immortal beloved 05




「うん君はいつかの何とかと云う人。やあ久し振りだなあ」
化け物かと一瞬思った。
初めての面識からまるで変わらない容姿は歳を重ねているようには到底見えなかった。その秀麗な容貌には皺一つ、沁み一つ見受けられない。
口にすることも百年一日のような変わらなさだ。
それに反して相変わらず助手然としている益田龍一は矢張り老けて見えた。否、あの頃が若かっただけなのか。半眼でじっと増岡を見詰めていると思うと大声で笑い上げた。
「なんだそれは。猿か。そうか猿か。猿は山に帰るもんだ」
どうやら、解ったらしい。相変わらず、侮れないのだ。
「まあ粗茶ですがどうぞ」
「益田くん。君、お茶くみまで?」
「今日は和寅さんも河原崎さんもいないんですよ。お屋敷と大捕り物だそうで」
榎木津が日常的に使役する下僕の名を上げて笑った。自分がその筆頭であることに未だ気付いていないようである。
「お屋敷で大捕り物?また亀でも逃げたのかい?」
「違いますよ。和寅さんはお屋敷で、河原崎さんは大捕り物」
「諾、成程、」
合点が入った。
「ふん、和寅だって似たようなものだ。そもそもあの蟋蟀親父が…」
「榎木津さん、鈴虫です」
「だから馬鹿だと言うのだ!」
相変わらず云っていることが支離滅裂で、当事者以外の人間をまるで無視した物言いだ。傍若無人も此処までくれば面白い。
「益田くん、」
「すみません。どうやら此の夏、榎木津会長閣下は鈴虫の飼育に熱を上げられたそうで、此の季節外れに未だ生きていると人を寄越して自慢がてらに置いていったんですな。丁度その時、酔った榎木津さんがご帰還遊ばして、『鳴かせてみよう松虫を』とか豪語して籠を開けたんです。さあ大変」
それ以上云わなくても状況は把握できた。捕り物はお屋敷ではなく、此処で起こったのだ。
「まああちらこちらで大合唱。浮か浮か睡ることも出来ないほどになってしまって」
けけけ、と益田は笑った。探偵閣下は怒り狂ったに違いない。それこそ下僕、これは榎木津の言だが、を掻き集めて捜索に及んだのだろう。大の男たちが腰を屈めて捜しまわっている姿は些か滑稽である。
「バカカマ煩瑣い!」
怒鳴り上げられた。
「其処の何とかと云う人も用件を颯颯といいなさい。なんで先刻から猿猿猿猿猿猿さるさーるなんだ!」
「あれ?遊びに来たんじゃないんですか?増岡さん」
「失敬だな。遊びに出られるほど閑じゃないよ」
敏腕弁護士の自負はある。
「まさか仕事の依頼?」
「『まさか』って不穏だな。結構繁盛しているんだろう?」
「まあ捜査能力は兎も角、解決する推進力は余所とは桁違いですからね」
怒涛の荒業に人の度肝を抜く探偵。その意を受けて暴れまわる下僕たち。決して彼らの本意ではないけれど、いつの間にかその意に沿っていたりするのだから始末に終えないのだ。
「で、ご用件は?」
「諾。此処には中禅寺くんの推挙を受けてね。……人捜しをしているんだ」
「はん、それで猿か、」
探偵のデスクに肘を付いて、榎木津は少し毒気付いた。
「マスカマ!お前は二宮金次郎さんを捜しに行け」
「は?」
「此の間、あの何とかと云う人か幻の二宮金次郎が欲しいとか云って居ただろう!あれだ。忘れたのか間抜け」
諾、と思い出したような声を上げたが益田は如何にも乗り気ではないらしく、散々渋って、榎木津に物凄い形相で睨みつけられ、漸くすごすごと探偵社を後にした。
「あれは違うから安心したまえ、増富さん」
名前を呼んで貰えたが、どうにも名前を間違う習性の探偵は間違えずにはいられないようだった。
「違うと言うと―――――」
榎木津もその有力候補だった。
何故なら―――――
「貴方が長く関口巽くんのタニマチだったと聞き及んでいます」
「それだけ言うとまるで金で買っていたように聞こえるな。……まあ間違えではないね」
デスクにどかりとその長い脚を乗せた。
「関で遊ぶのも、関と寝るもの好きだったんだ。あんな大学の暗い一室に籠ってばかりで一銭の足しにもならないから、時々融通していただけだ。一度も関が嫌がったことはない」 愁霖の中、関口巽の葬儀は行われた。その中で陰陽師ほどに真黒い姿で現れた探偵はその境内で静かに読経の流れ出す本堂を見守っていた。傘も差さず。参列しなかったのだ。悼む方法は人それぞれだろう。
「彼は不器用なりに中々床上手でね」
そんな露骨な艶事を此の探偵から聞くのは初めてだった。
「私は初めて知ったんだが、関口くんは失踪したことがあるそうだね」
「あるよぅ」
背凭れを軋ませながら窓の外についと目線を遣った。
「……気に入らない」
「は?」
「気に入らねえ!猿も、あのなんとかと云う奴も。此の探偵に隠し事ができるか!」
「知っているんだね?」
榎木津は答えない。
「その人物の名前は?」
何と云うのだろう。
「その、」
増岡を長い指が示した。
「その、手紙があの何とかと云う奴に届くと言うのなら」言葉を濁す。言いたく無いと言うのだろうか。
榎木津は手紙の内容を把握したようだった。
視えたのだ。
「……結婚した後も僕と関は相変わらずだった。関が働き出したから、融通することはなくなったけどね。僕は関が誰と寝ようと関係は無かった。でもその内…関はいろんな奴との関係を裁ち出したんだ。鳥ちゃんもマスカマも」
そして―――――
「消えたんだね?」
「………僕の存在などどうでもいいと言われたようだった」
榎木津はその奇妙な異能故に関口の遍歴を知っている。だからこそ、関口が様々な人間に対して押し並べて等しかったことも知っているのだ。誰も彼の特別ではないことを。
「関は僕とは切れて居なかった」
だのに榎木津を置いて、関口は他の誰かに走ったのだ。
秤にかけたのか、はたまたその誰かと榎木津、共に愛しかったのか。
「あの日、本堂に入らなかったのは、あいつが来るのかどうなのか知りたかったんだ」
夕日が屋内へ深く差し込みはじめた。世界が橙に溺れ始め、その中に沈むことを榎木津は受け入れているようだった。
榎木津が自分の行動に理由付けをすることなど珍しいこと此の上ない。
「否…違うか。僕が関口の屍躰を」
見たくなかったのだ―――――
と呟いた。
黄昏に沈む榎木津はその稜線が曖昧に見え、眼を瞠るほどに美しい。関口も度々こうして榎木津に見蕩れていたのだろう。
あの猿似の小男は自分を棚に挙げ、美意識だけは高かったのだ。
「教えて欲しい。誰、なんだい?」
関口の秘密。
その秘密の為に自分の凡てを犠牲にしようとしたのだから。それまでの関係も、死後の意思も。
「名前は忘れたよぅ。葬式にも来なかった」
無感情の声調だった。
葬儀に現れたら榎木津はどうしただろうか。
続く言葉を待ったが三十分を経過しても、榎木津が口を開くことは無かった。睡ったのだろうか。榎木津に眼を転じれば、デスクに脚を乗せたまま眼を閉じていた。
増岡は小さく息を吐き立ち上がった。
語ることは最早無いと言う、拒絶に見えた。
出入り口の衝立を過ぎると、榎木津の声が聞こえた。
「高林さん」
それは増岡の名前ではない。
「箱男に聞いてみるんだね。あの莫迦が思い出せないようなら、雪ちゃんのところだな」
榎木津は関口を占有したかったに違いない。だのに、人を人とも思わない関口は或る人物を撰んだ。
榎木津は増岡の目を通してあの手紙を読んだのだろうか。
それを訊くことはできなかった。
増岡は礼を述べ、薔薇十字探偵社を出て行った。


夕日に満たされた町並みを歩む増岡の姿を榎木津はじっと見下ろしていた。関口が尋ねてくるのをこうして幾度か見ていたことがあった。
あの時、ビルヂングの一階から此の事務所までの階段が如何様にも長いものに感じていた。漸うと開かれた扉に大股で近付き、姿を表した関口を抱き締めれば、照れた。
唇を寄せると、少し戸惑って、応える。
その頬は薔薇色だった。
「辞めて下さいよ、榎さん」
と云う声が耳に擽ったく触り、酷く嬉しかった。
睦み合うことをあれ程幸福だと思ったことは無い。
二人でいる時に他の誰かのことを考えることはできなかったし、だからこそ関口が誰と関係しようと気にしないでいられたのだ。
もう二度とあんな倖せは自分の上に降ることは無いだろう。
榎木津は吐息した。

帰ってきた関口からは………彼特有の無神経とも思える或る意味の天真爛漫さは消えていた。二人きりになった時に、堪らず抱き締めれば、甘い拒絶の吐息ではなく、言葉も無く両手が榎木津の両肩を押し遣った。
舞い戻ってきた関口は先ず「能く考えて欲しいんだ」と榎木津に語った。
「榎さんが僕を許せるかどうかを、」
「関?」
怪訝に顔を覗き込む榎木津に、関口は無償髭が疎らに散った顔を少し躊躇いがちに緩めた。
関口は消えた時に一度何もかも棄てたのだ。
そして無様にも戻ってきた。それは、共に生きようとしていたあの男との生涯を果たし得なかった証左だろう。
そんな自分でも良いのか、と言外に関口は訊いていた。
「榎さんも京極堂も雪絵も僕にとって、迚も大切だよ」
未だ嘗て関口はそんなことを口にしたことは無かった。皆から向けられる好意を然も当たり前のように享受していた。
「君を失うこと以上に怖いことはない、」
正直に言うと、関口は榎木津の肩に額を預け、蚊が鳴くような小さな声で礼を言った。
あれは関口なりの口止めだったのではないか、と今はそう意地悪く考えることもできる。榎木津に対して隠し事などできないことを関口は知っていただから。だからこそ身を呈してまで、榎木津の口を封じたのだと。
それから彼が死ぬまで関口と榎木津は続いた。
あの時、榎木津に許す他にできただろう。関口を失いたくなかったのだ。
「礼などが欲しかったんじゃない」
欲しかったのはもっと別の言葉だ。
その言葉を関口は終に榎木津に捧げてくれることは無かった。

あの手紙が疎ましい―――――。

榎木津が欲しかったものが―――――何もかもがあの中に―――――存在した。
「此の僕が、か」
此の世界に、もう、関口はいないのだ。
関口が榎木津を見ることはなく、囁くことも、触れることも無い。決して無い。
戻ってきてからも関口は以前と同じように榎木津に甘えた。……否、果たして、同じようだっただろうか。
囁く甘い言葉に身をまかせ、胡乱に彷徨っていた目線は、真直ぐに見られるようになり、その場にいる榎木津に、より誠実に接するようになった気がする。
「大切か、」
そんな言葉が欲しかったんじゃない。
礼が欲しかったんじゃない。
もっと、もっと別の言葉だ。
だけれど、それは別の者に捧げられ、終に関口から聞かれることは無かった。
机上にあった探偵と書かれた三角錐を手にすると窓硝子に向って投げつけた。
橙色に暮れ泥む外界。
関口の視界から見た世界を、望むことはないのだ。
もう、二度と―――――。



11/11/05






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