immortal beloved 02




passionと云う英単語がある。恋情や情熱を言う単語である。熱を言うならば他にfeverという単語もあるが、意味合いがまるで違う。そもそも英語は羅馬帝国の公用語であったラテン語から派生した言語で、passionの原語は「苦痛」の意味を持つ。
theと云う定冠詞を着ければ、the passion。それは基督の受難を言う。
苦痛が如何にして情熱となるのか。
自明である。
誰も説明は必要としない。
苦痛を受け入れない情熱など何処にも無いからだ。苦痛を受け入れてこその情熱なのだから。

その一枚の便箋に書かれた文面を見た時にどれだけの苦しみを経て、此の情熱を吐き出したのか、憶測を廻らせた。
大凡彼にそれだけの情熱があるとさえ、傍からは感じられなかったからである。
きっちりと七三に別けた頭髪に眼も鼻も口も尋常よりも大きい長い顔を玄関の戸の向うにして
「まあ、」
と感嘆の様な声を上げた。
「どうも奥さんこんにちは、」
「お入り下さい」
迎え入れてくれた女性に躊躇いと恐縮で敷居を跨いだ。
未だ若くして寡婦となった彼女は充分に美しい。
関口雪絵は増岡則之の訪問にそれ以上驚いた様子も見せなかった。
寧ろ肚を据えたというか、そんな印象を受けた。増岡が尋ねてくることを当然として受け止めているような。
奥の座敷に措かれた白い錦の袋に手を併せ、そして別の座敷に通された。
「如何ですか?最近は、」
自分でも情けなくなる程になんと在り来りなことを訊いた。仮にも喋ることを生業とする者が、である。全くの他人ならばまた違うのだろうが、関口は些か浅からぬ縁があった。知人の家人に対して矢張り割り切れない。
「ええそうですね。弔問のお客さまも漸く途絶えてきて。悲しむ閑が出来た処でしょうか、」
座敷の卓袱台の向こう側で茶を注ぎつつ雪絵は云った。見れば眼の下には薄らとした蒼い隈が見えた。何処か凄艶であった。
「関口巽くんも晩年は幻想小説の大家に為りましたからね」
「まさか。其処までじゃあ御座いませんよ」
朗らかに雪絵は笑った。
然しながら雪絵の夫である関口巽は最初の単行本である『目眩』を上梓した後、幾多の事件に巻き込まれながらも、俄然書き出し、その独特な幻想とも現つとも尽かない作風は益々冴え、混沌と内に秘めた艶やかが物語の中に昇華されていった。そして文壇などに終生興味の一呉れもしなかった本人に如何程の自覚があったかは疑わしいが、着々とその地位を確立していた。表に出ないことがその存在に更に希少性を与えたと言っても良いだろう。
「此れからどうしますか?奥さん。ご実家は都下だと聞いていますが、戻られるのですか?」
「能くご存知で。流石弁護士さまでらっしゃる」
「否、」
云い澱んだ。
「……戻りませんよ。此処は、私の家でございますから」
雪絵は不意に目線を彷徨わせると少し眼を臥せた。
「あの人は―――――」
か細いが張りのある声である。これと似た情景を以前にも見たことがある、と増岡は記憶を辿った。あの時もその場に関口は居なかった。
「―――――貴方に何を預けたのですか?」
思わず慄然として、増岡は注がれた茶を飲んだ。それでも咽喉の潤いには程遠い。少しだけ居た堪れなくなった。
「関口くんは、」
「あの人は、最期に酷く感謝していました。私に。ありがとう…とそれだけ…」
先刻まで凛と張っていた声が、少し歪んだ。
注意深く観察すれば、顎が微かに震えていた。
「礼を言われたい訳ではないのです。そんな言葉なんて、要らなかった。そうじゃなくて…もっと……」
大きく為り出した震えを押さえ込み、平生と変わらぬように、と雪絵は唇を噛んだ。
「…以前、もう十年近く以上になりますでしょうか?あの人か増岡さんの処を訪ねたのは」 「知って…いたのですか…」
黙った儘ゆっくりと肯いた。
そして、
「あの人には恋人が居りました」
唐突に、出し抜けに―――――静かに云った。
眼球を剥いたのは増岡だった。思わず手にしていた茶をこぼし先日仕立てたばかりの背広を濡らした。
「大丈夫ですか?」
「あ…ええ…」
「何か拭く物をお持ちしましょう」
一旦座敷を発ち、戻ってきて清潔そうな手拭を差し出された。
「申し訳ない」
「いいえ。―――――増岡さんには迚も感謝しています。韮山での誤認逮捕にも尽力して下さって」
そして気丈な眸を向けた。
「何を―――――預けたのですか?」
如何応えればよいのか、解らなかった。此処に居る女性に、関口は自分の持てる言うなれば「財産」を凡て残した。関口の屍躰を、妻と言う立場を、関口を失うと言う悲しみの中心を彼女に残した。
そう―――――雪絵は悲しみの中にいる。
切り出してよいものか数瞬、増岡は逡巡した。
「先刻―――――、」
「え、」
「先刻、奥さんは関口くんに恋人があった、と」
「諾」
微笑んだ。
「それは…事実ですか?」
「困りましたわね。それは…増岡さんの方が良く知っていると思っていたのですけれど」
「残念ながら、私は何も判っていないのです。知己ではあったけれど、関口くんと話をしたことさえ然程多いわけではない。だから彼から郵便が届いた時には酷く戸惑った。ただ彼はこれを法的に適応することは望んでいないようです。遺言書を私を通して法的に適応したいのならば、通常二人の証人が必要だ。だからこれは弁護士の『私』と云うよりも…」
増岡は初めてそれに思い至った。
そう、関口は法的にこれを適応させることは望んでいない。証人が必要だという手続きのことは以前に話していたのだから。だのに、それを関口は他の誰でも無く増岡に預けた。
つまり関口は、増岡を信頼したのだ―――――
弁護士としてではなく、一人の人間として。
「ならば増岡さんの持たれている『それ』は、あの人の…手紙、なのですね」
雪絵は硬質な口調で、甚も易く云った。
「あの人の恋人であったのが、それは知りません。今日増岡さんが尋ねてきた時に玄関で貴方があの人の恋人であったのか疑ぐったくらいです」
そんな様子は露と見えなかった。増岡は少し慌てた。
雪絵は薄く笑う。
「…私はもう、ずっと疑心と云う闇の中にいるのです。私たちはお互いに恋愛をして結ばれました。あの人と一緒に成る時もう他に恋はしない…できないと思っていました。お互いに同じ思いであったと思っていたのです」
だけれども、関口には恋人があったと―――――いうのか。
「関口雪絵さん、」
「はい」
「私は関口くんから『或る意思』を預かりました。私は弁護士であるから依頼内容は守られねばならない。それがどんな意思であるかは明かせません。『これ』はその誰かに其儘そっくり渡さなくて為らない物です。手掛かりがありましたら、教えて居ただけませんか?」
雪絵の口端が微かに持ち上がったように見えた。
「……あの人に男女は関係ありません。ですから、多岐に渡るでしょう」
「男女は関係ない?」
「そういう人なのです。私が初めて出逢ったときから、あの人は迚も惨い人でした。だからこそ惹かれたし、だからこそ妻となったんです」
此処で死後も続く柔らかな棘に苦しめられているも、それさえ愛おしい。
雪絵は柔らかく笑った。
増岡は顔を顰める。雪絵が酷く―――――可憐だったからだ。
「最後に一つお訊かせ下さい、」
「なんなりと、」
「貴方では―――――ないのですね?」
凝乎っと見据える増岡を、雪絵も静かに見返した。
そして頭を振った。
「いいえ、私では―――――ありません」
凛とした、声だった。

街には秋風が渡って往く。思えば増岡は関口巽と云う人物のことを殆ど何も知らない。彼と逢い話したことさえ数える程でしかない。だのに彼の意思を手にしているのは増岡で、彼が口を噤んでしまえば、意思なぞ無かったこととなる。それで終わりなのだ。
法として執行されない、此の遺言―――――故人の意思を、増岡は伝えるべき人間に伝えなくては為らないのだ。
少し息を吐いて、鞄を撫ぜた。関口は増岡を信頼したのだから増岡は屍者に酬いなければならない。
何処かに微痛を感じた。
否、痛いと言うよりは、それは柔らかな棘に似た。少しだけ胸が騒めいき、風の中を忙しなく歩いた。


11/09/05






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