南進命令

われらの居る父島にも空襲は来る。硫黄島が危ない、飛行場のある硫黄島が危ないと誰もが感じた。太平洋の戦争は硫黄島に主力をおかれた。内地の部隊も続々と行く。父島の我々をそのまま置くはずがない。南進命令が来た。私は父島のほうがよい、硫黄島に行くことはいやだったがそんなことは許されぬ。喜び勇んで行く風をよそおっていた。

 

父島を出る

昭和19年6月30日、その夜我らは軍装をして暗闇の中を出て行く。扇浦港から上陸用船に乗り込み、住みなれた父島を後に、二度と帰れぬ硫黄島に向かった。昼間は敵に見つかるので夜間を利用して出発した訳なり。我等をのせた船は出た。二見港を後に南に向かって走る。私は郷里を出る時妻子に生きて帰ると言って出たが、どうも生きられぬような気がするのである。空が明るくなった。船は全速で走っている。何時とはなしに日本の飛行機が一台と駆逐艦が出てきて船を守ってくれる。ジグザグ行進が始まった。敵の潜水艦をかわすためなり。どうか無事で硫黄島に着くよう祈る。ボカチンをやられたら泳げない私は死ぬより外に道はないからである。

藤邨清一等兵と二人で甲板に出て話しながら行く。親兄弟妻子のことを考えながらじっと沖を見ている。これは誰も同じことを考えているのではなかろうか。南の方に島が見えてきた。あれが硫黄島だ。海面に平ぺったい島が絵のように浮かんでいる。

昭和19年7月1日、船は硫黄島の南海岸に着いた。兵は上陸する。荷物の陸揚げを手伝いする。今空襲が来たら全滅だと思いながら仕事をしたが幸いな事に来なかった。父島で一緒に居った武蔵野部隊の世話になり、横穴に入り食事もご馳走になる。顔見知りばかりだ。我等も戦場に来たのだ。

 

7月2日

その夜穴の中で夜を明かした。われらが昨日上陸した事は早くもサイパンの敵に知れた。空襲が来た。地方人も沢山居るのに空襲は物すごい。地方人も兵隊の横穴に逃げ込む。病人などが困った。私たちの近くにお産をした女の人が居った。自分は動けず赤ん坊と共に自分の家にいた。あわれなり敵の機銃掃射がはじまった。直径5寸ぐらいの木が横に千切れて飛ぶ恐ろしい奴だ。銃でなくて砲という方が本当だ。爆弾は所きらわず落す、火災が起こる、物質は焼ける、兵は死ぬ。我等陸軍はわずかしか来ていないが応戦する。空中戦も始まる。地獄のようになった。

 

送還

数十分で敵機は去る。住民は危ないので内地に強制的に引き揚げさせられる。着の身着のままで便があるごとに内地に送られる。最後に駐在巡査も引き揚げた。島は男ばかりで女気はない。牛や豚等は軍の食料となった。

 

部隊来る

毎日毎日内地から新しい部隊が来るようになった。野砲も来た。高射砲、ロケット砲、通信隊、憲兵まで来た。戦時態勢となっていく。米軍の空襲も毎日定期的に来る。B24という大型機が1万メートルの上空をやって来る。ブルンブルン音を出してくる。沢山銀色に光ってやって来る。我が高射砲部隊が一斉に火を吐くが飛行機まで弾丸はとどかず飛行機の下でバンバン炸裂する。敵は平気でブンブン飛んで来る。どうする事もできぬ。

それから数日たって大空襲が来た。次から次へと波状攻撃だ。ドスンドスン大型のバクダンを落す。上空には何時でも敵機が居る状態だ。バリバリドンドンザーザー雷のような爆弾の雨の音、火柱上る、大木も根が上になって空から落ちて来る、岩石も降ってくる、地鳴り震動する、恐ろしき戦場となる。敵さん落すだけ落し撃つだけ撃って帰って行った。島には火災が起こり弾丸の上に爆弾が落ちたのでパチパチ小銃弾のように独りで飛んで来る、危ない危ない近寄れない。やれやれ今日はこれだけか命が助かったと私はホッとした。それも束の間であった。たちまち全員顔色変えた。

遠くの海面に敵の大機動部隊が現れた。それ今度は上陸ぞ、これは大変だと思う。陣地は出来ていない。今上陸せられたら勝つ見込みはないが戦争だから止むを得ん。各部隊戦闘準備に入る。

 

諸君の命はもらった

我等の小隊長、宮崎圓(マドカ)少尉は小隊を集めて訓辞する。敵は上陸するものと思われる。諸君の命はこの小隊長が今日只今もらった。皇国の為戦って死んでもらいたい。もちろん小隊長も諸君と運命を共にすると言った。私は小隊長に命をもらわれた。生きて帰ることは出来なくなった。軍人は戦場に死すは本分であるが今死にたくない、生きて妻子に会いたいと思ったが顔には出さず喜んで死ぬような顔をしていた。皆同じ考えではなかったかと思う。求めて死にたい奴は居らんと思う。

 

墓穴を掘る

小隊長に命を捧げた我等は自分のはいるタコツボを掘る事になった。各自この自分の掘った穴に自分がはいって敵の上陸部隊と戦い、その陣地で死ぬのだという墓穴である。胸まではいり、鉄砲で敵をねらい射ち一歩も退いてはならぬのだと言う。みんな掘る掘る、首だけ出る位掘った。さあ来い我等は日本軍人ださあ来いと待ちかまえた。私も生きられぬとわかれば見事に死んで見せるぞ。妻子には生きて帰ると言って家を出たがもはや生きる望みはなくなった。止むを得ん。許せ、父は死ぬがお前らは地下から守ってやるぞと心で叫んだ。今日までの命であった事を深く心でわびた。

 

攻撃始まる

7隻の敵艦隊は白い姿を見せて近付いて来る。砲門を開いた。物すごい音と共に砲弾が落下する。それが炸裂する、この音が又物すごい。鉄片が飛ぶ音ウナリて飛ぶ。何十もある砲門から一斉に砲弾が来る。草も木も皆飛んでしまう。空襲よりまだ恐ろしい。火薬庫も飛行場も火の海となる。上陸するまで我等工兵は手も足も出ん。私はどうせ今日死ぬのだと思うから頭を出して敵の軍艦を見ていた。

ますます激しく砲弾が落ちてくる。火薬庫の上にも砲弾は落ちたので小銃弾がパンパン四方八方に自ら飛び散るようになった。数時間射ちまくった敵弾のため、島は穴ばかりになった。大火災は至る所に起こった。

 

上陸か

敵は急にピタリと砲撃をやめた。それ上陸ぞ、我等の番が来たぞと応戦準備にはいる。全員生きる望みを絶たれた。なぜ俺は4度も召集を受け最後にこの南の島で死なねばならぬのか、何の罰か、まだ1回も戦争に行かぬものも居るではないか。神は人間を救うと聞くが私は神に見はなされた。内地に残した妻子はどうなるのか、そんなことを考えたりしながら敵の上陸してくるのを銃をかまえて待った。

 

上陸せず

敵艦は上陸する気配なし。我等は今か今かと待っている。艦隊はクルリとまわり後向きになって帰って行くのだ。どうした事かアッケにとられた。上陸と見せて引返した。見る見るうちに水平線の彼方に消えて行ったのだ。的が外れた。やっぱり神は助けたもうたぞ。みんな安心した。小隊長に差し上げた命は又返してもらった。ひとまず安心した。次はいつ来るかわからない。支那の戦争とちがい艦砲でやられるから恐ろしい。

 

移動

我等工兵部隊は他部隊の陣地を借用して住んでいるので自分の陣地を作らねばならぬ。そのため北部落に移動する事になった。小さな島でも歩けば遠い。行軍で南海岸から北部落まで歩いた。今空襲せられたら命はないと思いながら歩いたが幸い空襲はなかった。

 

陣地作り

われらは北部落に来たが陣地がない。作るまで仮寝する。ヤシの木の下、タコの木の下、バナナの下など夜露をしのぐところに自分の分隊の寝るところを作る。寒くないからどこでも眠れるのだ。私らはタコの木の下であった。分隊長は小池軍曹であった。毎日工兵独特の横穴陣地を掘る。ツルハシでおこし、スコップでモッコに入れる。それをかつぎ出す。裸でフンドシ一つで土方をするのだ。汗が身体中流れる。体に土が散りかかる。ジュンと鳴って身体に付く。痛い。土は火山島だから熱い。我等も米不自由水不自由着替えなし風呂なし、木の下にごろ寝で暮らすのだ。飲料水は雨水を天幕に受けてそれを使う。早く自分等のはいる穴を作らんと空襲が来たら大変だ。地下30メートルないと空襲にやられる。高いガケが至る所にあり、それを利用して横に穴を掘っていく。平地は陣地にならん。私は西海岸に最近来た歩兵部隊の穴掘り指導に行かされた。空襲が毎日来る。歩兵に穴を掘らせる。火薬で破壊して掘り進む。地中で他の方面から来る穴と連結せねばならぬ。そのような事は工兵でないとわからん。右に掘れ左に掘れ上に掘れ等教えて掘り進む。歩兵は私の言う事をよく聞く。私も詳しくないが歩兵は私の言う通りに掘って行く。毎日私はここに通った。

 

人間頭飛ぶ

ある日相変わらず西海岸の歩兵の部隊に指導に行った。40メートルくらいのガケを横に掘る。昼食後の休み時間皆穴の外に出て休む。岩かげで雑談していた。その時空襲警報が出た。それ今掘った穴へ走れと歩兵に言ったが、仕事中は命令だから私の言うことを聞く歩兵も休み時間は私の言う事を聞かない。逃げる必要はないと言って動かぬ。ここには落さんと平気である。私は危険を直感したので歩兵と別れ走った。横穴に飛び込んだ。その時早くも飛行機は来た。爆弾は地ひびき立てて落下した。黒煙と共に火柱がたち、砂煙で何も見えなくなった。飛行機は海上に去った。私は今別れた歩兵が気になり走って行って見た。誰も居らぬ。地形が変わっている。土煙が残っている。私はオーイオーイ叫んでみたが返事がない。

それもその筈なり。全員死んでいる。探してみると、あちらにもこちらにも散り土にまみれて居る者、半分埋まっている者足や手のないもの沢山だ。歩兵も沢山来た。死体を数えてみると一人足らん。探すうち、はるか遠く飛ばされて下半身を土に埋められすわっている。よく見ると頭がない。頭の頂上の皮が破れて頭がい骨が全くない。皮には目も鼻も耳もついている。こんな死に方は見た事がない。支那の戦争以来死んだ人をずいぶん見たが、これは珍しい死に方である。私の言う事を聞いてあの時逃げてくれたらこんな死に方をせんで済んでいたものをかわいそうにと思った。人間は誰でも他の者の言う事は聞きたがらんものだ。それがわざわいを招いたのだ。歩兵の看護兵が死体の頭の皮の中へ脱脂綿を詰め込んで頭のカッコウを作り、その上からホータイをした。元の通り頭は出来たが中身は脱脂綿である。このように人間の頭の皮が残り中身のないのを見た事がない。人間の死に方には色々あるものだと思う。看護兵の措置は戦友に対するせめてもの思いやりだと感じた。

 

予感

予感というものはある。暑い夏の夜だった。私は疲れた身体をタコの木の下に横たえて眠った。ゴロ寝た私は赤痢で腹痛がして便所に度々行かねばならぬ。今夜はどうも空襲があるような気がする。となりに眠っている仲良しの藤邨一等兵に、おい横穴の掘りかけに行って寝んか、どうも変な気がするから、とゆり起こした。藤邨一等兵は、私は行かんでありますと言って起きない。やむなく私は一人で行った。10メートル位はなれた掘りかけの横穴にいって横になったその時だ。

 

爆弾

ただ一機陸地すれすれに日本の方向から飛行機が来てドカドカドカーンと沢山の小型弾を落して南方に去った。私は驚いた。分隊は無事かと立ち上がった。兵長殿、兵長殿、分隊全部やられました、叫んできた兵がある。見れば頭に血が流れて物すごい。早速傷の手当をしてやる。私は小隊長宮崎少尉のところに飛んで行き報告する。小隊長と共に分隊のところに来て見ると小隊全部やられている。暗くてよくは分からんが、4個分隊居らんようだ。1分隊、3分隊、4分隊、衛生分隊、全部吹き飛ばされている。2分隊は無事である。岩かげにいた2名は助かっている。30名ばかり全滅である。宮崎圓少尉は、今晩は暗くてどうもならんのう、夜が明けたら良く探してみよう、という事になった。生き残った兵の手当をして引きあげた。どうもならず手のつけようがないのだ。火をつけて探すことはできぬ。敵に陣地を知らせることになるので夜間火をつけて仕事をする事はできぬのだ。戦争とは誠に恐ろしい事である。

 

葬式

翌朝早く、宮崎少尉と生き残った4名の兵と2分隊の兵とで死体を探した。千切れた死体を集める。全部集めて硫黄の吹いているところを掘って埋める。藤邨一等兵が居らぬ。いくら探しても死体が見付からぬ。一同あちこち探した。居った居った、20メートルくらい西方、バナナの木の下の谷間に土砂と共に打ちつけられて下半身を埋め、すわったようになって死んでいる。もはやどうも出来ぬ。その場を掘って葬ってやった。小隊長宮崎少尉は地方では神官であるから、高天原を祈って葬式をした。我等も手を合せた。小隊長は、藤邨も一緒にここに葬ったらよかったのうと涙を流した。

小隊の大部分は死んだが、私はこの日も無事に生きていた。予感で助かったのだ。分隊長の小池軍曹もこの日死んだ。私の任務もますます重くなった。

 

不発弾

又ある日、矢野軍曹と私は敵状偵察に行った。夜間で暗い。目の前に大きな砲弾が落ちた。私と矢野軍曹は土砂に埋まった。耳も聞こえず目も見えぬ。気が付いたが死んでいない。顔見合わせて笑った。その砲弾は地中深くはいったが不発であった。もし爆発していたら私等二人は木っ端みじんであり二度と帰らぬ人となっていたのであるが、このときも私は助かった。

 

硫黄島状況

硫黄島は北方に北硫黄島、南方に南硫黄島があり、その中間にあるのが我等の居る硫黄島なのである。北と南は無人島である。我等の居ったのは、縦6キロ、横3キロ位の島である。これに2万あまりの陸海軍が居ったのだ。東京から約1050キロ位、火山島で中央部から煙を噴き上げている。一年間に10センチ位盛り上がっている。西にスリバチ山があり、150メートル位の山でパイプ山と我等は呼んだ。中に火口がありパイプのようになっているので、そうよんでいた。

 

水はない。川もない沼もない。雨水を利用して飲料水にするのだ。毎日スコールという雨が降る。5分間位だが大雨となる。終わると晴天となる。兵は天幕に受けて使う。野原も海面も湯気が立っている。海水は湯になっている。その箇所は魚も寄り付かない。地面はどこにすわっても尻があつい。湯気のところへ飯盒を埋めておくと飯が出来る。

 

樹木

タコの木というのがある。一本の幹から枝が沢山出て、それが全部地中にはいり、いずれも根が出て成長する。数十本で幹を抱き上げているものもある。タコが頭上に幹を差し上げたようになっている。これの身を打ち割り、中の白いところを喰うとうまい。その他バナナ、パパイヤ、ヤシ、ネム、ラワン等があり、後に兵の食料となった。ヤドリ木などは飯盒で炊いて喰うたが、ガシャガシャして喰えなかった。草も木も兵が喰ってしまった。

 

農作物

野菜は出来ない。畑にはパイナップル、麻薬のコカイン、野菜のゲランなどがあるが人間が喰えない。常夏の国であるから一年中草木は成長している。

 

生物

蛇やトカゲ、ムカデ等全然いない。地面が熱いので冷血物は生きられんのであろう。鳥はメジロが沢山居る。カラス、スズメ等居らない。メジロは人間を見ても逃げることを知らないので、兵はよくとって焼いて喰った。

 

空襲

空襲は毎日来る。必ず来る。定期便と名をつけていた。B24という大型の飛行機で、銀色に光り輝きながら大編隊でブルンブルンと飛行して来る。島の上空から一斉に爆弾を落す。物質は飛ぶ、兵は死ぬ。大損害である。日本の高射砲は飛行機まではとどかない。下の方で炸裂するだけである。敵さん平気でやってくるのだ。日本の高射砲のとどかぬように1万メートル以上の空を飛んで来るので撃ち落すことは出来ぬ。1トン爆弾を落されると、地面に10メートル直径位の大穴が出来、土砂が中空から降ってくる。物すごい音だ。火災は起こる物資は吹き飛ぶ大損害である。

 

艦砲

昭和19年秋となる。敵の機動部隊が多く来るようになった。毎日来る。島を打ち砕いて帰って行く。兵は死ぬ、物資は吹き飛ぶ、空襲以上の損害だ。地中の陣地に居っても身体が上下にゆれる。兵は少なくなり、米も水もなくなり大変だ。兵は腹がへるので米を盗んで生のまま握ってかじる。それが非常にうまい。見付かったら銃殺せられる。軍法会議も何もない。刑は直ちに執行せられるのだ。恐ろしい事だ。

 

明治節

昭和19年11月3日、明治節だ。内地の部隊に居ると外出日だが、軍隊は戦争が本分であり、戦争中は外出など全くない。米軍は日本の祭日を良く知っている。祭日は特に多く爆弾が来る。その後必ず艦砲射撃がある。陸地は大損害である。空襲より砲撃の方がまだ損害が多い。兵も物資も大損害を受けた。

 

親子弾

私はある日、兵5名を連れて北部落を歩いていた。その時日本の方角からただ一機飛行機が近付いて来る。私は敵と直感して兵と共に岩かげに身をかくした。敵は兵がいないので親子弾を落して逃げた。この爆弾は恐ろしい奴だ。1発が10発になり、10発は数千発に砕けて飛び散る。100メートル四方の生物は必ず死ぬという奴だ。飛び散る鉄片のウナリは物すごい。私等はこんなのは初めてである。もう少し見付けるのがおそかったら…。われらは岩にかくれて助かった。全員死ぬところであった。私が早く見付けて岩のかげにかくしたので全員助かった。毎日の重労働で兵は骨と皮となり、それでも文句を言うものはなく、陣地作りをやっている。弱いものは死ぬ。強いものは生き残る。死んだらその場に埋める。生きていれば重労働だ。

 

工藤軍曹死す

工藤という軍曹が居った。彼は兵を情け容赦なくこき使う。上官の命は天皇の命だと言う。兵はよく思わないがやむを得ず従っている。彼は病気になった。岩のかげに寝ていた。軍医も居らぬ南洋の島で、誰にも看取られず淋しく死んだ。その場に埋められた。悪いことをすると罰があたるという。本当だ。天皇の命も通用せず死んだ。人間死ぬ時は如何なる悪人も真心になると言う。彼も、兵をいじめたことを後悔して死んだことであろう。あわれである。

 

新年

昭和19年も終わり、硫黄島にも春が来た。新年である。昭和20年の正月である。日本本土をはなれて1000キロあまり、餅もない、酒もない、金もない、買う店もない正月だ。敵機は毎日来る。夜も来るようになった。我等を眠らせない神経作戦である。新年おめでとうと誰も言わない。めでたくないのである。



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