bisous_07


 離れていった人を取り戻せる程の魅力は無い。そんなことは嫌になる程充分自覚していた。容姿は十人並みにも届か無い。初対面の人間にサルだと言わしめるまでだ。……情事だって決して上手い訳ではなかった。
そんなに回数を重ねた訳ではないが。
解っていながら、何故此処にいるのか。
ただ、彼を────
自分に何も告げず行ってしまった人だのに────
何故か、諦められないのだ。
そんな自分が嫌になる。

 外界を冬の眩い日差しが満たしていた。部屋に籠もってばかりでは埒が明かないのでエントランスで関口は運ばれてきた珈琲の湯気に当たっていた。
昨夕七時から始まった夕餉にも今朝の食事にも支配人の家族と思しき人はいなかった。支配人の屋敷は此処に附随しているわけではないらしい。明日の夕飯まで待たなくてはならないのだろうか。彼らのお披露目を人前で打ち壊せと云う思し召しなのか。出来ることならば穏便に中禅寺と会いたいのに。会って想いを告げたい。そして────
それ以上の想像が尽かない。
何故だろう。
最早、彼が己に手を伸べる想像すら出来ない。
だけれど、彼らの婚約を祝うことも出来ないのだ。
兎も角中禅寺と会いたい。会って話したい。中禅寺と会えばきっと何処かへの打開が有る。此の鈍色をした苦い大海を漂う日々から何処かへかは行き着ける筈だ。
「…っ…」
軽く頭が痛い。
薬が欲しい。
今朝起きた時から憂鬱な頭痛が始まっていた。
関口は段々馨しい珈琲を嗅ぐことさえ嫌わしくなってきて、部屋に戻ることにした。
立ち上がり噴水を巡って柱の間にあるフロントの卓子へ近付いた。アスピリンを貰うためだ。
フロントには昨日とはの初老の男性とは違い関口とほぼ同年代の男性が居た。関口の求めににこやかに応じ暫し待つようにと云った。フロントの周りは外界が冬であることを忘れさせるように南国の蔓を伸ばす植栽が置かれていた。
それは少し潤の家を思わせる。
不図あの長い階段を人が下ってくる物音が聞こえた。此の宿は冬場にも関わらずそれなりの入りがあるようなのだ。関口にはそんな物音も不快で早く部屋に戻りたかった。早く薬が来ないだろうか。
そう思いながら背後に目線だけを遣った。
「あ、」
たった一声発するだけなのに、声が掠れていた。
並んで歩む男女の姿があった。
男の顔は見えない。
見えないが、それが誰なのか解らぬ関口ではなかった。
何年一緒に居たと思うのだ。
そう、暗色の外套に身を包んだその痩せぎすな姿は紛れもない、中禅寺秋彦のものだった。
一瞬足が竦んだ。
女性が此方を見たような気がした。美しい女性だった。
「お待たせ致しました、」
背後から声が掛けられる。
「関口さま?」
男女は当然関口に気付くことも無く、次第次第遠どんどんざかり、ドアマンに寄って優雅に開かれた扉を出て行った。
「どうぞお大事に」
薄様にアスピリンが包まれていた。
「あの、すみませんが先刻の女性は…?」
関口はもう彼らの姿の無い入り口を指差した。
「当ホテルの支配人のお嬢様です。隣にいらっしゃいましたのが婚約者の方です。昨日案内の者から聞かれたと思いますが、明日食堂で」
「何処へ行ったんでしょう?」
フロントの男の言葉を遮って訊ねた。 「ああ、それは恐らく此方でしょう」
一枚の紙が差し出された。見覚えのあるものだった。昨日、此処に到着したとき老紳士が関口の足許に落としてしまったものである。
「闘牛?」
「ええ。珍しいでしょう。宿泊のお客様もお出かけになる方が結構いらっしゃいますよ」
「あの、此の円形闘技場って何処に在るんですか?」
急いで部屋に戻り外套を羽織り鞄を持った。鞄の中は財布の出し入れにしか使っていないので、殆ど中を確認もしなかった。ファザード前の階段を駆け下りると車が横付けされていて其処に乗り込んで行く男女二人の姿を認めた。
幸運にもすぐにタクシィが訪れ、関口は円形闘技場までの走行を頼んだ。
 陽は翳りだしていた。
フロントから貰ってきた用紙には開始は午後六時だとあった。乗り込んだばかりのタクシィ内の時計は既に六時示していた。
 料金を払い降り立った其処には馬蹄形を上下二層に重ねた石造りの壁は半分崩れ落ち、押し迫る夕闇に偉容を浮かび上がらせていた。人が未だ未だ集まってきているが、内部からは歓声が上がっている。既に始まっていることは明白だった。もう彼らは入って行ってしまっただろうか。
入り口には腹の丸い打鳥帽子を被った男が切符を千切っていた。二人の男女が円形闘技場が載る基壇の階段を上がって、古代遺跡の中へ入って行くのを確認した。────彼らだ。ついている。未だ彼らを見失ってはいない。
だが後を追おうにも関口には切符が無かった。
切符売り場を見遣ったが既に鎖がされている。もう今日の分は終わってしまったらしい。そんなに此の土地に人が居たのだろうか。関口は頭を掻き雑ぜた。この儘では見失ってしまうのに。
「失礼。切符を捜していますか?」
声を掛けられて関口は顔を上げた。
其処に居たのは昨日ホテルであった老紳士だった。
「生憎、連れ合いが熱を出しましてね、一人でも行けばいいと勧められたんですがどうにも容態が気になってしまって」
貴方にどうぞ、と差し出された。
「宜しいのですか?あ、ありがとうございます。あのお金は…」
「否否、そんなもの。貴方に楽しんで頂ければ、」
「でも」
「どうぞ」
差し出される濃桃の長方形をした切符を差し出される。
「ありがとうございます」
頭を下げると、老紳士は被っていた帽子を少し上げて莞爾と笑んでタクシィ乗り場へ足を向けた。
関口は薄紅色のチケットをもぎりの男に差出し、古代遺跡でもある円形闘技場へ足を踏み入れた。厚い壁だと思っていた馬蹄形には空間があり回廊を形成していた。洞門のような入り口を入るとその左右両側には回廊が伸びていて、それを確認するように一瞥するも関口の気は此の古代遺跡に感慨を持つよりも歓声のする方へ急いていた。
此の土地一体の人が詰め掛けたのではないのかと思う程の人の出が其処にはあった。
擂鉢状の会場を上階まで埋める人の群れ。異国情緒のある音楽が流れていた。歓声が上げると共に白煙が見える。吐く息が白いのだ。
黄色に銀色の刺繍を着けた男が黒い雄牛に鮮やかな桃色のムレタを振るっている処だった。
関口はそれを横目で見ただけで、目的の人影を探した。
通路に立って四方に頸を廻らす。熱気が其処を支配している。眉が寄る。闘牛なんて野蛮なものを何故皆は見物しようと思うのか。「悪趣味だ、」と呟くほどに関口には俄かに理解できなかった。背後から「邪魔だ」との声が掛り、兎も角足を進めた。
いつまでもうろうろしている訳にも行かず、空いている一席に関口は身を沈ませた。
「颯々と腰を落ち着けろよ」とは中禅寺によく言われた文句である。
闘牛士が丁度帽子を主催者に捧げているところだった。
既に真黒な雄牛には幾つもの傷がある。
「アッレェ」
と物慣れた人々から声が上がった。
歓声だ。
闘牛士は躰の線が露わな衣装を身に着けている。黒色地の丈の短い上衣に、濃灰の縦縞の入った胴衣、襯衣は白く細い黒いネクタイを締めていた。腰の位置が高い下衣は、闘牛士の腰周りの細さとその脚の美しさを強調して止まない。
従来に見る闘牛士の美々しい装飾過多のものとは違う。
その装いで階級を示すものだと聞いたことがあるのだが、眼前で典雅に牛を相手取る闘牛士は一体『どの辺り』なのだろう。
突進して来る雄牛に赤いムレタを翻した。牛の動きが止まる。その鼻先が闘牛士の反らした胸先に宛がわれる。互いの距離を闘牛士も牛も図っているようだった、闘牛士の手には細い剣があり、また雄牛には先端の鋭い角がある。
叫びそうになる。
思わず眼を背けた。
「野蛮だっ」
小さく呟く。
あの鼻に転がされて、あの太い角に刺されるかもしれないのに。人と猛る牛を闘わせるなど一体いつの時代だと云うなのだ。
赤いムレタを持つ男の細い腰では牛には力負けしてしまうのがいいとこだ。しかしあんな華奢な体形で能く牛に向かうものだ。 淡い頭髪が後頭部で一括りにされていた。周りの者が黒い頭髪の中、彼の髪色は目立つ。

「あ────」

思わず息を呑んだ。
見覚えのある姿だった。ともすると嫋やかにさえみえる美貌。その口には整えられた髭が見える。色素の薄い、躍動する西洋磁器人形。男の目線が闘技場を巡った。まるで観客一人一人をその眼中に収めようとするかのような。虜にしようとでもするかのような。
彼ならば夢中にならない、彼の眼中に在りたいと思う人間に事欠かないだろう。
彼の、その鳶色は時には琥珀色にさえ見える筈だ。
目線が関口の座る席の辺りに注がれる。
これだけの人間がいるのだ。
気付くことは無いだろう。
関口は自分が目立つ人間でないことを自覚している。
軽んじられて生きていることも。中禅寺のことが無くとも充分に知っているのだ。
だのに────関口と目が合った。
「え、」
瞠目した。
闘牛士は関口へ向けて、片目を素早く閉じた。その口元は不適に笑っている。
歓声が沸く。
半円形の其処で歓声や打ち鳴らされる手は反響しあって増幅して冬の夜の寒さの中で一層熱を孕む。熱狂と言ってもいいのかもしれない。
そんな観客の興奮に曝され、寒さの中で動き回っていた牛からは全身から湯気が昇っている。
そしてその不適に笑う脣からも、漏れ出る吐息は白い。離れている此処からでも知覚できる。
だが────こんなに離れていて、大勢の観客の中から関口など判別出来ないだろう。
そう、闘牛士は駅で別れた男だった。
寄せられる彼の脣からも薄らと白い呼吸がされていた。
あの不適に笑う脣がしたのだ。
そう、牛と対峙して見える闘牛士は、口付けをして関口の幸運を祈ってくれた男。
榎木津礼二郎だった。
「幸運を、」
囁きが黄泉還るようだった。
けれどもすぐに更に湧き上がった歓声に掻き消されてしまう。
剣を構えたのだ。
真紅のムレタを牛の眼前に掲げた。
「落ち着いてっ」
関口は祈るように手を合わせて、囁いた。
脣を噛む。
指の関節が白かった。
闘牛士が動揺したり、少しでも怖がれば、牛も機敏に相対する男のそれを察知し闘牛士へ暴れかかるだろう。興奮を隠しもせずに牛が後肢を蹴っている。歓声が上がる。僅かに粉塵が沸き、牛は興奮に後押しされるように鋭い角を掲げて榎木津へ突進した。
悲鳴とも尽かない、歓声。
何故歓声など上げるのか。何故牛と戦わなくてはならないのか。
根源的なそれが関口の中を席巻する。
なんて、なんて野蛮なんだろう。
関口は思わず両手を合わせて強く握った。
震えている。
どくりと耳の後ろで血の巡りを示す脈が大きく鳴った。
眩暈がする。
怖い。
見たくない。
逃げて欲しい。
牛の白くて太い立派な雄角がその鋭い切っ先を榎木津の腹に突き刺さるかも知れないのに、何故皆は歓声を上げているのか。
逃げて欲しい。

怖い。
けれど目を反らすことが出来ない。
心臓がただのポンプのように漕がれている。
どくどくと音が聞こえる。
ムレタが振られる。
そして、
掲げた剣を彼は牛の頸へ────
「ェノ…さんっ」
小さな悲鳴のように脣は闘牛士を呼んだ。
やめて欲しい。
榎木津が傷付くのを見たくないのに。
関口は眼を瞑りたかった。
けれど、瞼の開閉と言う機能を失してしまったのだ。

どう、と牛が倒れた。

その時、音が、否、悲鳴と歓声が上がった。
皆立ち上がって白い手巾を振りはじめた。そういうものなのだろうか。
心臓が別の生き物のように音を上げていた。脈と言う脈が唸っている。
冬だと云うのに額に汗が滲んでいてそれを拭いたくて、合わせた両手を引き剥がそうとして自分が酷く震えていることに気が付いた。
握り締めていた手指の関節が白い。
呼吸が浅くて速い。
関口は顔を覆った。
全く、なんて怖がりなのか。
視界を両手で覆うと、脈の音しか聞こえない。
「はは…」 笑おうとしたが、歯の根が音を上げるだけだ。
唾液を飲み込んで、関口は額を拭いながら手を外した。
花を投げ込んでいる人たちが居た。
それを榎木津は拾い上げて花にを口元に持って行く。
彼のそれは丹花の唇だ。
花に花を添う。
ゆっくりと口付けを落とした。
関口はそっと自分の脣へ触れた。
あの時、もう少しで榎木津の脣は己の脣に触れたのだ。もう少し榎木津の目測が反れていれば。
関口は脣を小さく舌を出して舐めた。
何を考えているのだろう。
慌てて、目を伏せた。
榎木津へ向かう意識を遮断しようと目線を周囲へ巡らせた。
未だ脈が鳴っている。
「あ、」
人波の向うに中禅寺秋彦と彼に寄り添い手を取り合う女性を見つけた。

 既に陽は暮れ、夜の帳が落ちていた。









榎さんの恰好は数年前のラルフのコレクション?写真から。女性のです。
(今ちょっとその写真が何処に有るのかわからないけど)
一見闘牛士の服装みたいだけど良く見ると全然違う…。




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