counterfeit ; L'odeur de la Papaye verte 09




 「京極堂」
舗に顔を覗かせると店主の不機嫌な俯き顔が見えた。
「関口くん、久方ぶりだね」
膝の猫を撫でながら京極堂こと中禅寺秋彦は眼は紙面に向けたまま挨拶をした。
「うん…」
関口は本棚を覗き込む。
「僕に話しがあるのなら、いつまでもふらふらしていないで腰を落ち着けてくれないか?」
鷲のような眼が関口を舐めた。
「あのさ、君は…榎木津さんのこと…聞いている?」
訊きながら帳台の向かいの椅子へ座った。
「なんだい?藪から棒に。第一君は此の時分夕餉の支度で忙しいのじゃなかったのかい?」
刻限は夕方に近い。
間も無く、夕闇が東果てから浸蝕してくるだろう。
「うん、まあそうなんだけれど」
「不安顔だな」
店主を振り返ると顔を上げて関口を見てた。眼が合う。
「卑怯だぞ、京極堂」
「何を意味が判らないことを言っている。で、どうしたんだ?榎木津が」
「否、先日珍しく呼ばれて」
思えば主人と使用人だと云うのに正式に…と言うのもおかしいが、顔を合わせたのは初めてだった。同じ家に暮らしているのに。 ピアノの置いてある主室は此の瀟洒な家内で尤も華麗で繊細でエキセントリックだった。
廊下とを仕切る扉と壁は羅馬の女神が胸を突き出した立体的なレリーフの擦り硝子で、外界とは天井まで届く背の高い窓。中華風の紫檀の椅子と卓子と長椅子。黒檀の棚。何処から入手したのか不明な仏像。肉感的な官能的な姿をしている。クリムトの下絵。様々な宝飾品。
それを随える黒色の美しい、流麗な曲線を持つグランドピアノ。
数多の楽譜と大きな花を開く蓄音機。
いつも掃除をしているがこうして主人である榎木津が居る中で、此の部屋に入るのは初めてだったのだ。
「暫く家を留守にするからって」
「榎木津は意味も無く姿を消すことは度々だぜ。君も屋敷に勤めていたなら知っているだろう?」
「あの頃は僕とはまるで関わりが無かったし」
口を尖らせた。
「視野が狭いだけだ」
関口は押し黙った。此の男に云い勝てるとは思ったことは無いが、それでも矢張り悔しい。
「それがどうしたんだい?」
「……勤めを…放り出されるかもしれない…んだ…」
「何があった?」
「鳥渡…ね」
関口は顔を俯けた。
仮令昔馴染みの京極堂であろうとも─────あんなことは言えやしない。
鳥口との情交を見られてしまったなど。
 榎木津が屋敷の夜会に出掛けてしまい閑を持余していると鳥口が遣って来て、関口を食事に誘った。屋敷を離れてしまった今や総一郎に会える千載一遇の機会だったが、榎木津の屋敷から手伝いに来いという要請は無かったのだ。
鳥口の誘いを断る理由は無かった。
互いにほろ酔い加減に酒が入っていた。
食事に出て戻ってくると、雨が降り出した。
家の主人はその日中に帰って来ないだろうことは察せられた。経験則的に出掛けてしまった主人は大抵雨夜は帰って来ない。
鳥口に抱き締められると、脳裏に総一郎の像が結ばれる。
あの人は果たして己を個別認識してくれているだろうか。
それすら判らない。
彼と触れ合ったのは、未だ榎木津に入ったばかりのずっと昔のことだった。
あの関口の身より重い置物を壊してしまった時だけだ。
「榎木津がそう簡単に君を手放すとは思えないけどね」
「何故?」
京極の声に関口は顔を上げて顰めた。
「君が─────猿に似ているからだ」
「何だよ、そんな皮肉」
「榎木津のことが嫌いかい?」
「…そんな訳無いだろう。だけど、あの人と一緒に居ることは余り好きじゃない」
「ほう、何でだい?」
京極堂の指が猫の顎を撫でた。
「だって緊張するじゃないか。あんな…人…」
いつかの水から上がって上肢を曝して濡れぼそった榎木津を思い出すと自然顔が紅らんだ。
総一郎とはまるで似ていない。
けれども、榎木津は関口の目を引く。
「緊張、か。それは特別な感情から?」
「何が云いたいんだ。中禅寺」
「否、」
猫が膝の上で鳴いた。
京極堂が何を言っているのかまるで判らなかったが、榎木津から関口を放り出す云々や鳥口とのことで何も聞いていないことが判っただけで充分だった。
何の取り得の無い関口は他の職業に着くことは不可能だろうし、そもそもその道で榎木津の家より良い働き口など滅多にあるものではないだろう。
何れ放り出されるなら、御屋敷へ戻るか……出来ることならば総一郎の処へ行きたかった。






??/11/06






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