bisous_09


 暖かい。部屋に戻ると柔らかな燈が点っていた。隅々まで照らし出そうとするのでない、旅人を優しく労わるように。ホテルの万全のホスピタリティは、まるで中禅寺の掌を思わせた。思うに、中禅寺秋彦と言う男は関口にとって万全な安心を意味していた。否、安心を云うよりは手抜かりの無い仕掛け事と云ったほうが良いのかもしれない。此の宿は酷く中禅寺に似ているのだ。果たして、彼の婚姻が如何にも似合いだとでも云うかのように。
 此処に戻りたくないと思っていたのに、何故此処にいるのか。自嘲の笑みが漏れる。此の冬空の夜に戸外へいることなど出来る筈も無いのだ。
「此処はあったかいし、近くに中禅寺が居る」
中禅寺がいて、きっと暖かな部屋だろう。手を取っている。誰かの手。柔らかい手。
それは関口の手ではない。
脳裏に浮かぶその光景は、先刻見た現実だ。
ぞっとする。胃壁に冷たいものが滴り落ちて行くようだった。心身に感じる不快感だ。此れ程、痛いなどとは。
閉じた扉の柄を掴む手を離した。
後頭部を扉に押し付けると、ずるずると躰が下降し、やがて膝が床に接した。
呼吸が荒い。
時々肩が跳ねるように動く。
視界が酷く鈍いものになっていた。
 皆、此の掌を擦り抜けて行く。
誰も留まっては呉れない。今までそれこそ人の好意が己に降ることなど信じられなかった。大学に入り、家を出るまで関口の日々は暗澹としたものに他ならなかった。何故彼処まで家族から疎まれ、級友の侮蔑と嫌悪を得ていたのか。関口には正直判らなかった。ただ、運命なのだと思ったのを憶えている。家族と気が合わず、教師には持余された。そんな中で成績が良かったことが救いだった。
人の好意を当てにすることは諦めていた。
だから、中禅寺から寄せられたものなど信じがたかったのだ。
きっと、いつか離れて行く。
そして、拒絶をした。
散々拒んだ。手を差し伸ばされることさえ、不快だと示したことがあった。
近付くな、と声を荒げたこともあったのだ。
けれど、それでも中禅寺は傍にいて凝乎っと耐えていた。関口が彼に向けて壁を作っていることにも耐えていた。
何故今頃になって、中禅寺が関口に出会った時からずっと寄せられていたものをいとおしいと気付くのだろう。自分のことだのに。
あの時、何もかも擲っていれば、これほど…これほど怖がらなければ、中禅寺は家の勧めた女性の許へ行ってしまうことなど無かった筈だ。そうだ。中禅寺は諦めたのだ。関口から、得る事を。
そして関口は彼が去ってしまってからそれに気付いたのだ。
「本当に僕は…莫迦だ…」
でも怖いのだ。
脣を噛む。
 先刻、関口が彼の行為を見咎めたそれにさえ榎木津の鳶色の眸は焦燥さえ無いように思えた。揺らぐ様子はまるで無かった。それはそうなのだ。だってあんな風に抱き合って眠ったのだって、怖がらせて御免と謝ったのだって凡ては打算尽くで、あの試験管を無事に此処まで運ぶためだったのだから。
両手を握り締めた。爪が伸びていて掌に食い込んだ。
「痛いよ」
けれど、もっと痛い場所がある。関口は二つの拳を目に宛がい、情けない呻き声を上げた。
怖いに決まっている。擲てないに決まっている。
無理も無いだろう。
こんなに痛いのだから。四肢が引き千切られる程に、こんなに、此れ程痛いのだから。
嗚咽が漏れた。



 波間に漂う月は千々に乱れて揺らいでいる。本来波の無い水面はそれでも揺れる。
冬の寒気は冴えて酷く冷たいのに、躰が熱い。硝子碗を傾けると、碗底には既に咽喉を焼くように、心を潤す液体は枯れていた。
「随分と不機嫌じゃないか」
背後から声を掛けられ思わず眼を見開いてた。振り返り会う心算の無かったその人を睨め付ける為に目を眇めたが、まるで効果は無い。涼しい顔をしている。
「あんたの所為だ」
「そんなつれない台詞、寂しくなるじゃないか。盛況だったのに。とても好評だったよ。矢張りああいうのは君に似合うね、」
「派手過ぎだ。第一、そんなのはどうでもいいよ」
阿っているのか莫迦にされているのかそれとも正直な所感なのか、この闖入者の真意は易々とは理解できない。その笑顔は何処ぞの節句の雄雛のような面相で、柔和だのに一顧だに安心できないのは何故なのだ。
「アレは?」
「研究室。その内研究者も来る」
研究室と言う名ではあるが、ただの温室である。
ふぅんと呟いてまた窓の外を見る。ずっと向うに見える小さな明かりの数々に眉根が寄る。あの小さな灯火の下にいるのだろうか。泣きながらか、それとも泣くことも出来ず顔を歪めてか。最後に見た表情を無くした顔が先刻からずっとちらついている。
「未練でもあるのかい?」
時々此の男は千里眼の持ち主なのではないかと思わせる。人の機微に聡過ぎるのだ。
「何に?」
声が自然冴えるのが解る。
雄雛はそれにさえ動じない。
「否、君がそれ程熱心に向こう岸を凝視めるにはそれなりの理由があるように思えてね。此の部屋、嫌いだろう?人を招ぶような用意もしていない部屋だ。それにも関わらず、君が此処にいるということは、此処から見える対岸に、一昨日その前日と姿を晦ましていた理由がいるんじゃないのかな、と」
「………煩瑣い、」
「何が見えるのかな?」
応えない。
けれど、雄雛は凝乎っと此方を注視し、どうすれば彼が音を上げるのか心得ている。否、嫌われているのでもなく、あれこれ云われることが癪に触るだけで、敬意さえ存在ことを知っているのだ。全く見透かされるなぞ、それこそ癪に障る。
「あれ」
第二間接部が骨張って見える細い指が波の向こう、今はただの黒い液体にしか思えないが、を指し示した。
「知ってる?」
指先が山の中腹に見える或る屋敷を差し示していた。
雄雛は緩々と「解らないよ」と頸を振る。
硝子碗を卓子に置いて、指を額に当てた。慥かあの酷く酔った関口が口にしていた行き先は…。記憶の中の関口の脣をなぞる様に宿の名前を口にした。
「解ったよ、調べて置こう。直ぐに此の部屋の用意をさせるから、少し待ってなさい」
琥珀色の液体を呷る。咽喉を焼く心地良さに、浅く息を吐いて脣を嘗めた。息は白い。だのに此処から離れられない。あの目が胸を射っているのだ。



   空調の微かな機動音が聞こえている。咽喉が痛いように酷く乾いていて、緩慢に身を起こして寝台の脇をみれば水差しが用意されていた。
僅かに温んだ水は不図潤の宅で宿酔に口にしたことを思い起こさせる。
酒臭い身を洗って浴室から出てくるとドライヤーと櫛を手にした榎木津が手招きをした。使い乱れた寝台の上に腰掛けていて、彼の横に腰掛けると「もうちょっと此方」と脇から腹へ手を掛けられ引き寄せられた。 慌てて手を寝台に着こうとすると、着いた先は榎木津の膝先だった。
「え…榎木津さんっ」
「じっとして」
繊細そうな手指だった。温風と櫛の先、そして彼の手が関口の毛髪と頭皮を行き交った。
人との接触は苦手だ、と再度痛感させられた。
殊に彼の指先が頭皮に触れ、髪の先を引っ張るときなどは平然とした様子を保つのに苦労した。腰の辺りがぞわぞわするのだ。
揺らめかしてしまいそうなほどに。
息をつけばそれはきっと熱いに違いない。関口は息を詰めていた。
「ほら出来上がり」
耳の後ろに声が掛り、肩が僅かに持ち上がった。
「もう酒臭くも無いし、ほわほわだ」
鼻先を髪の中へ埋められた。
……もしかしてあれは本当に関口を猿か何かかと思っていたのだろうか。まして関口はどうみても男なのだ。
けれど、それも────
「あの封筒の為だった」
声が酷くざらついて聞こえた。



 分厚い窓罹を開ける。
硝子が僅かに雲って、外界が酷い寒気にあることを知らされた。
「雪でももよいそうだな」
天上が低い。曇天が覆っているのだ。蓋をするように。まるで虫籠の中だ。関口は窓罹を閉めた。
 浴室に行く。
薄紅色の大理石に湯を貯める。アメニティを見れば、風呂用の分包が見えた。塩と書かれている。何故塩を態々投入するのか解らないままいれると微かに花の香りがした。
男が入る湯にこれはどうしたものだろうと思ったが、最後にシャワーブースで匂いを落としきればいいだろうとごぼごぼと沫を上げ嵩を益す湯を凝乎っと見た。
目が重苦しい。咽喉が少し痛い。
それでも、今日が過ぎればもう此処に居る必要も無いのだ。
鳥口に言い訳も立つ。
早く帰りたい。
もう、此処には居たくない。
最初から解っていたのだ。人が離れて行くことなど。
「何処かで…期待していたんだな、僕は」
莫迦だな、と呟く頃さえ湯の音に掻き消える。
もう、いいだろう。
「帰ろう」
関口は襯衣の釦を外し始めた。



 結婚式に恋人が花嫁を奪いに行くような映画があったような気がする。しかもその後の交通手段はバスだった筈だ。その後の彼らの行く末はきっと幸福ではないだろう、と冷めて考えていたが、今ほどそれが羨ましいと感じたことも無かった。
横では将来妻と成る人が目を瞠って、そして微笑んだ。頬が薔薇色で幸福そうだった。
「良かったですね、」
そう囁かれて、酷く泣きたくなった。中禅寺の友人が駆けつけてくれたことを彼女は本当に喜んでいてくれている。
自分の頬に手を当てた。
関口からは花の香りがした。黄昏の色合いに似た香りはラヴェンダー。此の宿の浴室に置かれているアメニティだ。駆けつけたんじゃない。彼は、関口は前以て此処に泊まり、そして諦めたんだ。
「僕を、」
ぽつりと呟く声は壽ぎの四重奏カルテットに掻き消えた。
下界の名門楽団から喚んだ四重奏はまるで通夜のようだった。



 雪でも降るだろうか。眼前が白い煙幕が張られ、薄れてゆくのを繰り返している。水の音が聞こえる。未だ凍っては居ないようだ。凍れば砕氷船とかが出るのだろうか。それとも、あの湖の沖に見える嶋は孤立してしまうのだろうか。点々と燈のようなものが見える。今の時分ではよく解らないが、あれは部屋部屋の燈だろう。あの嶋にも誰かの営みがあるのだ。
けれども、此岸には人の気配はない。宿の夕餉を抜け出せば、人っ子一人出会わない。此処は矢張り夏の街なのだ。ならば何故こんな寂しい時期に婚約お披露目をするのか、と考えてすぐに思い至る。他の時期では忙しいのだ。
「寒、」
関口は両方の上腕を摩り上げた。
外套を着る気にさえならない。足元に置いた旅行鞄の上に好い加減に畳んである。
ネクタイが苦しい。緩めることが出来ないのは偏に寒いからだ。
濃灰の三つ揃え。裾の長い上衣と細い縦じまのベストが救いだった。此の背広だとて関口の持ち物ではなく、何処からか鳥口が調達してきたものである。胸には薄紅色のスカーフも刺されている。寒くなったらネクタイの上から頸にすればいいだろう。
鳥口青年の好意に感謝しなくてはならない。
有難うと。
だのに、恨めしいと云う気持ちの方が勝っているなんて、己の狭量さに尚も気持ちは沈んだ。
 関口の眼前には馬蹄形が三つ連なった柱があり、その先には小さな桟橋があった。今は鎖で塞がれている此処は遊覧船の発着港である。
関口のすわるベンチの傍らに遊覧船が巡るコースとその時刻表がある。
今は無用の長物と成り果てている。
「いつまで待っても、船は出ないよ」
背後から声が聞こえた。
膝に肘を置き顎を着いていたのだが、顎が僅かに浮いた。
聞き覚えの有る声だった。
能く憶えている。散々物忘れが激しいとか揶揄されたが、此れ程近い時間内の人間の声を忘れることは無かったようだ。
忘れられればいいのに。
健忘症はこんな必要なときに役に立たない。
……何の感慨も無い。
関口はゆっくりと頸だけを回した。
榎木津の白磁の膚は尚白く透き通って見えた。鼻の頭が僅かに紅い。酔狂にも此の寒空の中長時間戸外にいたのだろうか。
「もうあの封筒は持ってませんよ」
そう告げると、榎木津は変な顔をした。
似合わない、と関口は思った。彼にはもっと快活な笑顔が似合うような気がするのだ。
その嫋やかな西洋磁器人形のような美貌に反して。
「関くん、」
名を呼ばれても心は波立たなかった。
昨夜何故あれほど泣いたのか、それすらもう解らない。
否、そうではなく────
「自分が今までどれだけの人を傷付けたか憶えてますか?」
答えはなかった。
不図榎木津を責めていると取られる可能性のある言葉だったと思い至り、「違いますよ」とだけ云った。
「あんな顔をする価値なんて僕にはないのに。彼奴が離れていって傷付いたのは僕だった筈なんです。だから鳥口くんの甘言にも乗ったし、霧で足止めされても此処にきた。あの人たちの前で泣いてやりたかった。色んなことをぶつけてやりたかった。そんな気が、今は、する」
だのに─────
「あんなに傷付いた顔をするなんて、」
酷いじゃないか。
否、否、否。そうじゃない解っているのだ。
彼があんな顔をしたのは、今更『追った』からだ。
波の無い湖に、水の揺蕩う音がする。
「夏に来たかったな」
「何故だい?」
「船に乗れたでしょう?」
あの沖嶋が何であるのか解らないが、彼処へ行くことも出来たかもしれない。
「行きたい?」
「え、」
「じゃあ行こうか、」
榎木津は関口の旅行鞄を持ち上げて、外套を関口の頭から被せた。
「寒そうだから着ているんだね」
そして気付いたように榎木津はもう一度関口を眺め廻した。
「棄てちゃいました。安心毛布はいらないんです」
榎木津は関口を引き寄せると、その脣を啄んだ。




書いていて他に文章が出てこなかったので其儘採用してしまいましたが、ボニーピンクの歌詞が一文入ってます。 関くんは怖がりです。



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