bisous_11


 油と精液で敷布は酷い有様だった。関口の中で水のように溶けたオイルは榎木津が自身を抜くと零れ落ちた。鮮やかなその感覚に、思わず襞を窄めるが人為的に押し込んだそれは緩やかに滴った。
排泄に似たそれに羞恥に顔が染まって俯けた。
榎木津は敷布の端を寝台から引っ張り出し、関口の臀部を丁寧に拭うと、臀朶に歯を立てた。
「痛っ」と叫ぶと「好い声だ!」と歓んで臀朶に口付けて笑った。関口が恥ずかしさに震え思わず躰を背けると榎木津は曝された紅い項に吸い付いた。
 最後に果てたあと、榎木津は避妊具を外して口を結び寝台の下へ落とすと男の生理だろうか直ぐに睡りに付いた。疲れていたのだろうか。遊覧船の発着港で出会う前に何かあったのだろう。勿論それは関口の知り得る処ではないけれど。  関口は榎木津の腕の中で凝乎っと夜が明けめるのを待っていた。
拘束する榎木津の腕力が弱まるのと共に。 此処に着いたのは遅かったからか、夜の間は短く朝の光が部屋を満たすのにそれ程時間は掛らなかった。 斑斑ほどろほどろと室内が夜の帳を振り落とす。 緩んだ白い腕と酷い臭いのする上掛けから静かに抜け出した。 寝台脇の燭台は消えていた。昨夜、榎木津も関口も燈を消した憶えは無いので、燭台の油が少なかったのだろう。
寝台の下に落とした衣服を拾い集めて身に纏う。上衣ジャケット中着ベスト下衣ズボン。だが衣服の中で最後まで纏っていた襯衣は、油とあらぬ液体の染みで着られたものではなかった。
 襯衣を着ることは諦めて、昨夜入って来た背の高い窓際に置き去りにしていた鞄に押し込むと関口は室内を見回した。
暗い中では解らなかったが、まるで貴族の館のようだった。
 上品な古めかしい調度が並ぶ。
暖炉の上には大きな鏡。寝台のリネン類、壁や扉は鳥の子色をしている。柱の高い天井間際や扉には彫刻が濃やかで所々に淡い金色が施され、窓罹や寝台を巡る帳は濃藍のうらんだ。それは睡る為の色である。
敷かれた群青色の絨毯が靴底を包む。昨夜黒色に見えた絨毯は注視すれば呪いのような異国趣味の幾何が織り込まれていた。室内の至る処に夫々趣きの違う椅子や卓子が設えられている。 中でも黒檀のシノワ風の椅子には刺繍入りのクッションが備えられていて、それが尚も貴人の館のような印象を持たせた。
前世紀中頃に欧州にシノワズリが流行し、貴族の屋敷には必ずそうした部屋が存在すると聞いていたからだ。
 関口は部屋中を見渡して不図目線を投げれば、対角線に在る窓の向うがとても煌々としているのに気が付いた。
引き寄せられるように、その窓へ近付くと、真白の霧が見えた。
下界で見たような眼前を埋め尽くす灰色の重苦しい霧ではない。
「眩しい、」
蒼穹が覗いていた。雪がもよいそうな昨晩だったのに───晴れている。薄青の空は如何にも冬らしい。あの雑誌にみたような、空ではない。
恋をするのに相応しい街の色ではない。
では───此の胸に沸くものは、違うのだろう。
眼を空から再びその下方へ転ずれば、また眩しい。湖上に立つ白い霧が朝日を浴びてその粒子を反射させているのだ。霧が霽れれば此処から対岸も見えたのだろう。
眩しさに眼を眇めて、寝台を見た。上掛けが規律正しく僅かに上下している。良く眠っているようだ。暖炉の火は既に細くなっていた。もし此処が貴族の館ならば、主人の眼が覚める前に使用人が火を焚べにくるだろうか。
不図息を吐く。

「ありがとう、」

掠れて小さく小さく呟いた声は届かないだろう。届かなくていいのだ。
榎木津はかりそめの人だ。
関口の生に於いて。
ほんの少しだけだ。
ほんの僅かで。
雨にも似たる俄かさだ。
双人の間にほんの束の間おとなった時が、どれだけ倖せだったものか解らない。そして此れから後の生の中で、この倖せだった時が関口を苛み如何程に彼を乞うことになるかは解らない。
とても苦しいかもしれない。
けれど、そんな苦しみが感情が身に降るのなら、此れ程の倖せは無いだろう。
榎木津を関口の人生に付き合わせるわけには行かない。
室内をゆっくりと横切る。榎木津は静かに睡っていて寝息さえ聞こえない。
関口は一顧を抑えて、昨夜と同じ窓から外界へ跫を踏み出した。
胸が熱い。



 寒気が襲い狂い、身を犯した。
思わず震える。
庭には常緑の木が植えられている。葉の先に指を添えると短い爪に露が入り込んで濡らした。露は夏や秋に葉に落ちるもので、冬は大概空気中で凍り霜として地表に降り注ぐ。
「少し、眠ったのかな」
関口は呟いた。
思えば薄明あけぼのの頃の記憶は曖昧だ。上ってきた階段へ向かうため石畳を進むと、薔薇の垣根があった。花は無いそれが左手に何処までも続いている。ハートの女王の迷路だろうか。少し進むと石畳の横で迷路は形を崩していた。
「やあ、おはよう」
上方から降り注いだ声に顔を上げると、雄雛のような首が其処にあった。 黒い眸子と髪をした柔和な白皙の男が垣根の向うに立っていた。
「此の先の階段は崩れているから上るのは可能だが下るのは難しいと思うよ。それに降りたとしても君たちの乗ってきた船は流されてしまている」
そう云えば昨夜榎木津はあの小さな船を何処にも繋がなかった。
「あの…じゃあ、何処から出て行けばいいんですか?」
「襯衣も着ないで寒いだろうに」
男は垣根から出てくると関口の前に立った。榎木津ほどに背が高い。
「外套はどうしたんだい?」
「あ、」
部屋の中に忘れてきた。然しもう戻れない。早く此処を出なくてはいけないのだ。
男は小さく笑うと自分の襟巻きを外しはじめた。不図眼前が影った。男が少し躰を屈め関口に鼻先を寄せた。

「薔薇の匂いがする、」

男の鼻が吸い込みに鳴った。庭に薔薇は一つも咲いていない。
ならば薔薇の匂いは───
血が引く音が聞こえた。
「でで出口は何処ですか?」
訊く関口の頸部に男は莞爾と笑って自分の襟巻きを巻いた。
「苗を、」
耳に触る彼の声は温和で心地よい。
「え、」
「苗を此処へ運んでくれたのは君だね。ありがとう」
莞爾と男は笑んだ。雄雛のように美しく、柔らかな容貌に関口はまともに見蕩れた。
「君は猿に似ているね」
何処かで聞いた台詞だった。
「成程───彼が恋をするのも解る」
男は自分勝手に納得したように小さく何度も頷いた。
「此処は母の生家なんだ。否、本宅は下界にあって此処は普通夏の離宮として使われたのだが…彼女は此処で産まれてね。彼女が我が家に嫁入りしてから使っていなかったんだ。でも放っておくのも勿体だろうからホテルにしようと思ってね」
男は滔滔と語った。
「折角ホテルにするのなら本来の薔薇屋敷にしようと思ったんだが、目玉の冬薔薇が枯れてしまった。母が娘の頃に自分で交配したオリジナルなんだ。ただ素人が作ったものだから美しいんだが酷く扱いが難しくって、ずっと庭の手入れを任せていた庭師が亡くなって息子の代になった途端、」花が咲くように五指を開いていた手を窄めた。「───枯れてしまった。だから嫁に往く時に持っていった苗を彼に運んで貰ったんだが、迷惑を掛けたようだね。」
すまない、と頭を下げ莞爾を笑った。
「そして───貴方を待っていたんだ。関口巽さん」
突然名前を呼ばれて関口は顔を上げた。
彼に名乗っただろうか。それとも名乗るようなものを身に着けているだろうか。旅券は鞄の中の筈だ。関口が矢庭慌てると、男は口を開く。
「教授の御高名は窺っています。赤井書房の鳥口くんに教授の愛弟子が此方に来る旨を聞いていたから、待っていたんだ」
男は関口が勤める研究室の大看板の名前を挙げて、鳥口の名前さえ口にした。
何を男は話しているのか。理解が状況に追いつかない。榎木津に遇うことも此処に来ることも変則的な出来事だった筈だ。
「あ、あの…?」
何が起こっているのか。
「榎木津の業務と教授の研究の提携はとても有意義なものになるでしょう」雄雛は笑みを深くした。「初めまして、『榎木津』の種苗部門の取締役を任されています榎木津総一郎です。これからどうぞ、良しなに。」
男は榎木津と同じ姓を名乗った。
手を差し出される。握手をしようと言うのだろうか。関口は握手でさえも接触が苦手だ。外界へ密事みそかごとを持ち出すようなものではないか。
不意に頸筋に感触が黄泉還り思わず其処を押えた。
「…ぁ、」
眼を深く閉じる。思い出してはいけない。それは封じるものだ。
「向うに温室があるんだ。さあ、」
手を取られた。
総一郎が手を引き歩み始める。ハートの女王の迷路の真中に石畳が通っていた。長い脚に似合わずとてもゆっくりとした歩調だった。
気遣われているのだろうか。
「薔薇が枯れたのは土の菌に因るものだと云うことは解ったんだが、それ以上はあの庭師には限界でね」
温室に今までの経過を採取して保管してあるらしい。
「ま、ま、ま待って下さい!ぼ僕の専門は数年前から粘菌に移行していて、ですね」
学問の世界には菌類から入ったが、同じ菌が付けども粘菌と菌類とではまるで別物だ。
「今でも教授のお手伝いもされていると言うし、その道では大変優秀だったことも聞いている」 総一郎は関口の手を握り直す。関口は身を捩った。
「流石に個人的なことと仕事を一緒にすることは気が引けて、最初は出版社に連絡入れたんだ。誰かひとはいないかとね。それが赤井書房の鳥口くんだ。鳥口くんは教授の愛弟子の名前を挙げて、近々君が此方に来るとも教えてくれた」
決して関口は教授の愛弟子ではない。恐らく鳥口は総一郎を謀ったのだ。何処から鳥口はこんなことを図っていたのだろうか。関口はあの橇犬に似た若き編集者を思い起こす。慥かに「帰った時には研究室に関口の席は無いかもしれない」と出立前に零したかもしれない。だから、だろうか。関口が研究室の出資者た榎木津の要請に応じて長く休んだとなれば、きっと籍を抹消させることは無いだろう。
彼の労に報いる為に、総一郎の依頼を聞くべきだろう。
それでも霜が解けてかぬかるんでいるのを見れば、焦燥に駆られた。
此の儘時間の経過を許せば、幾ら疲労があるとはいえ榎木津は目を覚ます───。
関口は総一郎の手を振り解いた。
「すみませんっ。矢っ張り、僕、帰ります。お願いです。出口を教えてください!」
声を絞り出した。
「お願いです」
「未だ霧は霽れていない。こんな時には流石に船を出せないよ。だから臆病は辞めて、せめて彼が起きるまで此処に居ないかい?」
「それは、で…でき」
「出来ない?」
横目に優しく関口を見る。優しい目線だのに、何もかも見透かされていることが解る。俯く以外何も出来ない。
 数多の薔薇の垣根を越えて眼前に円い硝子の屋根と壁を持つ温室が現れた。総一郎が硝子の扉を開けると、蒸っとした湿度の濃い空気が双人を向かい入れた。
温室の中には緑と水の循環する音が聞こえている。そして関口は俄かに瞠目した。まるで関口の研究室が越してきたような光景が其処にあったからだ。
総一郎は関口の後ろで扉を閉めた。
此方へ、と導かれた処には作業スペースがあった。水のプランターに苗が生きている。関口が運んだものだと総一郎は言う。死んだようにくったりとしていたのに、今は瑞々しい。
不図もっと早く鞄から出して上げれば良かったと思った。
そして冷温庫から総一郎はシャーレを取り出してきた。中には採取された土があった。
 総一郎は椅子を引き寄せ座り、もう一脚を関口に勧めた。賓客に対する主人のようだった。
長い手指が関口に伸びてきて、襟巻きを施した。温室ではあるが、首筋が僅かに冷りとする。椅子に肘を置き、顎を乗せると楽しそうに其処を鑑賞した。
「鬱血痕と、噛み痕か…。鼻にも」
雄雛が優美に口端を持ち上げた。
「全く、」呆れたように嘆息し「彼はけだもののようだね」
矢張り総一郎は昨夜榎木津と関口に何があったのか知っているのだ。慌てて背広の襟を立てて両手で頸を覆った。顔に急激に血が上る。躰中に痕跡があるのを関口は確認している。歯による噛み痕や、指の痕なのか花辯のような脣に吸われた鬱血痕であるのか判別の付かないものも、だ。先刻から血が引いたり上ったりを繰り返している。躰を壊すかもしれない。こんな頻繁に血圧の上下運動があって良いものである筈が無い。
「苗の引渡しは本当は下界の筈だったんだ。街中の教会の前で。彼は颯々と終わらせたいみただった。酷く急いていて。彼は日頃此処には全く近付かないんだよ。だのに教会の前には現れなかった」
そして結局榎木津は此の街、此の屋敷に来ることなったらしい。
「……近付かないのは、何でですか?」
「嫌な想い出があるんだよ」
「嫌な思い出?」
「『良く無い思い出』と言い換えようか、」
ふふ、と上品に雄雛は笑った。
「本来此処は彼に譲られるものだったんだ。私が下界の本宅を譲り受けたようにね」
「今は、違うんですね?」
諾と総一郎は頷いた。
「今は彼から私が譲り受けたんだ。………此処は陸の孤島だ。双人でいるのにこんなに良いところは無いと思わないかい、」
それがどんなことを意味するのか解らない関口ではなかった。腹芸や人の機微に酷く疎いのに何故こんなことばかり解ってしまうのか関口は自分に呆れる。
「気になるかもしれないが残念なことにそれに関して私に情報は無い。彼らに何があったのかは何も知らないんだ。ただ、彼はもう恋はしないと思っていた」
杞憂だったようだね、と云った。
───恋。
なんだそれは、と関口は思う。
それは何時聞いても空々しい他人行儀な単語だ。殊に関口の身には。
「此方ですか?若御前」
緑の向こうから壮年の男が顔を覗かせた。関口を見ると怪訝な顔をした。
関口は徐に慌てた。 正式な客ではない。昨日榎木津と入り込んだ、謂わば不法侵入者なのだ。 「お客さんですか、」
怪訝な顔はしていたが、彼の持つ盆には碗が二客用意されていた。珈琲のようだ。醒めるような芳しい匂いがする。
「礼二郎の賓客ゲストだよ。安和、丁重に」
先刻から総一郎は榎木津のことを『彼』と呼んでいたが、礼二郎と呼んだ『兄』の顔はとても優しかった。
思わず見蕩れてしまう程に。
然様で、と総一郎に応えると、「どうぞごゆっくり」と関口に告げて安和と男は規律正しく礼をして去って行く。
 珈琲を飲み下しながら、ホテルの開店にそれ程時間が無いと総一郎は言った。だから強引に彼を引っ張り出したと笑った。下界で本宅に中々現れず本当に心から案じたと。
榎木津はその間中ずっと関口と居たのだ。霧になれない関口を揶揄いながら助けてくれていたのは榎木津だ。それも此処に運んだ苗の為だと思うのだが、そう云う関口に総一郎は莞爾と笑うだけだった。
「此処は夏の街なんだが、冬にも人を呼びたいのだ」と総一郎は語った。
「あの冬薔薇は本当に美しいんだ。ハイブリット系の形でね」だから冬に人を呼びたいのだと云う。榎木津に闘牛士の恰好をさせたのもそのらめらしい。人を呼べるものは何でもしてみようと云う試みの一つだといった。
「丁度古代羅馬時代の闘技場があるじゃないか。屋外でしかも冬にやると云う享楽さが如何にも古代の彼ららしいとは思わないかい?」
闘牛士の恰好は榎木津が好きこのんで選んだものだと云う。
「たった二つの名前から君が泊まっている宿を探し出せという難題も頂いたよ」
それが闘牛士を務めたことへの報酬とされたらしい。
だのに、君を尋ねてその宿へ行けば君は既に宿を後にしていて、死に物狂いで関口を探し回っていたことと語った。
顔が熱い。
総一郎は終始慇懃で柔和、美しくそして優しく、時々覗かせる尊大さはとても貴族的だった。
手の中の碗に注がれた珈琲の嵩が浅くなり、温くなった頃、非道い音を上げて扉が開かれるた。
スラックスを履き、その肩には関口のものである小さな外套を引っ掛けていた。
「そんなのと話していると馬鹿が感染るぞ!関くんっ」
怒鳴られるその声を聞くことが嬉しい。
殆ど反射でそう思う。
榎木津礼二郎だった。
温室の上方から降り注ぐ陽光に彼の髪や眸が透けて、琥珀色に見える。
凝視していると、腕が関口を捕らえた。
「何を話していたんだ」
榎木津は右手で関口の頭を掻き雑ぜながら、眼前の兄を凄絶な眼で睨み付けた。対して温和な顔で総一郎は珈琲を口にする。
「ちょ…痛いよ、榎木津さんっ」
力任せに締め付けてくる関口が悲鳴を上げた。
「───関くん、」
声が低い。
「え、」
「呼び方が間違っているぞ。そうじゃないだろう!昨日みたいに正しく呼びなさい」
昨日みたいに───。
何と呼んだだろうか。榎木津の腕の中で藻掻きながら、関口は記憶を遡る。そして瞬く間に───。
「うにゅ」とか「うぎゃ」とか「きゅう」とか、兎に角変な風に鳴いたのだと思う。
榎木津が大笑いをして、実に何とも嬉しそうに「い猿だ!」と関口の髪に顔を埋めた。その抱き締める榎木津から、薔薇の匂いがした。抱き合う度に榎木津は薔薇の香りのするオイルを関口が苦しくないようにたっぷりと使った。
互いの身体で交じり合わせた匂いである。
顔が熱い。
きっと此の儘では発火してしまうかもしれない。人体発火だ。きっと彼の腕から放されて後残るのは関口巽だったと云う灰でしかないだろう。
「突然消えるから肝が冷えたじゃないか」
顔を関口の髪の中へ埋めた儘囁かれた。
嗚呼、全く───。
「辞めて…離してよ、榎さん!」

あれ程人の嬉しそうな笑い声を聞いたことが無い。

寄り力を込めて潰されるかと思う程に抱き締められて、「そのとおーりだ!全くだから君は亀だと云うんだ。僕を不安にさせようなんて四十六億七千万年早いのだ!」
弥勒を気取る気だろうか。衆生の一切を救う気だろうか。けれど此処に惑う衆生など関口しかいない。
「………不安…?」
榎木津の言葉の一つに気が止まって、関口は総一郎を窺った。優しそうな眼をした兄は優雅に頷く。
そして「亀」とは会ってから何度か榎木津に云われた言葉だった。
───自分の時間を人に差し出せる奴もいることを学んでおくんだねとそう榎木津が説いた言葉が黄泉還る。一体いつから榎木津は『そう』想ってくれていたのだろうか。
眼の奥が熱い。
それが何だか関口はもう知っている。
「榎さん、」
神妙に小さく呼びかけると腕の囲いが弱まった。
顔を上げる。近すぎるほど近くに榎木津の顔がある。関口は珈琲の碗を腿の狭間に挟むように置くと、腕を持ち上げて榎木津の上腕に添わせるように置いた。
榎木津の目が優しい気がする。
自分のものも同じであればいい。
けれど今は瞼をそっと下ろして、その頬へ───







…書き直した。…伏線は回収できただろうか。
薔薇はジュリアに似た紅茶色の心算です。
総一郎さんはボーナス。主に私への。





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