immortal beloved 03




色を薄めた蒼穹。
雲は灰色に、或いは薄紅色に、或いは白黄に、巻き上がりながら光源に向って融けて往く。 嵐の残していったものは斯様に美しい。
思わず特有の西日の眩さに眼を細める。その感慨は決して『穏やか』ではない。何処か焦燥に似た、郷愁だ。

風は既に冷たく、街を往く人の着物もいつのまにか長袖に変化していた。つと息を吐くと、部屋に入ってきた人物が真直ぐにこちらへ来る姿が認められた。大部屋の喧騒の片隅にぽっかりと空いた空間へ。
「久々ですねえ、」
軽い調子で声を掛け、相向かいの椅子に腰を降ろしたのは、赤井書房の青年編集者鳥口守彦だった。否、もう青年ではないだろう。
鳥口は此の季節に曹達水を手にして笑った。
「咽喉渇いちゃいましてね。あ、もしかしてあなたは温かい方がいいのかな?」
「いや。どちらでも良いよ。此の季節は微妙だろう。…それに少し私も咽喉が渇いている」
「奇遇ですな」
笑って鳥口は硝子碗の中の曹達を飲んで、氷を頬張った。頬が動いて氷を噛みしだいていた。
「あなたが柴田の財団をでて、民事の弁護士になってどれほどが経ちましたか?」
「さてどれほどだったかな…。何故だい?」
「会社が潰れたのもその頃でしたから」
鳥口は少しだけ懐かしいような目をした。
カストリ誌は矢張りカストリで、それでも赤井書房は幾たびか死期を回避したがそれでも最後には実に呆気なく倒産した。釣られて心は懐かしさに跳躍をし掛けた。
あれから、どれほどが経ったのだろう、と。
然し正確な年月を割り出すことはしたくなかった。
「楚木逸巳といったかな?」
「今も能く憶えていますよ。先生に、もうその名を使う必要は無くなったんです、と言った時を」
朗らかに笑うと面に皺が刻まれた。

澱んだ空気の室内で関口は吸っていた煙草を潰した。彼の腰に纏わり着くように寝転がっていると、「鳥口くん、」と漸うと石のように声も漏らさなかった関口が口を利いた。
「余り、心配をしなくても好いよ」
「先生?」
「僕も最近書くようになったし、」
少しはにかんだ顔をした。それを肩越しに見る。
先から関口は直接鳥口を見ることはない。
……こうした状況下に陥るのは久方ぶりだった。そして此れもいつものことだが、関口からは自分ではないほかの誰かを感じ取る。だからなのか、その科白はまるで訣別の言葉の様に感じられた。
「ほら、服着ろよ。未だ他に行く所があるんだろう?」
慥かに先は長い。カストリとはいえ、雑誌の編集をやっていたのだ。付き合いは数多である。
関口に差し出された自分の衣類にまるで早く出て往けと言われているように感じた。
「僕は…君に甘えていたのかもしれない」
「はあ、」
襯衣を着込みながら、矢張りズボンに跫を通し、此方に背を向ける関口の頸の無い背を見つめた。
微かに関口の口元は歪んだ。
そして―――――
「ごめんよ、」
―――――謝った。
何故謝られるのかまるで見当が尽かなかった。
困惑と違和感。最後に見たのは関口の薄い皮膚に浮く背骨だ。

「思えば呆気ないものでしたよ」
最早青年でない男の目は寝不足と疲労に澱んでいた。かつて彼に見た快活さは見当たらなかった。
「沢山とは云わないけれど、うちもジリ貧でしたからね、先生と一緒に仕事をして事件を通して、師匠とか大将とかまでは往かないまでも、それなりに近い距離に居ると思っていたんですよ」
自嘲した笑みが鳥口に浮かぶ。
それこそ彼に似つかわしくない。
「それからは会わなかったのかい?」
「何度かは会いましたよ。勿論。でも本当に会うだけです。顔を合わすだけ。わかるでしょう?あの人はそれ程饒舌でもないし、会ってもなんとなく気拙いだけで。その後まあ敦子さんの口利きで此処に来て、師匠には沢山知恵を借りて、大将のところに行けばネタは溢れていて。でもどちらでも先生にはもう会わなかった。時々彼らは先生の話しをしていたから、彼らは会っていたんでしょう。だけどもう僕は先生の所に往く資格を持っていなかった」
「資格?」
「そうですよ、資格です。僕は彼にとって、編集者なんですよ。僕の前では彼は物書きだった」
「会いに行かなかったのかい?」
莫迦でしょう?と矢張り鳥口は笑った。
「怖かったんです。僕は先生が好きだったから」
そう云って曹達水を口に運んだ。薄らと鳥口は額に汗を掻いていた。臆面も無く、自分と男の作家との間に性交渉があったことを認め、そして好いていたと口にする嘗ての青年編集者。
彼が、小説家の恋人なのだろうか。
「増岡さんの用件は何なのですか?」
「あ、ああ」
自分の手を見詰めた。鞄は脇の椅子に置いてあった。
「諾。…先生のことですか。そうなのですね?」
「鳥口くん」
「天眼痛じゃないですよ。増岡さん、本当に弁護士ですか?」
「失礼だな」
「だって、顔に出ているし」
曹達氷を口にした。炭酸が口の中に弾け、少しだけ口内の肉壁に痛みが走った。
「先生は貴方に何を託したんですか?」
どう切り出しらよいのか、解らなかった。
反対に問われて、何故か開放された感覚に到った。真実とはどんな出来事にしろ、慎重事で、丁寧に扱わないと「こと」を仕損じるのだ。
だから大胆に訊ねることは出来ない。
「遺言書ですか?」
「…正式な物じゃない」
「やっぱり」
少しだけ鳥口の顔が緩んだ。
「関口家の内証は大体わかります。然程の財産でもないだろうし。『手紙』、ですね?」
「…諾…」
此処まで事情を知っているのならば、これは鳥口に当てた物なのだろうか。胃が僅かに萎縮してみせた。
鳥口の話しを聞く限り、此の手紙が彼に向けられた物だとしても怪訝しくはいないだろう。生前、悔恨が残る状態で別れてしまった相手へ向けたものならば、それも納得が往くのではないだろうか。
「関口くんに生前預けられたものだ」
鳥口は硝子碗を持つ自分の両手を凝乎っとみつめた。その表情が何を語るのかを知りたかった。
「これは…君のものだと、思っていいのかな?」
そうすれば自分の役目は終るのだ。鞄を取った。此の中に手紙は入っているのだ。
「…増岡さんは鳥渡僕のことを買い被り過ぎていますよ、全く、」
顔を上げ鳥口を見た。
年月は流れ、歳を獲った、と思った。
出会った時に彼が若く、未だ青年であった為、尚更そうした感慨があった。
「慥かに僕は先生のことが好きでしたよ。とびきりにね」
つと息を吐き、顔を顰めて鳥口は、今度は本当に笑った。そして手を硝子碗から後頭部へ回した。両手を其処に組み、躰を少し反らせた。
「あの日、」
衝立の隙間から西日が漏れていた。時々西日が遮られるのは、人が其処を忙しなく歩むからだ。此処は戦場の雑誌編集部である。
鳥口は眩しそうな目をした。
「何で、先生は謝ったと思います?」
此方を一瞥もせずに、背を向けて。
「さ…さあ?」
「全く、朴念仁ですねえ、弁護士ともあろう者が」
察しが悪いというか。
「僕の片想いだったからですよ」
「片想い?」
復唱した。
久しく聞く音感に、ずれた眼鏡を右手の中指で押し上げた。そして背広からハンケチを出して額を拭った。
「諾。あの人の道徳観念が酷く希薄だったとかそういうことはどうでも良くて、僕は先生が好きだったから。でも、先生は違った―――――」
そういうことです、と鳥口は此方を見なかった。
「酷い人でしたよ。残酷だった。いつも自分のことでいっぱいで人のことなんてまるで斟酌しない。身勝手だったんです。だから、僕とも簡単に。……増岡さん、」
此方を見ないまま呼び掛けた。
「だからそれは僕のものじゃないんです」
酷く穏やかに鳥口は言った。
最早関口のことは過去のことなのか。
そう思い、一向に此方をみない鳥口を見遣ると、酷く歳老いて見えた。
―――――悟る。
「嗚呼…君は、未だ…」
「厭ですよね。執拗というか…。もうあの人、死んでいるのに。でも……不意に、本当に唐突に、あの人のことを思うことがあるんです。そして堪らなくなるんです。…あれから、もうどれだけ経つのか解らないのに、」
鳥口は唇を噛んだ。あの謝罪は、途方もなく完璧な拒絶だと言うことに、言われた瞬間に気が付いた。
勘は―――――良いほうなのだ。
「君のことが好きではないから」と、囁かれたのだ。
彼に道徳とかそういうものは存在しない。実際妻がありながら、彼は人を乞うるのだ。平気で他人と寝るのだ。
だから…否、それなのに、鳥口をあの一言で遠避けたその真相は―――――
「やば。口の中血だらけだ」
氷と共に誤って自分の頬も咬んだらしい。鳥口は舌を出した。
「訊いて好いかな?」
「ええ、どうぞ」
「君では―――――ないんだね?」
凝乎っと見据える増岡を、鳥口も静かに見返した。
そして頭を振った。
「僕じゃあ―――――ありません」

事務所の燈は消え、事務職員が既に帰っていたので増岡は自分で珈琲を入れた。インスタント品である。そんな大層な味覚をしてはいないから、それで充分だった。
香りが鼻腔へ充満し、自分の革張りの椅子へ深く沈んだ。
「コマは進まなかったな…」
そもそも、本来の仕事からは外れている。これも職務怠慢と云うのだろうか。
「否、」
増岡は自分で否定した。『職務怠慢』に対してではなく、『コマの進行』の方である。
振り出しに戻ったのではない。
「少なくとも、関口に恋人は居たと言うことだな。それも、ずっと昔から」
柴田財団の顧問弁護士団を抜けたのは、幾つもの事件に関わったからだ。……そうだ。あの武蔵野の事件が発端でもあっただろう。
眼を瞑る。
あの頃の鳥口は酷く若かった。少し眼が寄っていることを覗けば、中々の二枚目でもある。そしてまた関口も若かった。あの頃の関口は、始終挙動不審で、定まった印象は無かった。だのに、此処には、此の鞄の中には、彼の「意思」が入っているのだ。
再び眼を開けると、天井の染みが見え、次第にそれは関口の像を結ぶ。
声を掛けた。
「少し眠ろうか、」
相手の肯きを待たずに、増岡は眼鏡を外した。


30/09/05






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