だれでも内省すれば”罪”の記憶がある
              ─────inuduka gyo




Gnossienne No.1 




炎天の中で関口巽は額と頤の汗を拭い深く吐息した。


夏季の長期休暇も終りを間近に控えていた。
許より帰省する予定も無くかと云って旅に出る資金も見当たらず、且つ勉学に励む心算も無かったので、休暇の大概は惰眠に費やされていた。
寮内の大凡の学生は帰省の途に着いたり旅へ出るなどして早々に姿を消していた。閑散とした塒は、日頃人との付き合いを煩わしいと感じている身には有り難いものだった。


「………ぐちくん、」
幾度か名を呼ばれて懸命な努力の下に瞼を押し開けると、人影が眼前を遮っていた。
「せき口くん、」
同室の人間ではない。暈けた像は鮮明になり「知った顔だ」と認識した。慥か同級である筈だ。
「………あ、えっと…」
額に浮かんだ汗を拭いつつ上肢を起こすと未だ昼の真最中だった。
「えっと…君は?」
「能く眠るな。暑くないのか?」
その口調は心底感心している様子で揶揄の影も見えなかった。
見覚えはあるのだが名前が思い出せない。
「大丈夫か?寝惚けてるのかい?まあいいや、人が呼んでいるよ」
「誰が?あと…えっと…」
何と呼んだものか言い淀んでいると、「僕のこと憶えていないんだろう?ほら、───と同組の」と云った。
男は人差し指で自分の顎をさした。もう一方の手には革張りの本がある。
「慥か前にボーヴォワールの本を持ってた…」
「カストールならもう読み終わったよ」
哲学書を離さない男だ、と紹介されたことがあった。
「…大…河内くん、」
関口が名前を呼ぶと大河内は莞爾と笑った。。
「覚めたかい?目、」
額を触られ、一瞬緊張した。少しだけ身が強張ったことに大河内は気付かないようだった。
「……うん。覚めたよ。大丈夫。君、もう戻ってきたのかい?」
「全く此方も暑いね。僕も昨夜は中々寝付かれなかったよ。今頃眠くなるもの道理なのかな?」
大河内の故郷は何処なのだろう。少しだけ気になったが、特には訊ねなかった。
「あのね………が正門のところで待ってるって、託った」
「え、誰?」
聞き取れなかった。
「───だよ」
それは同級であり、同室の肺病患者然とした容姿の男の名だった。
「彼奴、帰ってきたの?」
夏季休暇前に親戚も許へ行くと告げて早々に寮を後にしたのは一ヶ月以上も前の話だった。
「諾、鳥渡正門まで出てきて欲しいそうだ」
「『出てきて』?何故?」
「うん、」
困ったようにする大河内に関口は気色ばんだ。
「用事があるのなら、人に託なんかせずに自分で中まで良いじゃないか。正門まで来ていんだろう?」
噴飯気味に言うと、大河内が両手を振って取り成した。
「嗚呼、それは無理だよ」
「何故?」
頸を傾げると大河内は眉根を寄せて苦そうに笑った。
「行ってみれば解るよ」



人と触れ合うことを避けていた。怖かった。同じことは繰り返したくないのだ。あれは、罪だ─────。
もっと頑なにならなければならない。
もっと心を閉ざさなくては成らない。
もっと誡めなければ。
「もっと─────、」
呟いて、関口は水を貼った盥から顔を上げた。
大きな水粒が音を上げて落ちた。
頭を振って水気を飛ばすと、水に濡れた顔を袖の肩で拭い手を襯衣の裾に撫でつけて昇降口へ跫を向けた。
「暑い、」
声が漏れた。
 外界では陽炎が立ち昇っていた。蝉の声がする。それは夏の呵責を増幅させるには覿面だった。
何故あの男の為に此の酷暑に身を曝さなければならないのか。
まるで『賢者の贈り物』のような献身さだ。
人と触れ合うことを、親しくなることを、避けているのに。誰も入り込む隙間がないように、殊更交流を断絶していた。
だのに、あの肺病患者如き男は甚も易くその僅かな間隙につけ込む。
頑なに誡しめて心を閉ざして石のようになりたいのに─────。
否、石よりも頑なに成らなくてはならないのに。
息を吐いたが苦しかった。此の炎暑の中では呼吸さえ覚束ない。
関口は手の甲で汗を拭った。



 蝉時雨の中で突然横頬を張られた。
否、実際に殴られたわけではない。
夏の陽光に何もかもが曝されていた。炎天下では凡てが焼け焦げた黒い影にしか見えなかった。石造りの正門も、草も木々も石ころも陽に焼け焦げた真黒であったり、また灰燼に帰した白い物質だった。白黒の世界モノクロームだ。
 正門の門柱の横に影があった。
「久しぶりだね、関口くん」
影が暑さに朦朧とする関口に久闊を叙した。関口は白い足許に遣っていた眼を緩慢に影へ向けた。

油蝉の声がしていた。煩わしい。汗を拭った
関口に対し親しい口を利いた影の横には日傘をさした影が添っていた。
時雨のように蝉の音が降り注いでいた。煩瑣い。
影の口が動いていた。横に添う日傘の影のことを説明しているのだろうか。けれども躰内の神経系がシンバルの余韻の様な唸りを上げ蝉の誦経に混じり合いあらゆる音が揺らいでいて、影の声は鮮明に聞き取れない。
「……くや………もど………此方は………の…人で………京…の…」
躰が重い。
立ち昇る陽炎とむっとするような青い草いきれ。夏の匂いだ。額から汗が頬を滑り落ちた。その痕跡を手の甲で拭ったが、その拭った手さえ汗に濡れていて、汗を拭いたものか汗を顔に塗りつけたものか判らなかった。
顎から滴った汗は灼けた白い砂の上に斑点を作った。
苦しくて呼吸を深く吐き出した。それでも呼吸をしたと云う実感は無い。自分の呼吸ももどかしい暑さの中で関口の意識は益々と朧げなった。
不意に目を上げて驚いた。其処に居るのは黒焦げた物質などではなく女性だと云うことが見とめられたのだ。
女性は此の猛々しい暑さに端然として一滴の汗も浮かばせていない。
しとどに汗を浮かべ額に汗で髪の毛を貼り付けている己とはまるで違う────
その儘凝乎っと女性に目を向けていると、彼女は笑みを一つ此方に向けて零した。
不躾な────
そう思い目を再び足許へ落とした。
女性は日傘を畳んだ。
再び彼女へ目線を向けると、彼女は笑んだまま会釈をした。
紋様の鮮やかな紗の艶やかな長着だった。その鮮やかで艶やか衣類は彼女の嫣然とした容姿にとても似つかわしく、美しかった。
美しかった────




人と人との関わり合いの恐ろしさを身に沁みて知っていた。
郷里を出て、此処にきてまで同じことを繰り返したくは無いのだ。
人を警戒して、誰も寄せ付けない。
迎合の形を取らず郷に入る様子を見せなければ、大概人は関口を区別し避けて離れて行く。
それで良かったのだ。
だのに『彼』は─────。
誰に対してさえ受け答えに素っ気無く冷淡に努めて交わろうとしない関口だったのに『彼』は果断に向かってきた。
何くれと話の取っ掛かりを見つけて関口の傍に居た。
不図気が付くと、隣に居るのだ。
『彼』は関口の心情などまるで忖度しなかった。
そうした繰り返される彼の所業は、やがて彼が傍にいることに馴れる程繰り返された。
「その精神分析学者ほどにも僕に興味を向けてくれないか?」
図書館の閲覧机で関口が手にしたジムクンドを目敏く認めた彼はそう小さな声で訊いた。関口が怪訝そうな表情をしてみせると、彼は不機嫌そうな兇悪な顔で実に鮮やかに笑った。



─────誰よりも彼の傍に居ると思っていた。



「並々ならぬ縁故があってね────縁付くことになったんだ。」
横に並ぶ女性を気遣いながら彼────中禅寺秋彦は云った。
そしてその禍々しい顔を少し緩めて、
「だけれど未だ学生だから随分と先の話になるだろう、」
と続けた。
音の洪水に揺れる聴覚で、それだけが鮮明に関口の許へ届いた。















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