immortal beloved 04




「あなた、増岡さんです」
千鶴子が呼びかける。細の顔を見るために紙面から顔を上げた。丁度増岡が現れたところだった。
「久し振りだね、」
と挨拶をする増岡に顔を兇悪に見せて中禅寺は笑った。
「先月お会いしたと思いますが?」
関口の葬儀である。
思った以上に様々な人に愛された人物だったと思わされる参列者の数だった。
「少し訊ねしたいことがあってね、」
「関口のことですね?」
見通されていることなど、それこそ見通していた。この古書肆はなんでも能く知っている。
「天眼通かい?」
「それこそ関口の物言いのですよ。なに、鳥口くんから聞いたんですよ」
「鳥口くんに?」
「此の間、また八丁堀の旦那の手下のように『てえへんだ』とばかりに事件を持って参りましたよ。彼は若い頃から全く変わらない」
「それは?」
「あなたも知りたがりだなあ」
火をつけた煙草を手に袖をまくるようにして中禅寺は煙を吐いた。紫煙が長く伸びて宙で渦を巻いて消えた。
「榎木津に回しましたよ、」
「榎木津くんに?」
「あれも大分退屈していたようだし、第一僕は書肆であって探偵じゃあ無いんだ」
事件がある度にあそこまでことを為しておきながら、中禅寺は飽くまで一介の古書肆の身に自分を置く。それはある意味言い逃れにも近いのでは、とは最近思い始めたことでもある。
千鶴子は茶を淹れてきます、と座敷を立った。
「で、僕に何を聞きたいんです?」
その後姿を目線で追いながら中禅寺は問うた。
「関口くんのことだよ、勿論」
「それを僕に聞くのはお門違いでしょう?」
「何故だい?関口くんのことなら君が一番専門家じゃないか?」
「なんですそりゃ」
快活に中禅寺は笑った。
互いに旧い友人だと言っていた。(無論中禅寺は今に到るまで関口を友人とは認めていない。)
関口と中禅寺は旧制高校で出会い、それから長い時を重ねている。中禅寺の近況を関口に問えば澱みなく、また関口の近況を中禅寺に問えば滔滔としていた。
此の一種類しか表情がないのかと思える複雑な御仁も関口の口から聞けば親しみ易かった。
殊に関口は自分を預けているようでさえあった。
二人の濃密な、余りに濃密な関係は、主客さえ曖昧にさえなるのでは思えたほどだった。
「……近くにありすぎると言うのは考えものでしてね、」
ぼそりと中禅寺が呟いた。
「……そう……懐かしい話をしましょうか。鴎外の『ヰタセクスアリス』は?」
「否、」
「諾。然しあなたも嘗て通った道でしょう?」
「…それは…」
云い澱んだ。
「あの頃の僕たちに関口と云う男は酷く魅力的だった。魅力的などと云うと甚く誤解が生まれそうだが、言い換えるならば、無視できない存在だったんですよ。勿論あれを好む者も厭う者もいた。必ずそのどちらかに分かれるんだ。まあ行き着けの食堂の親爺には忘れられていたが。庇護をするなんて偉ぶっていたわけじゃない。僕も、後には榎木津も」
眼が離せなかっただけなんだ。
「じゃあ君と関口くんは、」
「気持ちが、重なっていたのはほんの瞬きの間だけだった」
小さく口元に笑みを刻んだ。それに増岡は驚いた。まさかこんなに露骨に聞けるとは思いも寄らなかったのだ。相手は中禅寺秋彦なのである。如何に煙に巻かれるか覚悟していたのだ。
「関口に此の世の中は魅力が多過ぎるんです」
「彼は心変わりを?」
「……あれを心変わりと云うのかな?」
自嘲にも似て。
「程なく、関口は一学年上級の男とも親密になった」
噫、と増岡は思う。名を明かさずともそれが誰のことかは、自ず知れた。
「人の気持ちを斟酌しない所があったのですよ」
それは関口との浅い関わり合いの中でもほんのりと気が付いていた。
「確認したことは無いが、彼は僕との関係をまるでゲームか、一種の遊戯のようなものだと思っていた節がある。それは別の男との場合も一緒ですが」
「君はなじったかね?」
「……まさか、」
なじれたらきっと今に至るまでの相互の関係も変わっていただろう。 「なじるにはね、あの小男が少しでも僕に本気でなくちゃあいけないんですよ。そうでなければ、意味が無い」
僅かにも本気ではなかったというのか。
「関口はどうにも人間関係に甘い処があった。それはずっと治らないものだと思っていた。結婚した後も様々な男と関係を結んでいたのがその証左だ」
矢張り中禅寺は関口の何もかも見通していたのだ。恐らく鳥口との仲も充分に心得ているに違いない。そして知っていると言うことを知らせることも無かったのだ。
中禅寺と云う男が凡てを見通せると言うことなのか。
はたまた、それが関口に関することだからか。
「惚れ、易かったのかな?」
「そんな高尚なものじゃない。あれは…ただ流され易かったんだ。誘われれば這い這い着いて行ってしまう」
「つまり、尻軽だと?」
中禅寺はそれまで皮肉に笑みを浮かべていただけだったが、声を上げて笑い、短くなった煙草を潰した。
「中々露骨ですね」
「あ…」
口を覆った。
少なくとも中禅寺は関口を愛していたのだ。本人は死んでも口にすまいが。
「中禅寺くん」
「だから、その手紙は僕のものじゃないんですよ」
噫――――。
矢張り知っていたのだ。
「何故?」
「増岡さん、」
「ん?」
中禅寺は座卓の右隣を見た。其処には座布団もなく、ただ黄色く変色した畳と、空を光を浴びて舞う埃だけがあった。
其処は、彼の指定席だったのだ。 そしてもう、決して其処が埋まることはない。
空虚の席である。
「僕は関口と云う男を得ることが出来なかった。僕が何処かでちゃんと伝えれば、変わっていたのかな」
増岡は大振りの鼻を更に膨らませ、また眦を裂いた。
天変地異の前触れか。
青天の霹靂と云うのか。
此の能弁家の敗北を本人から聞くことがあるなど、此処に来るまで思いもしなかった。そんなことがあるなど―――――
大策子上に死老漢の語を抄し、その名句を執し、凡聖の名に礙えらる外道の学人。十二分教の如き表顕の説、悉く知りたれども未だ仏法の何たるかを知らぬ――――――
箱根の事件の折、自らをそう称したと増岡に語ったは誰だったか。
「いい歳をした男が恋々としているのも見場の良いものではないと解っていますよ。だが…」
言葉を濁した。
諦めきれないのか――――――
「……得ることが出来なかった代わりに、あなたは関口くんの一番の理解者と云う場所(ポジション)を手に入れたのでは?」
「そんなものが欲しかったんじゃない」
あの・・『中禅寺秋彦』がそんなことをいうのだ。
「傍観者でいたかったんじゃない」
殊、関口に関しては。
「結果、君は関口巽くんのことを能く知る『知人』に成りおうした」
家族でも愛人でも友人でも、まして己自身でも無く、知人に。
「…全く、貴方はいつも無遠慮だ…」
「すまない」
詫びると「いいえ」と剣呑な風情だったが、怒ってはいなかった。
「生前、関口くんから手紙を預かった。直接会っては居ない。郵便でだ。私と彼は親しかったわけではない。然し親しい間柄じゃないからこそ、託されたと思っている。手垢の付いた繋がりでは彼はこれを或る人物へ渡すことは出来ないと踏んだんだろう」
「貴方はその或る人物を探していると、」
「そうだ。今は虱潰しに闇雲に当るしかない」
その虎のような目で、増岡の持つ鞄を睨付けた。
「先に君は、『ずっと治らないものだと思っていた』と云ったね?」
「いいました」
「それは、彼に『恋人』がいたと取って好いのかな?」
驚いたような顔をしたのは今度は中禅寺だった。彼がこんな顔をするのは酷く珍しいことだった。
「言葉尻を能く捉えている。流石優秀な弁護士だ」
「――――そして君は知っているんだね?」
緩緩と頸を振って、また煙草に火を付けた。
「本人に確認したことも無いから、それが正しいのかどうなのか僕にはわからない」
「然し、可能性はあると?」
庭から風が吹き込み、煙は流れて増岡の鼻腔を擽った。
「関口は……一度姿を消したことがあります」
「姿を?」
「諾。誰にも何も告げずに」

妻の雪絵が朝に眼が覚めた時には既に関口の姿は無かったと言う。珍しく朝霧が立ち籠めていて、身震いをした。
日も高くなった頃、雪絵は中禅寺家へ電話を入れた。
然し其処にも関口はいなかった。
友人知人にその情報は水が急峻な山肌を往くように伝わったと言う。誰も何も消息は掴めなかった。
尤も関口の印象は薄い。学生時代良くも悪くも人を惹き付けていた男は二十歳を越して只人となり、関口は凡百の親父と化したのだ。何処にも情報は無かった。
其儘一週間近く、関口は姿を消したままだった。これ以上消息は掴めないのなら警察に連絡を入れようと云う話になった。
その中には警察の木場も居た。
相談しあった明くる日、関口は「ただいま」と悠長な声で帰ってきた。
それが余りにもいつもと変わらず、また一週間前と同じように生活を始めたものだから、誰もがそのことを忘れ去って行ったのだった。

「関口くんは何処に何をしにいっていたんだろう?」
「さあ?」
「さあ、って中禅寺くん」
「解らなかったんです。あの関口がそれだけは到頭口を割らなかった。でもたぶん彼は逢いにいったんでしょう」
「誰に?」
「…貴方風にいえば、『恋人』に」
自分の秘密を隠し通した。
「誰かを愛することなど関口には出来ないと思っていた。いつもいつも浮わ浮わとしていて。そしてあの不器用な、社会適合性零な男が、雪絵さんや僕や榎木津がいるという安寧を打ち捨てて、誰か一人の許へ走ったんだ」
庭に眼を転じて、中禅寺は遠い眼をした。
「然し、そう決まったわけでは…。何か事件に巻き込まれていたのかも」
「巻き込まれれば僕まで影響があるんです。大抵引っ張り出されるから大事になって解ります。あれから……関口が変わったんですよ」
「変わった?あの変わりようの無い男が」
「増岡さんも酷いですね」
「あ、いや…」
「仕事をし始めたんです。俄然、書くようになった。筆が進むんだ」
そして、関口は俄に名を上げる。
関口は秘密を抱えた。その秘密のために俄に変貌した。誰にも内緒で、誰にも悟られず。
「然しそんなこと…彼の細君も鳥口くんだって…」
誰も口にしなかった。
「気付いていないのでしょう。あの姿を消した一週間のことさえ忘れているのかもしれない。関口はあの一週間のことを無かったことの様に過ごしていましたから」
それは――――関口の秘密だからか。
「秘密ですか、」
「秘密ですね。増岡さん、僕は時々無償に思うことがある。あの一週間が僕の上に降り注いだものだったら、僕は何もかも棄てて、此処には居なかっただろうにと」
「それは…」
戻ってきたと言うことは。
「関口は多分、その人物と訣別したんです。しかしそれでも尚、関口はその人物を愛したんだ」
それは既に嘗ての関口ではない。尻軽だ、人間関係を甘く見る、と評した関口ではない。
「そんな一途さが、酷く苦しかった。…そして死しても尚、手紙と云う形で意思を残し、こうして貴方を歩ませている。それが疎ましくて成らない」
兇悪そうな顔は益々暗黒化している。
疎ましさは羨ましさか。
「君では無いのですね?」
「……僕じゃあない」
煙草を口に銜えたまま、懐手に顎を摘んだ。
増岡が瞬きに眼を閉じると、若き日の関口が瞼に居た。狂奔していると言うのだろうか、靴もなく、風を切って駆けている。背後には煌々とした眩い水面だろうか。駆ける頬は綺麗な薄紅色で彼の進む先に誰がいるのかなど、余りにも解りきっていた。
眼を開ければ其処は中禅寺の書斎である。
一瞬の、幻視――――と云うのだろうか。
中禅寺の言葉に魂が生まれてそれが増岡の脳裏を犯したようだった。
「……これが君のものではないと言うのなら」
此処にいても仕方ない。
増岡は鞄を持って腰を上げる。
「捜しますか?」
「捜すよ」
関口巽と云う男が、何を見て、何を愛しんだのか。その空白の一週間はなんなのか。
それが知りたい。
漠然とした使命感ではなく、ただ――――関口巽が知りたかった。
彼の秘密が。
これも愛しさと云うのか。
「榎木津の処へ行くべきです」
「何か視ていると?」
「さあそれは解りません。それでも、あれは探偵でしてね、人の秘密は能く知っている」
人の秘密を知る故に彼は『探偵』なのだ。
「ありがとう」
増岡は頭を下げる。様々な思いを込めて。
昔の話も、今も連綿と想い続けているその事実も。洗い浚い中禅寺は語ってくれた。関口巽と云う人物をどれだけの想いを籠めて見守っていたのかも。

金華猫がするりと襖を通り抜けた。その細い狭間から、千鶴子の姿が覗いた。書斎の主人と眼が合うと軟やかに笑って、襖を開けた。
「増岡さんはお帰りになってしまいましたのね」
「あの人もあれで優秀で忙しい弁護士だ」
「お茶をお持ちしましたのに」
千鶴子は盆を其儘座卓に置いた。
中禅寺は自分の咽喉が空空であることに漸うと気が付き、碗を手に取り、口を着けた。
咽喉が冷やりとした。
茶は冷え切っていたのだ。
疾うに―――― 中禅寺は庭を望む細君の美しい横顔を目を細めて見詰め、やがてゆっくりと眼を閉じた。


09/11/05






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