counterfeit ; L'odeur de la Papaye verte 10




雨期に入っていた。
夕刻から雨が降り始めた。
此の季節に降る雨はスコールと決まっている。激しい雨である。
ピアノの置かれた部屋の長椅子に座りながら関口は窓の外の驟雨を聞いていた。主人の居ない家屋は散らかることが無い。食事も己一人のもので。
「少し退屈、」
思えばこれ程長期間一人だったことはない。
己は礼二郎の身の回りの世話をする為に此処にいるのに、今はすることがない。
退屈だった。
眼を瞑る。


 人の気配を感じて眼を開ける。少し睡っていたようだ。世界は夜に埋没していた。そして緩慢に上肢を起こすと、其処には久方ぶりに見る榎木津礼二郎がいた。
思わず蒼くなる。
仮令留守が多くとも、家の主人である。
「す、すみません…」
関口にしては非常に素早く立ち上がったが、襯衣の裾を強く引かれその勢いでまろぶように臀部は再び長椅子に触れた。
そして恐恐と隣に座る人物を見遣れば、琥珀色の眸で凝視された。
「長く留守にしたね」
長い付き合いでは無いが榎木津の声が真摯な色を帯びているように感じた。意識下で警鐘が聞こえ出し、胸の鼓動が早鐘を打ち鳴らした。
「関くん」
手が伸びる。
逃げたほうが良い─────。
警鐘が躰内を席巻した。
 関口は走り出した。
跫はそう早いほうではない。けれどもあの手に触れてはいけないような気がする。ピアノの下を潜ると榎木津の手が関口の襯衣の裾を掴んだ。其儘榎木津が引き摺り出そうとすると、不意に襯衣が軽くなった。
脱兎と白い背が榎木津に向けられて、関口は再び走り出していた。
「セキ、」
榎木津が声を上げた。
廊下に出ると関口は居なかった。
台所の方で物音がする。そちらは関口の領域テリトリーだ。跫を向けるが関口の影は見られない。
不意に靴先に何かが当たった。
見れば青いパパイヤが転がっていて、榎木津は腰を曲げてそれを掴むと、壁のすぐ向こうに跫が見えた。
互いの間は20cmにも満たない。
関口の跫だ。
強張っている。
壁際には盥が置かれ、パパイヤが積み重なっていた。関口の跫が盥を蹴ってしまったのだろう。
壁へ静かに身を寄せる。
そして顔を出した。
互いの間隔はほんの僅かだ。
怯気りと─────。
暗がりに見る関口は今にも世界が崩壊するかのような怯えた顔をしていた。
榎木津は思わず見蕩れる。
そんな怯えた顔に未だ嘗て出会ったことが無い。
素晴らしい怯え方だった。
関口の脣が僅かに震えている。
その細い肩を掴もうとした瞬間、関口はするりと逃げ出す。家屋に逃げる場所はその先には関口の私室ばかりだ。追い詰めたも同然だ。そう思ったのだが関口は暗に反した行動を取った。
時に関口は大胆なのだな、と榎木津の口元が綻んだ。
それは嬉しい誤算である。
驟雨。
雨の銀糸が間断無く激しく空間を埋めている。庭の土を穿ち白い飛沫を上げていた。
関口はその中を躊躇うことなく突き進んだ。
自分の手を擦り抜けた関口に榎木津は喜色に満ちて、己もまた激しい雨の中へ身を躍らせた。
矢のような雨は容赦なく膚を打ち据える。痛い程だった。
直接皮膚に激しい刺戟を受ける関口は猶更だろう。
跫が長く速い榎木津が、ただでさえ跫の鈍い関口を捕まえたのは、門扉と家屋の中頃にあるプラタナスの下だった。
盆の窪辺りを片手で抓み、振り向かせて喰い付くように接吻をした。
互いの脣の間に雨が侵入する。
関口の腕が榎木津を押すが、勿論榎木津は怯気りともしない。榎木津は気儘に関口の脣を貪ると、やがて耳に脣を宛がった。
「本当のことを教えてやろう。関くん。君は当初僕の莫迦な兄の許へ往くことになっていたんだ。けれども僕が横取りをしたといったら…怒るかい?」
驟雨に声は途切れ途切れに聞こえた。
関口の目が剥かれる。
「君がずっと兄を眼の端で追っていたように、あの兄も君を追っていた」
榎木津の脣から紡がれる言葉は俄かには信じがたいことだ。
総一郎が関口を─────?
もう一度、榎木津は関口の頸から両の頬に両手を掛けて、脣を合わせた。
「だけれど、こうして、君を掠め取る」
片目を眇め、艶を孕んでその脣が酷薄に優美に笑む。
「あの…礼二郎さま…」
何と呼べばよいのか判らなかった。
思えば関口は礼二郎本人に向かって名を呼びかけたことは無い。
「そんな偉そうな敬称はいらないし、僕は榎木津だ。君にとって榎木津は僕一人で良い」
他の榎木津に関口の所有権は認めない─────と甘く囁いた。
「そんな…」
「もう君をあの兄の許になんかにやらない」
雨の中で世界が旋回する。
眩暈が─────する。
「眼が寄った橇犬みたいな彼は殴り飛ばしてきた」
半ば鳥口の強引だったからだ。
けれども関口もそれを受け入れたのだから、彼ばかりが殴られる謂れは無いだろう。
「でも…あんたにだって、あの人がいるじゃないか!」
「女とは別れてきたよ」
あの日関口が榎木津の背広を嗅いでいるのを目撃したあの女性は─────榎木津の婚約者になる人間だと京極堂は語っていた。
「そんな…」
もう逃げ道は─────無い。
総一郎は現在国に居ない。彼の許に逃げたくとも、そんなことは出来ないのだ。
追い詰められる─────。
裸躰の背に榎木津の両腕が巡る。
「何の理由があって…」そんな真似をするのか。
総一郎から引き離され、鳥口を殴り、女性と別れる。
余りにも勝手な行為だ。
まるで第六天の如き横暴さだ。
逃げ出したかった。けれども関口はがっちりと榎木津に捕らえられて身動き出来なかった。
「判らないのかい?」
髪も服も下着も濡れていた。
雨期の夜雨は此の勢いの儘あと一時間は已まないだろう。
榎木津が薄く笑んだ。
蜜のように優美な笑みだったが、否、だからこそ、恐ろしかった─────。
「君は僕のものだ」
いいね、傲然と囁かれ、脳が揺れる。
白痴のように口を開けていると止め処無く雨水が口中へ競り込んだ。
榎木津が笑む。
関口は喘ぐように諾べいた。
 雨の中で交じり合い、互いの精液が雨水に流れた。その筋を関口は凝乎っとみていた。



瞼の影であの人が目を閉じた







【了】






??/11/06






京極二次