Gnossienne No.4 




己と彼の間に何があったのだろう。


彼のその異端さは必死で頑なに見えた。人から孤立することを目的にしているようだった。だからそれを解きほぐして、彼を癒したいと思ったのだ。
けれども、何処で何が変わったのか。
何かが行過ぎてしまったのか。
それが、有っては成らない感情だと云うことに気付いた時、距離を置くことにした。
折りしも、夏季の長期休暇が始まり、妹を見舞うことを口実に約五百kmを移動した。
感情と距離は比例するものだ。
その距離の分だけ冷静になろうとした。
 以前より妹の預けられている家と自家で縁付くことを願われていた。
両家の思惑は白地で、どうしたら良いものか近年僅少懊悩していたのだが、実際に相手を知って少なくとも厭う人物ではないことを知った。
それ処か、容姿も気立ても過ぎた人で、厭う要素は何もなかった。
彼女ならば─────と思えた。
彼女を受け入れることは、彼への感情の訣別に他ならない。
少なくとも家庭を築くのならば、淡い慕情さえ許されない。そう認識すると、胸が痛痒に疼いた。
思い切るのだ。
有っては成らない感情なのだから。
だけれども─────、
深淵から声がする。
彼と喜びも怒りも愛しみも共有し合うことを冀う声が。



 明けめて、光輝が室内を黄金色に染めていた。
 同衾する男が起き出して着替え、静かに出て行くのさえも明瞭な意識の許で聞いていた。片時も睡れなかった。身動ぎも出来ない。寝台の傍らで凝乎っと朝を待っていた。
否、榎木津も起きていたに違いない。
寝たふりをして朝を待っていたのだ。
躰の芯の甘い疼きを感じつつ鈍鈍と起き上がると、床に用紙が一枚落ちていた。
『講義へ出る。今夜は家の戻るから寝台を使っていて構わない』
関口は思いも寄らぬ榎木津の優しさを知った。余りにも意外でならない。
「いつも虐められているからかな、」
自分の言葉の自虐さに少し笑った。
 新学期初めの講義にも出ず、榎木津の寝台の中で関口は夕暮れ近くまで過した。
日頃、睡眠に貪欲だのに、頭は益々冴えて睡魔にさえ引き寄せなかった。
窓から差し込む夕暮れの陽を浴びながら関口は、脱ぎ散らかした制服を着込み、乱れた敷布を整えて寮を出た。
未だ学校の授業は終わっていない。
「暑い、」
関口は額の汗を拭い、近場でなく少し離れた湯屋に行く。
人気の少ない中、湯を浴びつつ、まるで禊のようだ、と思った。
 寮へ戻る頃には、授業終了の放課の時刻と重なっていた。
帰寮する人の群れに紛れて部屋に戻ると、同居人の帰った気配は無かった。ざっと見渡して昨夜と違ったところは見受けられない。
安堵の息が漏れた。
こんな時程専攻が違うことを有り難く思ったことは無い。
再び、息を吐くと、閉じた扉に背を預けてその儘ずるずると、床へ崩れていった。
膝を抱える。汗が滲むような暑さが夕刻になっても保たれているのに躰が震えた。
「かみさま、なぜ─────」
言葉が漏れた。



 生れ落ちた家は寧ろ居た堪れず、仄暗い情念さえも渦巻いていた。
学校では成績こそ良かったものの人との関係が上手く作れず、次第に周囲の人間の憎悪の対象になっていった。否、憎悪と言う程のものでもないだろう。もっと軽薄な、負の感情だ。そして白地にそれを向けられた。
 誰かに助けて欲しかった。
哀れに同情し、慰めてくれる存在が欲しかった。
信仰に酷く惹かれた。
以前耶蘇の教会で信仰に導かれた人を見たことがあった。嫉ましい程に彼らはとても充足して見えた。
憧憬を抱き、耶蘇の聖書を読んでみたが、以前見た折の人々のように諾くことはできなかった。家の仏壇に仕舞われていた法華経を読んでもとても難解で、到底理解の範疇ではなかった。
それでも信仰が欲しかった。
既存の宗教に信仰を見出せない中、誰でも良かった。どんなものでもいいのだ。ただ縋らせてくれる存在であるならば。
関口は再び
「かみさま、」
と呼んだ。
慄然とする。
あれほど、人と触れ合うことを誡めていたのに、あっと言う間に奈落に落ちた。
己の業の際限の無さに呆れるほどだ。弟が居なくば別の男を見つけて、耽るのか。
しかもよりによって相手はあの榎木津だ。
目の前が真っ暗になった。
開け放たれた窓から蜩の声が聞こえていた。



 背後の扉が開いたのは、既に晩夏の宵の帳も落ちていた。
「関口、」と頭上から声が振った。
一瞬、躰が強張った。その一瞬を置いて緩慢に振り返ると、其処には中禅寺秋彦が居た。
「あ、ごめん…邪魔だね」
関口は腰を上げ、寝台に向かった。
昨夜、此処で会っているのに、もう随分会っていなかったような気がする。胸が疼くように痛んだ。
同時に榎木津のあられもない行為が脳裏に黄泉還り、頭を振った。
「お帰り、」
何の不足もなく、凡てに充足して、まるで倖せだと言う風情を装い、少しだけ笑んだ。
「昨日は…すまなかった。君、躰の調子はどうだい?」
「何が?」
「未だ不調なのか?君、今日授業に出ていなかったろう?」
胃壁に冷たいものが落ちる。
「今朝、寄った時にはもう此処に居なかったから、随分と早く学校へ行ったものだと思っていたんだが」
「…君…戻った、の?」
「学校へ行く用意はしていかなかったんだよ」
「それは…用意周到な君にしては…珍しいね」
声が少し震えた。頸の後ろに汗が浮いた。
「大丈夫か?未だ顔が蒼いぞ」
中禅寺が向かいの寝台に座って、凝乎っと此方を見た。目を合わせてはならない。
「……榎木津…先輩の処にいたんだ」
それは嘘ではない。
「榎木津の?」
「諾…」
中禅寺は訝しいそうな目線で関口を見詰めていた。
関口はその目線を無視して、寝台に寝転がった。枕許にはジムクンドがあった。既に幾度も読み返したそれを開く。
「その精神分析学者ほどにも僕に興味を向けてくれないか?」
それはもう遠い過去のものなのか。
それともあれは嘘だったのか。
文字を追えども、言葉が身に入ってこなかった。
中禅寺はそれ以上何も訊かず、室内には沈黙が下りた。




 元に戻った。
中禅寺を暗に拒絶して、出来る限り上級の人々に近付かないようにした。否、榎木津に近付かないように。元来地味が服を着て歩いているようなものだ。それは実に容易だった。















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