Gnossienne No.3 




躰が気怠く、関口は鈍重に躰を起こした。
少し、頭が痛かった。
あんな夢を視たからか。明け方に視る夢は正夢だと聞く。けれどもそれは己には当てはまらない。明け方に視る夢は記憶の反復だった。そして視る夢は決まっているのだ。
「かみさま─────」
声が漏れた。
四辺を見回すと其処は見慣れた設えなのだけれど、何かが違った。
品の良い部屋だ。
不意に見ると白い寝着と柔らかな敷布が身を包んでいた。
日頃、関口の使用している使い古してくたくたになった敷布ではなかった。
もう一度四辺を見回す。隣の寝台には布団が無い。すわ寮を出たのか、とも思ったが彼は「未だ学生だから随分と先の話になる」と言っていたことを思い出した。
「何処…?」
其処は関口の部屋では無かった。
「起きたか、サル」と玲とした声がした。
そして同時に扉が勢い良く開かれた。角度は百八十度水平に開いて壁に盛大な音を響かせていた。
其処へ仁王立ちに立っているのは、構内名負うての美丈夫榎木津礼二郎だった。否、美丈夫と言うより磁器で出来た美しい人形が命を得て動いているように見えた。
「どうした?顔が青いぞ。怖い夢でも視たかい?」
人形のような男は跫で扉を閉めた。手には木盥を持っていた。扉から四歩で関口の許まで来ると、机から椅子を引き寄せ、寝台の脇に腰掛けた。
「大丈夫か?」
大きな手が伸びてきて関口の額から汗で張り付いた前髪を掻き上げた。思わず躰が緊張して強張った。
声が違う────、
関口は思った。
「怖い夢を視たのか、」と声を掛けるのは、この声では無い。
関口の躰が慄いた。
あの男はどうしたのだろう。
何故此処に居ないのか────。
「本当に大丈夫か?関くん、君、猿が蟹に苛められたような顔をしているぞ」
妙な表現をして榎木津は掌に関口の顎を乗せてた。榎木津の手には人では無い冷たさがあった。それこそ磁器かとも思える似た冷たさだ。
「気に入らないな、誰を見ている?」
「え、」
「誰と間違えている?」
真正面に榎木津の秀麗な容貌を見て、これほど美しい面なのに何故歓喜ではなく身が千切られるように辛いのか判らなかった。
 朝に目覚めると、同室の男は既に身支度を整え、寝台に跫を伸ばして本を読んでいる。
それが常態だった。
お化けの話が好きなようで古今を問わず、妙な本を読んでいた。六国史さえもあの男にはお化けの出展に他ならないようだった。そして不機嫌そうな景気の悪い顔をして「また怖い夢を視たのか、」とあやすように云った。
はじめてそれを告げられた時には、まるで自慰をみられたような羞恥で生きた心地がしなかった。
そして「君、信仰は?」と訊かれた時に余りにも意外な質問に戸惑った。
「実家は法華経だったけど…僕に確とした信仰は…無い…」
目だけを関口に遣していた男は一旦本を閉じて、軽く吐息した。
「そうか、」
「諾。…でも…何故?」
「君が、時々寝言を洩らすからさ」
「寝言?」
復唱すると、自分の顔から血が引くのを感じた。
泉鏡花の外科室のようなことがもし起こったのならば。
「諾。大概、明け方に。聞く心算は無いんだが…申し訳ないが余りに頻繁だからね少し気になったんだ。酷い夢なんだな」
血が引く音が聞こえるようだった。明け方に視る夢は己の許されない記憶だ。
 突然、項を氷のような冷たさがなぞって関口は声を上げた。
「ひっっ」
「良い声だ!流石だ、関くん」
人を虚仮にしたように礼賛しつつ榎木津は関口の横に盥を置いた。中には透明な角の取れた塊が在った。
「あ、氷」
「先刻其処で買ってきたんだ」
「どうして?」
「関くんがいつまで経っても起きないからだ。昨日連れて帰ってから丸一日以上眠り続けて、死んでいるのかと思ったよ」
榎木津が枕元を指して見れば其処に革の袋があった。氷嚢である。
「僕…どうしたんですか、」
「憶えてないのか?昨日散々僕に迷惑を掛けた癖に。君を着替えさせて僕の寝台を提供までして」
呆れた、と云わんばかりの口調だった。辺りには夏の午后の気怠さが横たわっていた。
「僕の服は何処ですか?」
「洗濯屋」
榎木津は持ってきていた鉄鎚を手にすると、肘を持ち上げて氷に振り下ろした。氷は微小な塊の飛沫を上げて、白い罅を作った。
「僕が先輩に迷惑を掛けた?」
思い出せない。昨日はただ暑かったことだけを憶えている。
「昨日僕が寮に戻ってくると珍しくも慌てた風情の本莫迦がいるじゃないか。面白そうだから話を聞いてみると君を探して欲しいと来たもんだ。で、何処に行ったか検討は着いているのかと訊くと、まるで判らないとか云う。正門を左に出たとだけ云っていたな。」
とても暑かった。暑くて、暑くて、歩いて────
「歩いて、」
小さく呟いた。そうだ、暑い中を只管歩いたような気がする。だけれどそれは先刻までみていた夢ではないのか。
「中禅寺は…」
するりと同室の男の名前が零れた。
「ん?」
「中禅寺は…女性と居ましたか?」
「女の子は見てないな。ただ人を待たせているからとは言っていた。何だ、その人は女の子なのか、」 作り物粧いた長く白い指が盥の中の小さな破片を抓んで、関口の口の中に放り込んだ。
「冷たっ」
榎木津はもう一度氷を抓み自分の口に入れて、氷をからりと廻した。
「僕が都下を歩き回って、日も暮れた辺りで君を見つけやったんだ。感謝しろ」
「……じゃあ、あれは夢じゃないんだ」
歩き回った朧な記憶も、あの女性も────。
「未だ寝惚けているな、サル」
「……サルって言うの辞めてください」
榎木津は口角を持ち上げて笑った。
「どうして?サルはサルじゃないか。猿」
関口は肩を落とした。。
「ところで、なんで君はあんなところに居たんだ」
「あんな処?」
問うと榎木津は地名を口にした。
「僕が?其処に?」
其処は私娼窟だった。
昨日の記憶は判然としない。何故そんな処に行ったのか、判らなかった。
「君みたいな奴があんな処に行ったらすぐに転ばされるぞ」
「……能く…憶えてない…。ただ暑かったのと、只管に歩いて……先輩と、会ったの?」
「会ったんだよ。でも、君は僕の顔を見ると砂のように崩れたからな、」
舌の上で冷たい欠片が溶けて消えた。
 蜩の声が聞こえていた。
榎木津はもう一片、氷を口に含んだ。彼は暑くないのだろうか。人形然としたその綺麗な面には汗一つ見当たらなかった。美しい人は須らくそうなのだろうか。あの女性も汗の一つも見当たらなかった。
「関くん、君、暑さの中を歩いて倒れるまで歩いて。そんなに歩き続けたのは何故だい?」
そんなことを訊かれても、答えることなど出来よう筈も無い。
「以前、僕が中禅寺に君と引き合わされた時は、君とても迷惑そうな顔をしていた」
あれはいつの話だったろう。迷惑以外の何物でもなかったが中禅寺は関口を色々な人間と引き合わせた。
「だけど今や君は中禅寺とべったりだ、」
榎木津の含むような言葉に関口は声を荒げた。
「先輩っ」
「その女が────君を歩かせた?」
榎木津はその大きな目を皿のようにして関口を見た。脣が震える。関口は寝台を立ち上がった。
「部屋に、戻ります」
榎木津は引き止めなかった。そして何よりも一刻も早く中禅寺と会いたかった。
外界では薄闇が東から昼を犯しつつあった。



 別棟の自室へ戻る頃には夜の帳は落ちていた。
 部屋には燈が点っていた。関口は安堵に息を洩らした。扉を開けと、中禅寺が立っていた。洗濯から戻ってきた清潔な襯衣にズボンを履いて、まるで何処かに出かけるような仕度だった。
「関口くん、戻ったか、気分はどうだい?」
中禅寺が訊いた。詳細を関口に訊ねないのは榎木津から聞いているからだろう。手が伸びてきて関口の額と前髪に少しだけ触った。
「…諾、何ともないよ」
「君の洗濯物届いているよ」 中禅寺は関口の寝台を指し示した。そして鞄をしめると中禅寺はそれを脇に抱えた。
「出掛けるの?」
常時不機嫌な顔が心なしか和らいで見えた。
「中禅寺?」
重ねて問うと、中禅寺は困った顔をした。
「中禅寺、」
「鳥渡、出てくる」
そう言った顔は綻んでいるようにも見えた。彼の顔は綻び、関口の胸に楔を打つような心持ちにさせた。嫌な予感がした。。
焦燥と嫌悪を孕む────。
「何処────へ?」
扉側に立つ関口を追い越して行こうとする中禅寺の袖を取った。
「待って、中禅寺」
「……関口くん」
「待って、」
「………明日の早朝に帰るというんだ。だから」
いつもならばもっと言葉巧みに関口を煙に巻くだろうに、中禅寺は真実を口にした。
「あのひとの…」
訊く関口の顔を見ようとはしないで、中禅寺は関口の手を振り払い扉を出て行った。
一瞬呆然としたがすぐに我に返り、身を翻すと中禅寺の背を追って部屋を出た。
けれども思った以上に中禅寺の歩は早く廊下に姿は見えなかった。部屋に戻り窓から外を見ると中禅寺が足早に夜陰へ姿を消す処だった。
「中禅寺…」
関口は中禅寺の机上を漁った。机に並んだ本や帳面を繰ると、一枚、紙を見つけた。電報である。
『ミョウチョウキセイ チズ』
関口は電報を読み上げた。それは暗に仄粧かした誘いの言葉に思えた。
チズとある。
何処かで聞いた名であった。思い至るものがある。記憶に未だそれは新しい。チズとは、昨日中禅寺に引き合わされた、彼の─────将来妻女となる女性の名前ではないか。
朦朧とした記憶だが、慥かに彼女はそう名乗った筈だ。
窓から拡がる夜陰へ目を遣った。
呆然とした。
中禅寺は女の許へ行ったのだ。
『チズ』の許へ。
……関口を置いて─────



 戸が叩かれると、部屋の主人は生返事をした。声を出すことも億劫で、夏季休暇以前に後輩から借りた本から目を離す事無く返事をしたがそれは呻いたに近かった。
「榎木津先輩…」
情けない声と共に入ってきたのは、夕方まで此処に居た一学年後輩の関口巽だった。
「どうした?」
先刻時分は日付を越えたばかりだった。
水が滴り落ちる音で闖入者に目をやれば、情けない声の理由を知った。彼は泣いていた。
襯衣姿で頭は濡れていて、入浴直後のようであった。
「中禅寺が…」
咽喉が詰まる。漸く音を上げて呼吸をしたかと思うとそれは嗚咽だった。
「帰って来ないんです…電報があって…」
榎木津は悟った。
「………女の許か、」
関口は項垂れた。
「先輩は、知っていたんですか?…中禅寺の…」
「前に聞いたことがあった。話のついでにね」
関口は顔を上げない。白い項が見えた。
「…関くん、君は、中禅寺を、」
問われて関口は顔を上げ、榎木津を見た。涙に塗れた顔で、鼻水さえ伝っていた。
「彼奴は、君ほど君を気に掛けてなど居ないよ」
榎木津の声は冷酷だった。
そして、関口は身が疼いた。
誰でも良い────。嘗て弟にされたことをして欲しかった。

「────おいで、関口、」
榎木津は寝台に座った。白い敷布が、榎木津の重みに皺を刻んだ。そして関口に向かって、腕を伸ばし手を差し出した。
それがなにを意味するものなのか。知らぬ関口ではない。
「中禅寺がその女性にしているようにして上げるよ」
囁いた。
関口の躰が震えた。
「関口、」
燈を消す。月齢は18.2。望月は四日前に過ぎていたがそれでも充分に明るい。月明かりの差し込むだけの仄暗い中で榎木津は柔らかく笑っていた。
「おいで」
その言葉に随い、関口は榎木津の手を取った。



己と彼の間に何があったのだろう。
「その精神分析学者ほどにも僕に興味を向けてくれないか?」
彼の囁きが谺した。











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