Gnossienne No.2 




 学舎を出て、帰路とは違う方向の近隣で井戸を見つけた。借りる為に声を掛けようと周囲を見回したが集落に人の影は見つからず、半ば罪悪感を抱きつつ井戸ポンプを扱いだ。
数度扱ぐと、端切の袋に覆われた口から勢い能く放水された。
両手で水を掬い口に寄せた。
次の瞬間盛大に顔を顰めた。
吐き出すと、水が薄紅色に染まって見えた。
「沁みる…」
人に殴られるなど初めてではない。
それ処が馴れていると言っても過言ではない。彼らは関口の僅かな違いを発見すると迫害した。だが矢張り痛いものは痛いし、殴られることは怖かった。
ポンプの手押しの柄が木柱の慣性に上下して、やがて放水が止まった。
序でと顔にも水を浴びせ、犬がするように頭を振り、水を払った。
学校を出て時間から推測して未だ午后の四時を廻ったばかりである。
関口巽は家路を少し外れて、跫を海辺へ向けた。
 盛夏を過ぎた海に人は無かった。朝に漁へ出た人々が残したのか、それとも夏の名残なのか、浜辺には木舟と縄が転がっていた。関口は靴を脱ぐと鞄と靴と砂の上に置いて、跣で海際に寄って、やがて座り込んだ。胡坐を書くとズボンの裾の内側に白い砂が侵入した。家へ戻らなければならないことを考えると酷く気が重かった。
口端が切れていて、頬骨のすぐ下辺りには赤い痣があった。どうしてこんな傷を作ったのか、母親に説明しなければならない。
そして、そればかりで無く─────。
此処から見る太陽は未だ海上五十センチメートルにあった。
白く輝く海はただ眩くて、関口はずっと手前で寄せては返す白く小さな波頭を眺めていた。小石が波に洗われていた。
昔、家を出たことがあった。そう古い話でも無い。尤も数日留守にしたばかりで、すぐに戻ったのだが。
……家族の折り合いが悪かったのではない。ただ、関口が家族に馴染まなかっただけなのだ。
波の音を聞いているうちに、日は暮れていた。
「兄さん、」
そう呼びかける声が聞こえた。関口を兄と呼ぶ人間はこの世に一人だけだ。振り返ると其処には制服姿の儘の弟がいた。関口が放り出した鞄と靴を持って。
躰が僅かに強張ったことを、きっと彼は気付いている。そうしたこと…否、殊に関口に彼は鋭敏なのだ。
彼を愛おしいと思うかと問われれば─────応えることは出来ない。
本来持つべき家族としての親愛も、今や、とてもあやふやだ。
「いつまでたっても戻らないから、心配した、」
彼は関口の眼前に来て片膝を着いた。
そして関口の跫を取ると、靴の中の砂を払って、片跫づつ履かせた。弟の俯く顔の長い睫毛を凝乎っと見ていた。
「ほら、帰ろう」
両足を靴で覆われると、弟は立ち上がり、関口に向けて手を差し伸べた。
優しくて兄思いの弟。
一体いつからその間が変質したのか。幾つものできごとが澱の様に重なって、俄かには思い出せない。
 家の中で関口はまるで鬼子のようだった。
彼らと気質も考え方もまるで違うのだ。
母は幾たびも関口を叱責した。彼女はまだ関口が幼い頃に違いを見出して、その違いに耐え切れなかったのか、関口を区別してみせたのだ。教師たる彼女は殊更に厳格で、恐らく息子は彼女の理想とは懸け離れていたのだ。そしてまた父はそんな母と子の関係に無関心を装っていた。
………今なら判るが、父もまた息子を好いては居無かったのだろう。
親子とは言え、相性はあるのだ。



 板屋根の切妻の門の両脇から家を土壁が囲む。
門を潜ると、庭の体裁に配慮しない家風であるのか、それとも野こそ最良と思っているのか、伸び放題に秋草が生い茂っているばかりだった。芒は風に揺られて泰然と天を差し、萩は静かに地面を這う。その影に慎ましやかに藤袴の姿があった。
関口は植生に詳しくは無かったが庭にあるものだけは不思議と名前を覚えていた。もっとも土手に咲くものと内容はまるで変わらないのだ。
 恐らく関口が中等学校へ進学した頃には既に並に言う兄弟では無くなっていた。
関口とその弟の寝間は唐紙を一つ挟んでいた。たった一つ、その薄い唐紙を挟んだだけだった。
そしてその唐紙を夜半にそっと開くは弟の業だった。
「また何処かへ行っちゃったんじゃないかと、思った」
同じ敷布の中で彼は耳許で囁いた。関口はどう応えたものか判らずただ顔を俯けた。
 何をして彼が其処まで関口に執心するようになったのか、思い出せないで居る。
若しくは思い出したくないのか。
夜に、彼は静に寝間に入って、骨肉の膚を撫で回した。
外界との境界である障子を薄く開けてあり、そこから月の燈が細く屋内へ差し込んでいる。
秋風に庭草が揺れていた。
茂みに弟は鼻先を擦り付けていた。上がる呼吸を忍ばせて、関口は庭の秋草を凝視していた。
ただ只管に見ていた。
「兄さん」
耳許で呼ぶ声がする。
兄の下肢に身を沈める弟の髪を指先で梳く。
断続的な吐精を見ると、上肢を持ち上げられ、膝立ちにされる。そして唾液と指で丹念に均された臀部を弟の腰へゆっくりと降ろされた。
彼の頭部にしがみついて荒い呼吸と共に躰がうねる。
しがみ付いてしまう。
己の分かち合った骨肉…弟に。
露が産まれる払暁の頃、弟は自らの褥へ戻った。
関口の口から言葉が漏れた。
「……か…みさま…なんで、」















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