immortal beloved 06




木場修太郎は大きな欠伸をした。白髪が短い黒髪の狭間に幾つか見て、嗚呼歳を重ねたのだ、と増岡は何故か酷く安堵した。
「あんたが人の間を渡り歩いているのは聞いてるぜ」
木場の詰める警察署から程近い公園で降り注ぐ陽光を鬱陶しいと言わんばかりの表情を見せた。刑事に午前も午后もないのだろう。木場から指定されたのは忙しい午前の時間帯だった。法律事務所は何故か午前中に訪れる客が多いのだ。よって今日は臨時休暇と相成った。
「なんだよ、関口の『舞踏会の手帳』か?」
「近いかな、」
木場が頸を回すと骨の擦れる音がした。
「肩凝ってやがるぜ。最近の若い衆はまったくよぅ肩揉みも満足にできねえ」
使えないと言っているのだろう。木場と増岡はベンチの端と端に少しだけ離れて座っていた。
刑事と犯人の交渉にようにみえないだろうか。増岡は小説のようなことを一瞬夢想した。
関口の死が直接何らかの波紋を起こすことは無かった。彼がいなければ某かの生産が止まってしまい、次に進まないなどと云うことは出版社くらいだろう。関口は居なくなり、そしてその周辺の者たちはそれを確認してやがて適応して自分の生活に戻って往く。
それは、失踪と、何が違うのか。
どちらも関口を失うことである。
関口はあの失踪の時、彼らの中で死んでも良いと思ったのだろうか。
「榎木津くんに君に聞くべきだと言われた」
「あの莫迦探偵の推挙か。あんま嬉かねえな」
「君は知っているんだね」
「何をだよ、」
乱暴な口調に許諾を推し量ることは出来ず、少し言い澱んだ。
「榎木津の野郎からな」
「ん?」
「榎木津の野郎から署までよ、電話があってよ。それで関口が失踪したことを漸く今朝方思い出しんだよ。……お蔭で眠れなかったぜ」
何故そんなことを忘れていたのか。
「そうだよなあ、簡単なことだったんだよ。なんで今まで気が付かなかったんだろうなあ」
朦りと木場は呟いた。
「…何を気が付いたのか聞かせて貰うわけにはいかないだろうか?」
「諾。いいぜ。そりゃ、勿論。だからあんたに電話したんだしよ」
木場と関口は刎頚の友とも言える間柄だった。恐らく中禅寺とも榎木津とも違う何かを共有していたのだ。
あの戦争を二人で潜り抜けてきたのだから。
「今も夢に見んだよ。関口と命辛辛米さんから逃げ惑って、あの闇の中でこのまま果てるんじゃないかって恐怖をさ。いつも夢の中で俺は泥濘に転んだ関口に肩を貸しながら、それもいいかって思っちまうんだな」
小さな目が細くなった。
「関口に惚れてた訳じゃねえよ。あの莫迦どもに混じりたくもねえ、」
嘯いた。
風は冷たい。木場は煙草を呑み始めた。
「昨夜関口家を訪れて、弔問客の記帳を見たんだが、」
「おう、それで?」
「此処に来たのは応え合わせだと思っているんだ。…君が眠れなかったのは、関口くんの相手を知っているからだろう?」
「あー…」
背を丸め、膝に肘を付き煙草を咥えた儘、木場は余所を見た。
風に煽られ、木場の外套の衿が立ち上がった。
「言っとくがな、俺は本当に榎木津の野郎が電話してくるまで、知らなかったし気が付きもしなかった。結び付けようともしなかったんだな。でも…考えりゃそういう可能性もあったんだよ」
木場が此方を見た。
「それでよ、俺があの莫迦二人を廻り合わせたことになるんだよな」
苦々しい顔をしていた。齢を重ねたその目尻に皺が刻まれていた。
「関口の女房には悪いことをした。とそれだけは思ってるぜ」
風が耳朶を打つ。
何故、彼は葬儀に参列しなかったのか。
何故、関口は帰ってきたのか。
何故、手紙を書いたのか。
何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故―――――
疑問だけがあった。
木場は懐から二つに折り畳んだ、小さな用紙を差し出した。破れた形跡があったので、どこかに適当に書いたものなのだろう。
それを増岡に渡すと、木場は腰を上げる。礼を言うと、手を二三振った。
関口の秘密が此の用紙の向うに広がるのだ。風に飛ばされないよう、強く握り締めた。

上野駅から電車に乗り込んだのは、冬の日が帳を落とした頃だった。暫くの留守の為に依頼人たちへ連絡をとり、それなりの処置と臨時休業の連絡を彼方此方に入れると既に日は暮れていたのだ。
疲れてうとうとと眠りに落ちるが、時折列車が大きく揺れ、不意に覚醒し、また眠りに落ちることを数度繰り返すと、関口が目の前にいた。
此方を見ずに墨を刷いたような窓の外を眺め遣っていた。窓枠に肘を付き、酷く熱心に見ていた。遠くに街の乏しい光が見えている。
列車の内側に燈があり、外が暗いのだから、鏡のような原理で、硝子に関口の外を眺める顔が映っていた。髪が乱れていて、着物も着の身着の儘此処に乗り込んでいると言った風情だった。頬が薄紅色に彩られているのは気のせいだろうか。
「せきぐちくん、」
と呼びかけると、関口はゆっくりと此方を振り返った。
「命火のようですね」
と言った。
成程、慥かに街の光は人の営みでありそれは生きていることであり、つまり命であるだろう。
「此の儘命が終るならば、」
「そう思っていたのかい?」
「諾。それでもいいって思ったんです。此の長い道のりに」
「怖かったかい?」
此の道のりが。
「諾。怖かったし、胸が高鳴った……」
また窓の外を臨んだ。
夜露に窓が曇り始めていた。
「そして、初めて、人々の倖せを祈ったんだ」
自分を取り巻く人々が永久に倖せであるようにと。悲しさは優しさに、悔しさはあくる日の力になるように。
「君は……」
何も言えないで居ると、関口は少し笑った。
「嘘ですよ。きっと本当はなにも考えてなどいなかったんだ。ただただ逸る気持ちを抑えられなくて適当に色んなことを考えてやり過ごしていたに過ぎない。だから僕は、あの人々に愛しんで貰える資格なぞ有りはしないんですよ」
「資格なんて必要だろうか?彼らはただ、君が、」
窓には雨粒の斜めに走る痕が数本刻まれた。
「それでも……僕は、何度、同じ『生』をいきようと細大漏らさず同じことをするでしょう。それだけは多分……絶対、」
妻も友人も知人もいらないわけじゃない。とても大切な自己の生の部分でそれが欠けてしまえば、空虚しかない。
―――――だけれど。
―――――それでも。
求めないわけには往かなかったのか。
名を呼ばれた。
顔を上げると、関口ははにかんだように笑い
「ありがとう」
と言った。
何を、礼を言われる筋合いがあるのだろう。
慥かに当初は彼からの信頼に応えなくてはならないと言う弁護士の義務感ではあった。だが、今は、何よりも関口の秘密を知りたいと云う欲望でしかない。
他の誰も本当に知ることの無い、秘密。
それに惹かれるのは弁護士の性が。
それとも関口の所為か。
「せきぐちくんっ」
自分の声で、眼が開いた。
外を見ると、窓は真白に曇り、深い霧が出ていた。
「大丈夫ですか?」
と相向かいの初老の男性に声を掛けられた。
其処には先まで、関口巽がいた筈である……
「あ、諾」
戸惑いながら返事をした。
「深い霧になってしまって。真白だ。あなたはどちらまで?」
「…………仙台に、」
「それじゃあそろそろ駅ですな。良かった良かった寝過ごさなくて。私は実家が八戸なもので」
男性は饒舌に話していたが、増岡の耳には入り込むことは無かった。
曇った窓をハンケチで拭うと窓の外は既に薄らと明るく、先に見た関口の襯衣のようだった。
何故か酷く慕わしかった。
間も無く、列車は目的の駅舎に着く。



11/11/05






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