンブルンとうなりながら来る。銀色である。1万メートル以上の空を飛んで来るので、日本の高射砲などとどかない。下の方でバンバンと広がるだけだ。敵さん日本の高射砲の高さを計算に入れて弾丸のとどかぬ高さで来るので平気で飛んで来る。戦闘機も日本は全部やられているので手も足も出ない。島の上に来た奴は1トンという恐ろしい爆弾を落す。次から次と落すその音は恐ろしい。気の弱い奴は気ちがいになる。ヒューヒューと音を立てて落ちる。続いて大地震が起こる。炸裂する。岩石も土砂と一緒に中天に舞い上がる。そして落下する。直径10メートル、深さ5メートル位の穴が地面に出来る。人間が居れるような状況にない。まるで地獄である。連絡等で外に出た日本軍は必ず殺される。夜間を利用して出るより方法はない。

 

夜間の攻防

夜間は敵さん照明弾を数多く打ち上げ、落下傘につるした。照明弾は空中に長いことあって地上を照らすのである。次から次と夜通しで島全体を昼のように明るくする。歩いていると空と海から良く見えるのですぐに弾丸が飛んで来る。手の出しようもない。これからどうなるかわからんが、命のなくなるのはわかっている。

運が悪いのだ。内地勤務であれば、こんなことにはならないのになあと思う。どう思ってもしょうがない。今は戦わなければならぬ。我が軍は毎日死んでいく。敵は多い。上陸した奴をやっつけるよりない。我軍は彼等の上陸を待って一発も撃たずに地中に居るのだ。命令があるまで我軍は撃てないのだ。一発でも撃てばたちまちむらがる飛行機にやられる、全滅する。敵に我軍陣地を知られたら大変なんだ。地中30メートルに我軍全部無事なのである。今はただ彼等の上陸を待っているのである。砲弾は物すごくなるばかりである。硫黄島は敵の砲弾によって打ち砕かれて、方角もわからなくなった。目標物が全部やられたら方角はわからなくなる。目的地にいけなくなる。10日間引続いて撃ちまくるのであるから、島に砲弾の当らぬ所はない。草も木も一本もなくなった。支那の戦争もこれ程ひどくはなかった。

米軍も10日間撃ちまくって日本軍の抵抗がないので、全滅したと思ったかもしれん。上陸気配が見え出した。地中にある日本軍は生きていたのだ。

 

上陸開始

昭和20年2月27日、砲火をあびてから10日目に敵は日本軍全滅と見て南海岸に上陸を開始した。小舟で近づく米軍を水ぎわまでよせておいて、スリバチ山の砲兵は一斉に砲火をあびせ敵を全滅させた。この戦には勝った。栗林中将は敵が上陸するまで攻撃してはならぬと命令していたのに、現地の軍は命令を無視して攻撃して全滅せしめたのである。

後が悪い結果となったのである。我軍の健在を知った敵はうかつに上陸しない。南海岸一帯は前にも増して飛行機がむらがり爆弾の雨を降らしはじめた。砲弾も集中した。ムチャクチャの攻撃である。恐ろしいことだ。しらみつぶしに撃ちまくる。地形が変わってしまった。

 

遂に上陸

今度はムチャクチャ撃って爆弾の雨を降らせ、島を打ち砕いてから上陸を開始した。敵の一部は上陸してしまった。空と海とをとられている我軍は都合がわるい。兵隊や武器弾薬の補給は出来ない。敵の方は毎日増加するばかり。日本軍は昼間は出られない。出ればたちまち空からやられる。夜間を利用して斬込作戦に出た。各隊それぞれ5、6名くらいで斬込部隊を作り、暗夜に敵の陣地に斬込をかけるのである。幕舎でも兵器でも何でもよい、敵のものは全部爆破するのだ。斬込というのは刀で斬込むのではない。爆弾を持って敵陣に飛び込むのだ。初めのうちは非常に成功したが、敵に知れたのであまり成功しなくなった。誰も帰って来なくなった。全部やられるのだ。米軍もマイクを戦場に仕掛けて、我軍が斬込むのを手にとる如く知り、時期を見て機関銃の一斉射撃をあびせ全滅させるのである。マイクの事は我軍も気付かなかった。それでだいぶやられたのである。我軍も手をかえ品をかえ攻撃したが、皆やられた。敵は毎日増加するばかり、我軍は毎日死んでいくが、それでも斬込より他に勝てる方法がない。毎夜各隊各様に斬込をかけるのだ。私は神風が吹いて今に日本軍が勝つだろうとも思っていた。

工兵戦闘

我等工兵は歩兵のように戦闘はせんと思ったら大まちがいで、硫黄島のように包囲されては、工兵でも海軍でも砲兵でも軍人である限り戦わなければならないのだ。どの部隊も毎日斬込に行く。工兵は爆薬の取扱いには慣れている専門家だ。20キロの爆弾を自分で作って背中に負い、我が身もろとも敵陣に飛込むのを斬込と名付けて実行した。帰る者はなくなった。毎日死んでいく。私たち四国の部隊は半分父島に残り半分が硫黄島に居るので、非常に少ない人数だ。隊長の来代大尉は、敵機が来ると穴の中で震えていたが敵機が去ると穴から出て大きなことばかり言う臆病者だったが、敵の上陸する前、病気と言って師団の命令をもらい、飛行機で内地に引きあげてしまった。隊長が内地に帰った後には父島から中尉の人が来ることになっていた。早く来ればよいと私は思って待っている。ある日工兵が来たとの情報があった。しかし来たのは兵のみである。中尉は父島を出る時船を爆撃されて死んだという。我等の部隊のとなりに居った鹿児島の歩兵第145連隊(池田部隊)付の工兵少尉が一人我隊に来た。これで少尉2名、准尉1名、後は下士官と兵のみである。(石坂少尉、宮崎圓少尉)

 

1回斬込

工兵も軍人であるから戦わなければならぬ。夜間を利用して敵陣に斬込に行かねばならぬことになった。最初に斬込む者が決まった。我等工兵部隊に属していた輜重兵伍長以下特務兵6名である。皆さん直ちに2階級進んだ。班長の佐賀謙好伍長は曹長になった。特務兵は上等兵や兵長になった。嬉しそうに新しい階級章を付けて斬込準備をしていた。その夜20キロ爆弾を背負って敵陣に斬込んで行った。ただの1名も帰ってこなかった。

戦争とは本当にむごいものである。人の命を紙くずの如く殺すのである。

 

2回斬込

1回は2階級進級して死んでいった。第2回は進級はない。私も行かなければならなくなった。天皇のため国のため、東洋平和のため死ぬのだが、私は死にたくなかった。しかし喜んで死ぬような顔をしていただけだ。班長は矢野千郎軍曹、私を入れて5名であったが兵の名前を忘れた。20キロ爆弾を作った。夜になった。各人が背負った。明朝天山に来る敵の戦車に飛込み、戦車諸共我が身も死ぬのである。命令を受けて出発した。走ったり伏せたり止まったりで、ようやくにして天山に着いた。横穴に入る。朝まで戦車を待つことにする。泣いても笑っても明朝は死なねばならぬ。色々と頭に浮かぶ。身内の事、妻や子供の事思い出される。やがて穴の中で朝が来た。今か今かと戦車の来るのを待つ。戦車が来たら命はないのだが待たねばならぬ。いくら待っても戦車が来ん。戦車が来ないのにどうも出来ぬ。一同顔見合わせて待っている。

不思議なことに、私は過去3回の戦争でも絶対に死ぬはずの時に生き残った。今回も戦車が来んのでまだ生きている。母や妻子が神に祈ってくれるおかげかとも思う。いくら待てども戦車は来ぬ。夕方まで待ったが戦車が来ないので引きあげる事になった。みんな喜んだ。北部落に引きあげて帰った。腹ぺこだ。昨夜から何にも喰っていない。穴の中では、よくも生きて帰ったなあとみんな不思議がり、喜んでくれた。

 

3回目の斬込

元山飛行場はとられ、飛行機はただの一機もない。天山に戦車は必ず来る。どうしても天山で敵を食い止めんことには司令部も危ないのだ。われらは斬込に行って戦車が来ないので飛込まず帰ってきたのに、又行けという。一度死にそこなった者は生きて帰ってはいかんのかもしれない。今度こそ、行って死なねばならぬ。

分隊長  矢野千郎 軍 曹  高知市○○乙○○

隊 員  高橋利春 伍 長  高知県○○郡○○村○○

隊 員  西森道晴 上等兵  高知県○○郡○○○村○○

隊 員  横山義範 上等兵  高知県○○郡○村○○○

その他6名であったが名前は忘れた。今思い出せない。夜になり20キロ爆弾を背負い、銃を持ち、残りの兵に見送られ出発した。二度と帰らぬつもりであった。海上から撃って来る。機関砲も物すごい。黄燐弾が落下する。危なかった。天山の手前に、広島の藤原部隊が居る。歩兵である。この部隊の居るところに来た。各々20キロ火薬を背負っている。天山に斬込に行くと言うと歩兵は非常に喜んで、工兵来てくれたか、しっかり頼むぞ、将校まで出てきてありがとう、頼むぞと礼を言う。しかし我等は明朝死なねばならぬのであり、ありがたくなかった。歩兵に別れを言って我等は天山に向かって歩く。海から盛んに弾丸がとんで来る。ようやく天山についた。

 

天山着

今夜は我等工兵10名のみ斬込み死ぬものと思って出て来たが、同じ工兵の他の分隊が出て来た。我等の後を追ってきたのだ。私は只事ではないぞと直感した。我等が出発した時残っていた分隊も出て来た。全員死ぬつもりだと思った。いずれにしても我等工兵は生きては帰れないのだ。戦車が来れば飛込むのだ。我が身と共に散るのだ。死にたくないが止むを得ん。戦争に勝って内地に帰ることはないのだ。死ぬのだと思った。

 

陣地入る

われらの後から来た佐伯分隊は、天山の横穴陣地にはいる。軍医も海軍も砲兵も、憲兵まで来ている。そこへ我等工兵が割込んだのでいっぱいになる。連日の戦争で穴の中は死体でいっぱい、入口も出口も中の方も死体は山になっている。われらは友軍の死体を踏んで出入りする。あわれなれど戦争だから止むを得んのだ。

 

現地入り

われらは穴の中で少し休んだ。明朝斬込む場所を話し合う。そして決定した。それでは現地に行こうと穴を出る。我軍の死体を沢山踏んで出て行く。グニャグニャする、気持わるい。坂を登って行く。月が出ていた。明朝死ぬなんて思えない静かな夜だった。各人自分のはいる穴を掘るのだ。タコツボといって縦に掘るのだ。夢中で掘る。このタコツボから戦車めがけて飛込むのである。

 

佐伯軍曹の死

我等が一生懸命に穴を掘っていると、佐伯軍曹が見回って来た。私は軍曹の顔を見ておどろいた。月の光で見る顔は青白く、目はつり上がり口はゆがみ、この世の人とは思えぬ。私は思った。軍曹は死相が出ている。この人は死ぬと直感した。果せるかな、その夜おそく戦死した。一番先に死んだ。人間死ぬ前は人相が変わる事を知った。(佐伯重見軍曹だ)

 

内海兵長死す

佐伯軍曹の分隊に居る内海光男兵長も、この夜戦死した。銃弾が盛んに飛んで来る、それにあたったのだ。

 

西森上等兵戦死

我等の分隊は夜通し穴を掘り、朝になった。穴は出来たが、フタを作らねば空から飛行機で見られて全滅だ。各自それぞれ自分の掘った穴にフタをするため、木の枝や草や土のカタマリなど集めてくる。その時、高知県梼原村出身の西森道晴上等兵が、アイタヤラレタと叫んで右手で左手首を押えている。私が直ぐとなりに居ったので走りよって見ると、小銃弾で撃ちぬかれている。血が流れている。ホータイを出してしばってやった。私は西森とは特に親しかったので、矢野軍曹に相談して兵を1名つけて西森を下の横穴陣地に行かせた。そこに軍医も居るから診てもらえ、そのくらいの傷では死にはせんと言い聞かせて下がらせた。西森はすまんと言って下がって行った。まもなくわれらは戦車に飛込むのであるが、西森の方がよかったかもしれんのうと話したりした。

フタはすんだ。各自掘った穴に入り、フタをする。持っていた握り飯を喰う。直ぐ死ぬ身でも腹はへる。戦車を待つがまだ来ん。そのうち明るくなり、日が出た。私は穴の中からフタを少し突き上げて外をのぞいて見た。直ぐ下の海には敵の軍艦が沢山居り、陸に向けてドカンドカンと撃ちまくっている。空には小さな飛行機が沢山来てグルグル回って日本軍の行動を見ている。兵隊の一人でも見ようものなら、地面すれすれまで下りてきて機関銃で掃射する。爆弾を落すからたまらん。私は静かにフタを下ろして、又穴の中ですわる。戦車の来るのを待つ。そのうち戦車は来ず夜になった。やれやれと穴から出て背のびする。

それから穴にはいりすわる。外がさわがしいので首を出してみると、味方の兵が交代に来たと言うのだ。われらは申し送って交代する。私は又戦車に飛込まずに助かった。私は死に直面すると必ず何かが起こって必ず助かる。今までも不思議に助かっている。

我等交代して元の横穴に下がってきた。大勢の死体を踏んで陣地内にはいる。次の命令を待つ事になった。私は、朝手を撃たれた西森上等兵を探した。彼は軍医に診てもらったが、手当を受けて死んでいた。腕や足などの傷で死ぬことはないが、何故か死んでいた。私は看護兵に頼みて後、自分の分隊に帰り報告した。

陸地の3分の1は占領せられ、残る北部落に向けて敵はジリジリ攻めて来るのだ。とても勝てる見込みはないが、生きている限りは戦わなければならぬ。我々の居るこの陣地は山の中を掘りぬいたもので、なかなか広い。いずれの部隊が使用してもよいのだ。各部隊は、ここからそれぞれ斬込んでいくのだ。我等もまた、直ぐ歩兵の散兵壕掘りに出された。めくら弾丸がとんで来るので危ないこと甚だしい。今日は陸軍記念日なのに、戦争に休みはない。陣地作りばかりさせられる。戦争はつらいものなりと思う。



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