bisous_08


 闘技場の下部の馬蹄形アーチには出入り口として使用しているものの他は、殆ど柵が張り巡らされていた。関口は基壇の端に腰掛け、馬蹄形へ背を凭れさせていた。
薄い靄…否、霧が眼前を覆っている。その向うにぼんやりと街燈のが浮かんで見えた。
寒い。
そういえば頭が痛いような気もする。数時間前に宿で薬を貰ったのだが、何処にやったのだろう。捜す気にもならなかった。今頃頭が痛かったことを思い出すのだから、それほど心配するものでもないだろう。寝てしまえばすっきりしている類のものだ。決定的に身体的なことではないのだ。…もっと云えば、それは心因的なのだろう。
心当たりなど今更捜すべくもない。
此の儘、一晩過してもいい。あの宿に戻りたくなかった。慥かに此処は寒い。けれどもあの宿で暖まりたく無い。薄給の身で高い料金払っているのに、それでも…だ。
闘牛は一時間ほど前に終わったが、周囲には未だ帰らない人々がいて、立呑屋まで屋台を引き出してきている。 夏に避暑として賑わう此の街は冬の娯楽に餓えているのかも知れない。関口のすぐ右隣にもヴィノを手にした男が座っている。
寒い、と小さく呟くと煙幕が眼前を覆った。
あの立呑屋から一杯の酒でも貰えば温かくもなるのだろうが、如何せんアルコールには弱いのだ。迂闊に寒いからと口にすれば酷いことになるのは身を以て知ってしまった。起きて見知らぬ男と同衾など…二度は味わいたく無い。それこそ頭が痛くなるような出来事だ。 頭を一振りする。

先刻から、気を緩めるとあの光景が、押し迫ってくる。
白くて柔らかそうな手だった。
その白い手を、まるで骸と見紛う手が包んでいた。関口が泣く程嫌がるのを宥め、漸うと絡め取とったあの骸の手は、今は関口ではなく、他の人に齎されている。
何故それほど性質の違う手を取れるのか。
関口の手は骨と皮ばかりで、柔らかくも、白くも無い。
あの白い手は関口とまるで違うではないか。
白くて柔らかい『女性』の手だ。
眩暈がする─────。
足元が柔らかい。
先刻から何度も気を紛らわせようとするのに、失敗ばかりしている。今こそ酒精に身を任せるべきなのもしれない。
脣を噛む。
臀部に根が生えたように動かない。動けない。
跫が宿に戻りたがっていない。
未だ人の居る此処に居たがっている。

─────果たしてそれだけか。

否、解っている。
たった二日を一緒に過しただけだのに、何故こうして彼の存在に縋ろうとしているのか。
「まさか闘牛士だとは思わなかったけれど、」
少し不思議だ、と関口は彼のことを考えることにした。
 もし仮に、関口が興行主で闘牛士を呼ぶのなら、闘牛の本場からにするだろう。
少なくとも彼は関口と同じ飛行機に乗ってきた。闘牛本国の訛りも無い。それどころか、雄牛を相手にするような気配が無いのだ。彼の掌は柔らかくて、牛を贖うような労働を知るそれではなかったのだ。
左手の拇指の腹を下唇に宛がう。
彼の薄い其処は酷く魅惑的だった。
花に落とされた口付けに見蕩れた。あの花が蕩けてしまわないことが不可思議だったほどだ。
不意に記憶の像が焼かれる。
思わず目を深く瞑ると、真暗な瞼の裏に火の粉が舞う様が見えた。
飛蚊症のように。
否、それは紅く、蝶のように舞い、猛々しく盛る、胸を妬く焔。
歓声が谺している。 擂鉢の中で歓声は増幅して厭わしいまでに大きく、だのに双つの手が結ばれて行く瞬間だけ、とても、とても静かだった。
目を閉じる度に繰り返される情景。
好い加減にして欲しい。
否─────違う。そうではない。あの光景を思い出したくない、見たくなかったのは勿論だ。それ以上にあの手を引き剥がしてしまいたかった。
人前で手を繋いだことなど一度としてなかった。
触れ合うことが苦手だったこともある。
手を握り合うことなど人前に情事を曝すようなものだった。だがそれ以上に─────互いに同性だったのだ。
そうだ。
何故、何故、他の手を取ったのか。
幾多の障害が互いの間にはあった。
それを一足飛びに乗り越えて来たのは彼の筈だった。
人から好意を受けることがあるなんて信じられなかった。友愛にさえ馴れるのに時間を要したのだ。
だのに一言の別れも告げず。
他の手を取るのなら、何故跫を踏み出したのか。あの侭友人でいられることも出来たのに。
男同士であることも、抱き合うことも、手を繋ぐことも、凡てはこれから始まるのだと、少しずつ中禅寺との間が埋まるのだと思っていたのだ。
凡てはこれからなのだ、と。



 「関くん、」
声が降り注いだ。聞き覚えの有る声だ。中禅寺のものではない。関口は中禅寺の姿を見失っていた。
関口は緩々と頸を仰いだ。
夜であると云うのに緩慢に瞼を持ち上げると光があった。光など、昼間では有るまし。夜も更けて、こんなに寒いではないか。
「どうした、大洪水だな」
「だい…こうずい?」
関口の背から躰をほぼ直角に折り曲げて、逆様に覗き込む人がいた。見覚えの有る暗色の外套の袖。柔らかな鳶色の頭髪。秀麗な相貌に関口は再び見蕩れた。あの黒い衣装は脱いでいる。
「自分の涙で入水とは君も存外器用だ、」
「涙…?」
関口は慌てて右手を目に当てた。しとどに濡れている。慌てて顔を俯けて瞬きをすると、大粒のそれが牡丹雪のように零れ落ちて、関口の外套の腿を濡らした。
「大丈夫かい?」
「…榎木津さん…」
榎木津が其処に居た。もう仕事を終えて帰ったのではなかったのか。
「会ったんだな?チュウゼンジと、」
「チュ…ゼンジ?」ああそうだ、中禅寺を見たのだ。中禅寺とその妻となる人を。
関口はゆっくりと、諾べいた。
「いちゃいちゃ?」
そう─────彼らは酷く親しそうにしていた。あの大観衆の中で手を繋ぐ光景を見ていた。
けれど此の男と中禅寺の話をしたいのではない。
「榎木津さんのバカ、」
「誰がうましかだ、」
僕が戦ったのは牛であったし、四足動物の大乱闘に参加した憶えは無い。
「こ……怖かった…」
声が震えた。
「怖い?」
訝しげに榎木津は訊いた。
「……ィ…死ぬんじゃないのかと、」
声が震えているのを関口は自覚した。
「あなたが」
俯いた関口の頬に手が宛がわれた。そしてそっと持ち上げられる。
関口の前に回り込み膝を着いた榎木津が笑んでいる。
「榎木津さん、闘牛士だったんだね」
こんなに掌が柔らかいのに。 「…ちょっと違うかな、」
「え?」
「怖がらせて、悪かった」
「本当だよ。あんな…」
「主催者と知り合いでね、やらされたんだ」
関口は目を見開いて、幾度か瞬きをした。闘牛士ではないというのか。あんな怖いことを堂々とやり遂げながら。
「全くあの莫迦兄が」
「え?」
「何でもないよ。上手くいって良かった」
細い剣を握っていた手が関口の髪を混ぜ、その頭部を両手で包み込んだ。寒かったのに、何故か息が上がる。お互いの額がほんの少し触れた。焦点が合わず互いが明瞭でないほど傍に居る。
鼻が触れ合って冷たかった。
胸が跳ねた。
不図右隣に居た男が腰を上げのに気がついた。
こんな光景に付き合って切られなくなったのかもしれない。
況して男同士だ。
「関くん、」
榎木津の吐息が脣に触れた。
それほど、傍に居る。
「君の鞄は?」
「え、」
どちらとも無く離れ、関口は自分の右横を見た。其処に置いていた筈の鞄が─────
「無い…!」
慥かに持ってきた。鞄から財布を出してタクシーに料金を払ったのだから。
周囲を見渡してみればもう人出は疎らになっていた。立呑屋も店終いを始めている。
「不味い、」
榎木津が声を上げた。
何が不味いのか、解らない。盗まれたのは関口の鞄だ。不味いのは榎木津ではなく、関口の筈だのに。
立ち上がると周囲をぐるりと見回して、榎木津は円形闘技場の基壇を飛び降り突然駆け出した。関口も釣られて立ち上がる。基壇の上からは彼の姿を目で追いかけられた。
榎木津は飛び上がると左足と男の背に突き出した。前のめりに男が転がりすかさず男の外套の襟を掴む取った。
「隣に座っていた人、」
関口は呟いた。先刻榎木津と密着したときに腰を上げた男である。あの時さり気無く、関口の鞄を取り上げたのだ。自分の迂闊さに関口は叫びだしたくなった。目の前に榎木津がいて、他が見えなくなっていたのだ。
そして盗人と榎木津の傍に関口も駆けていった。
警察がやってきていた。男を取り押さえている。男の頬は真赤になっていて、榎木津が殴ったのだと直ぐに知れた。
榎木津は躊躇うこともなく、鞄を開けた。
相変わらず鞄は大した内容物も無い。財布と旅券と幾つかの日用品と数枚の手書きメモだ。
それらに目もくれず、榎木津は鞄の中のスリットに指を差し入れた。
小さな封筒が取り出された。
そして安堵したように、小さな吐息を漏らした。
「榎さん?」
僅かに出来た人波の影から榎木津の前へ関口が現れた。呼吸が速く、白い煙幕を吐き出しながら。
顔が強張っていた。
見覚えのある封筒だった。小さく膨らんでいる。
飛行機で隣り合って座ったときに榎木津はそれを持っていた。其処から五cmほどの透明な筒を取り出したのだ。
「どういう…こと?」
声が嗄れている。
飛行機の中で榎木津は関口の脣に左手の人差し指を当てて、黙らせた。人目を避けるように。それは何だ、と問うた時、榎木津はなんと云っただろう。
「輸入禁止の保護物件、」
記憶に有る榎木津の言葉を関口は範唱した。
何故─────。
何故榎木津がこうも関口に付き纏うのか。
何故それを考えなかったのか。
足元に体中の血が落下して行くようだった。
「榎さん…、」
「………」
榎木津は少し吐息を漏らした。長い前髪を掻き上げた。
封筒の中から硝子の筒を取り出して見せた。緑色の植物が芽が乾涸び掛っている。鞄の中で水も与えられずいたのだ。
「君に持っていて貰っていた。僕は出発前に空港でやらかしてしまって、職員に目を付けられていたから」
余りに唐突で植物を国外に持ち出す許可が下りなかった。目を付けられるわけにはいかなかったのだ。だから飛行機の中で寝ている関口に少しの間持っていて貰うことにした。
内緒で。
─────だから榎木津は着いて回ったのだ。
駅でチケットを現金に換えるのも、潤の屋敷に二人で転がり込んだのも。抱き締めて眠ったのでさえ、寝ている間に関口が何処かに行ってしまっては元も子も無いのだ。
濃霧の中で一時間以上捜してくれたのだって。
あの関口を商売だと思い込んだ男から救ってくれたのだって─────。
「関くん?」
榎木津の手が伸びてその指の背で頬に触れようとした。
関口は顔を逸らしてそれを避けた。榎木津の腕が落ちる。
「………鞄を、」
目を閉じて、また開く。
「鞄を…返して、下さい」
ジョルダー部を持ち上げて差し出される鞄を関口は奪い取った。
「鞄、有難うございます。もう…戻りますから」
もしその植物を持っていることが見付かれば、関口が捕まったかもしれないのだ。
関口は身を翻した。
あれ程戻る気がしなかったホテルへ今は帰りたくて仕方なかった。
円形闘技場の前には未だ二台のタクシーがあって関口はそれに乗り込んだ。振り返ることもしなかったが、榎木津が着いてくる様子は無かった。
……もう榎木津が関口を追う必要は無くなったと云うことだ。
「……発進してください。お願いします」
行き先を告げると、タクシーは発進した。
関口は助手席のサイドミラーに車を見送る背の高い男の姿が映っていることに気付くことは無かった。



 外界と車中の温度差に窓硝子が曇っている。
黒い革のシートに身を沈めた。闘技場を離れればあの擂鉢の中が信じられないように静かに眠っている街だった。黒い夜に街燈がぽつりぽつりと浮かび上がっているばかりだ。
何を─────。
関口の脣が持ち上がる。
何を、此れ程、落胆しているのだろう。
曇る窓硝子を見れば、顔の神経を引き攣らせた酷く貧相な男がいた。
榎木津に落胆などする謂れは何一つとしてないのに。あれ程の美貌が何の意味も無く関口に近付く訳もないのだ。

 人の─────無償の、無利益な、純粋な好意など存在しないのだ─────。






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