召集

兵庫県西宮署に勤務中の私に召集令状来る。今回は4回目である。昭和19年2月6日の事なり。私は3回戦争に行き、九死に一生を得て帰ったのに神は私に又行けと云われるのかと思ったがそんなことは口にも出さぬ。戦にのぞみ敵に当るのが軍人の本分である名誉なのだ。直ちに署長に報告する。

本署で送別を受け我が家に帰る。隣近所にあいさつにまわり、女房子供には必ず生きて帰る心配するなと言い聞かせ西宮駅から汽車に乗り善通寺に向かった。土佐の母や兄弟にも会いたかったが時間がない。直接入隊する。

昭和19年2月9日のことだった。

 

入隊

4回目の軍隊なり。自分の家のようなもの。召集されたものは顔見知りのものばかりである。オイ、又来たかや、おおたのむぞ。過ぎし3度の戦場に思いをはせる。2月というのに夏物の被服が支給される。南方行きはすぐ知れる。

独立工兵東部第2753部隊が編成された。隊長は來代良平大尉である。中尉2名、少尉2名、准尉1名主計軍曹1名、その他下士官兵278名の小部隊である。私は兵長だから下士官勤務である。

早速週番下士官を命ぜられた。忙しいのなんの食事の世話、演習の世話、面会人の世話、目がまわる忙しさだ。面会人は一人30分で外出は許可にならない。面会所で大勢一緒に面会するのだからつまらぬ話もできぬ。最後の別れと思うのか面会人の多いこと、妻子あるものばかりの兵だから面会人は特に多いのだ。

 

私の面会

私にも面会人が来た。西宮から妻が2人の子供を連れて面会に来た。汽車の切符も買えない時代によくも善通寺まで来たものだ。自分の配給米を食わずに私のためにためて握り飯を作って持ってきてくれた。私は兵長の服を着ていた。

勝幸を草の上にすわらせて智恵子を抱いてやる。3人が握り飯を食う。何にも話すことなし、死に行く者と見送る者とだ。ただ顔見合すだけで総てがわかる。30分の面会時間は過ぎた。

勝幸は私の若い時の洋服を仕立て直して着ている。子供服など売ってない時代だ。智恵子は何にも知らず母の背中で笑っている。勝幸も父が戦争に行くのを何と思ったであろう。死ぬかもしれぬ父を見て何と思ったか、小さい背中を私の方に向けて営門を出て行く。振り返り笑う妻。見送る私も涙が出る。帝国軍人だ、陸軍兵長だ、泣く訳にはいかんのだ。顔で笑って心で泣いて私は妻子と別れた。妻は私の帰りを待たず病死するのであるが、このときは私にはわからなかった。私は物事を気にしない方であるが、この時ばかりは気になった。神様が私に妻との最後の別れをさせてくださったのだと今でも信じている。

私の妻との面会の後、今度は土佐から繁兄が老母を連れて面会に来た。うれしかった。西宮から入隊したので土佐へは帰れず母に会いたいと思っていたが今こそ会うことができた。来てくれなかったら会わずに戦争に行ってしまうところだった。よく来てくれた。母と兄とにお礼を言った。30分の面会時間は過ぎ去った。

老いた母は兄と営門を出て行く。別れはつらいものだ。私も顔では笑っているが心では泣いていた。帝国軍人はどんな時でも泣かれんことになっていたのであるが、独り涙が出てきた。

今まで3度戦争に行ったが、家族が面会に来てくれたことはなかった。それが今回は妻子も母も兄も来てくれた。どうもおかしい。私は今回の戦争で死ぬのではないか、神様が面会させてくれたのではないかと思うようになった。妻と別れのような気もした。それがピッタリ当るのであるがこのときはわからなかった。

 

出征

昭和19年2月22日、朝早く起こされた。善通寺は寒かった。さあ出発だ。今度見送り人はない。見送ってはならないことになっていた時代だ。汽車で善通寺を発し高松に向かう。高松の桟橋で連絡船を待つ。長い時間待たされる。その間の寒いこと震え上がる、歯がガタガタ鳴る。なにぶん冬に夏服を着ているので寒い。ようやく船が来た。みんな乗る。船は1時間で宇野に着く。宇野から汽車に乗る。ガタゴトゆれて大阪に着いた時は夜になっていた。大阪方面に出稼ぎ中の兵の家族はホームに来ていて窓越しに面会している。兵は下車を許されず、面会人は乗車を許されないのである。軍律はきびしいものである。

 

谷川上等兵

私とならんですわっている高知県出身の谷川政一上等兵、支那の戦争からずっと一緒だった戦友なり。この人後日硫黄島で戦死するのだがこの時はわからなかった。私が九死に一生を得て復員し清水警察署勤務中彼の妻に会い、谷川上等兵の戦死を知らせた。彼の妻は、夫は帰るかもしれないと待っていたが、私の詳しい話を聞いて戦死と知り、再婚した。

 

富士山

汽車は大阪を出て東に向かう。その夜が明けて富士山が見える。昭和19年2月23日の朝だ。あの富士山を二度と見ることができるであろうかと私は思いながら汽車は東に向かう。汽車は東京の品川駅に着く。下車命令が出た。この駅は私に忘れられる訳がない。過ぐる年弟が戦死し遺骨を受け取りに来た駅だ。又父が上京してこの駅に下車後病気となり宿舎で死んだ時兄が遺骨をとりに来た駅だ。今私が降りた、戦争に行くために下車したのだ、不思議なことだ。父の病死した病院の前を通って私等の行軍は行く。しばらくして寺に着いた。この寺で宿泊するということになった。寺の娘さんや家族とトランプなどして遊んだ。外出はできない。3日間休んだ。

 

出発

昭和19年2月26日、突然出発命令来る。東京港芝浦まで行軍する。桟橋に大輸送船が横付けになっている。歩兵部隊が続々と乗船している。芝殿丸という大きな船だ南方行き専門の船らしい。我等工兵も乗り込んだ。何千人乗ったかわからんが船内はスシヅメ身動きもできん程詰め込まれた。

この頃日本軍は負け戦であり、南方行きは途中でボカチンに遭い満足に目的地に着く船は少なかった。海のモクズとなるものばかりの時代である。船は動き出した。私は甲板に立ち沖を見た。黒い雲が立ち込めて大時化の様態を示し、私は不吉な予感がした。今度行く所はよくないぞ、あるいは私は死ぬのではないかと思う。

船は伊豆の山々を見て南下するばかり、八丈島を左に見て進んでいる。どこに行くのやらわからん、ジグザグ運行が始まる。敵の潜水艦をよけるためだ。日本の飛行機も出てきた。空をまわってわれらの警備をしてくれる。われらはボカチンに備えてイカダの乗り移り訓練をする。少しも遊ばせてはくれないし休ませてくれないのだ。

 

19.3.4

長い船旅を終えて今朝はヤシの木高くそびゆる暖かい南の島に着いた。これは日本の小笠原諸島の父島である。私は生まれてはじめて見る島だ。二見港に入港する。我が輸送船の大きいのが港にたくさん居るが、横腹や後部に大きな穴をあけられかろうじて浮かんでいる。戦争の傷だ。魚雷にやられたのだ。我等はよく無事に着いたものよ。

行軍で島の東側扇浦という部落に行く。3月なのに真夏の暑さである。民家の納屋を借りて兵舎にしている。東京の武蔵野部隊と同居することになる。同じ工兵隊だからである。

 

父島

山はタコ、ヤシ、ゴム、松、杉その他雑木が生い茂っている。島民も大勢居る。陸海軍の兵隊も沢山来ており日本の慰安婦が沢山来ている。平和な島だった。敵の近接に伴い我等が増強された訳だ。われらは毎日陣地作りをする。トンネルを掘ったり橋をかけたり道路を作ったり、敵上陸に備えて作業する。まだ敵は来ない。

 

空襲

平和は束の間だった。ある日突然大空襲に見舞われた。夢は破られたちまち戦場となる。大村という街は火の海となる、港の船は沈められる焼かれる大破されてしまった。敵機は去ったがどうものんきに暮らしている訳にはいかない、いよいよ戦時状態になっていく。毎日陣地作りが忙しくなった。私は兵長だから下士官代理として内勤となり、事務所で事務をとることを命ぜられた。これから重要な事務をとらねばならぬ、大変である。

 

大波に遭う

各部隊から毎日1名軍司令部へ命令受領に行かねばならぬ。工兵から私が行くことになった。下士官でなければならぬが、私は兵長だから下士官勤務である。私等の居る扇浦から大村の司令部までは海を渡って行くか陸を大きくまわって歩くしか行く方法はない。毎日私は海を渡っていた。

今日は大波である。しかし陸を歩いては間に合わぬ。無理を頼んで小舟に乗った。船頭に聞いた。大丈夫かと言うと、危ないもし舟が沈んだらフカが喰う、と言う。それでも渡してもらった。

水は舟に飛込むビショヌレになる、ようやく渡って司令部にかけつける。各隊の下士官は来ていた。エライ人の言う事を筆記して持ち帰った。任務は無事終わった。それ以来私は早く出て陸を歩いてまわり、舟には乗らなかった。危ないので歩いた。

 

ペリリュー島

ペリリュー島を落した米軍はサイパンテニヤンを落した。悲報は父島の我等にもとどいた。玉砕という。我等南に向かって黙とうする。みんな泣いた。サイパン島には日本人が多く、婦女子に至るまで軍と運命を共にしたのである。男は軍に徴用されて戦い玉砕、女子供は海中に身を投じ自殺した。敵軍に身をけがされるのを恥として自害したのだ。婦女子が海中に身を投ずるのを目撃した米軍はその恐ろしさにアッと言ったまま開いた口がふさがらなかったという。黒髪を海になびかせて死んでいくのは悲惨な出来事である。戦争はこんなに恐ろしいものなのだ。内地の女性にこんな事ができるであろうか。ガム、サイパン、テニヤン島の女性は当時はアッパレやまとなでしこであるとかおみなえしであるとか言われたのである。



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