immortal beloved 01




夏の終わりに南方で発生した台風が日本列島へ上陸し、蹂躙の限りを尽くして過ぎ去ると急激に気温が下がり、秋が訪れた。
「台風十四号は死者二十九名、行方不明者十二名の大災害と為り、政府の対応の遅れに声が上がっています。それでは首相官邸前から柴田さんどうぞ」
滑舌の良いアナウンサーが淡々とニュースを読み上げて往く。
増岡は書類を確認するとそれを鞄に詰めて、ラジオの電源を落とした。不意に窓を見れば、夕暮れは紅く、異様であった。台風の影響だろうか。然し夕暮れの時分は短い。すぐに夕闇に侵食され、やがて夜になる。此の不安定な時分は酷く不安になる。この世の背徳が悉く赦されるようで。
増岡は民事の弁護士業を長く努めているが、これほど厭な気分になるのは久し振りことだった。

知り合いの作家から遺言書の相談を受けたのはもう遠い昔のことだ。その頃の作家は見るに耐えないほど、不安定で、彼は彼なりに覚悟を決めていたのだろう。
遺言書の作り方を訊きに来た彼は、中々眼を合わせようともせず、時候の挨拶さえ辿辿しい。何を如何切り出したらよいのか解らなかったようで、暫し、だんまりが続いた。増岡もあの能弁な古書肆ほどの達者ではないが、それでも喋ることを生業とする身である。どうにかこうにか聞き出した処、それは遺言書の作り方だったのだ。用件を告げたことで、安堵したのか、深く息を吐いて、関口は漸うと顔を上げて、綻んだ。
長い時間を要した後、その日初めて眼を合わせたのだった。
「法律上では『いごん』と言うんだ。証人が二人必要なんだが…誰にするかな?」
「二人も?」
「そう。法律として執行するならね」
「それはちょっとな…」
証人になってくれる友人知人には事欠かないと思っていただけに躊躇した彼に少しだけ違和を感じた。
「……法として執行するって、どういうことなのでしょう?」
「そうだな…例えば、財産があったり子供が多かったり親戚が沢山居たりする場合には遺言書は作っておいたほうがいいだろうね。故人の意思を最も尊重することが遺言書だから。例えば君は小説家だから、著作権とかあるだろう?他の人間から知的財産の侵害を防ぐこととか、著作権があればそれから印税が入るからそれは矢張り財産だろう?それを特定の人間に授与することを定めたり、」
増岡が持ち前の早口で話し続けると、関口は少し笑って手を振った。
「法として執行はされなくていい。いいんです。ただ……僕が死んだ後、意思が残るなら……」
そして口を噤んだ。
彼が死んだ後の法的なことを語るのも違和感があったし、彼が自己の意思を語るのもどうにも違和感があった。
少し落ち着かない様子だったがその後幾つか話題をして、その小説家は快活とは行かないが、少し安堵したような様子を見せて帰っていった。
彼に死後に残したい意思がある―――――
それは不思議な感覚だった。彼の友人知人からそうした相談は終ぞ受けたことが無かっただけに。
況して小説家には妻が在るのだ。
法的に執行されなくても良い、死後も残したい意思ならば、妻に告げればよいではないか。 増岡は唇を噛んだ。
其処に現れるのは、不快に似た―――――違和。
妻には云えない「意思」なのだろうか…。
それ以上の思考はすぐに打ち切った。客があったのだ。
次客を迎えながら、増岡は違和を払拭させるべく努力した。そして守秘義務もあり、関口の遺言書のことは誰にも漏らされること無く、忘れ去った。
彼から手紙を貰ったのは死去の一年前だった。
黄土色の封筒の走り書きの文字で住所と増岡事務所御中と記されていた。
『増岡さま
いつぞやは相談に乗って下さり、大変遅くはなりましたが、御礼申し上げます。
同封した封書はあの時に話したものです。
私の死後、封筒を開けて下さい。
人に見せるも其儘処分なさるも、貴方のお心一つだと思っています。
これからも増岡さまの御多幸と御活躍をお祈りしております』
走り書きの文字の短い文面。
封筒の裏を見れば矢張り走り書きの文字で名前が記されていた。
関口巽―――――と。
相談から十年以上経った後のことである。
………最期は頓死だったと聞いた。急死であったと。妻君が起こしに往くと静かに眠るように死んでいたと聞いた。何かの病気でもなく、関口は自己の死を悟ったのか。

午后には予定を入れていなかった。
これから先、こういう日は増えるかもしれない。が今まで馬車馬の様に働いてきたのだ。誰も文句は言わないだろう。
事務所を出て大通りでタクシーを止める。未だ昼の時分は日差しによっては充分暑い。
これから何が起こるのか、増岡は想像を止める。増岡はただ遂行するのみだ、関口の遺言書を。
タクシーに乗り込み、ハンケチを使い首筋を拭った。
「中野まで」
行き先を告げると、運転手は頷いた。道を進むに連れ色色と運転手は話しかけてきたが、お座成りに返事をするだけで増岡は朦りと窓の外を見遣っていた。


07/09/05






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