bisous_05


 霧の中の彷徨は奇妙な信頼感を得るには充分だった。
榎木津礼二郎と言う男がいればきっと中禅寺の横に許嫁がいることにも耐えられるような気がした。一人で中禅寺の許に行き、彼の横に女性がいて、打ちのめされ何も云えなくなるだろうことは想像に難く無い。そんな時も中禅寺の崩れもしないだろうあの表情にも。きっと。
そう、中禅寺はいつも少し怒ったような仏頂面だ。笑いもするがその表情は殆ど変えたことが無い。驚異的なまでに。
随分慣れた心算だった。
あの表情の中から微かな感情を見出すことさえも出来るようになっていた。
なのに、矢張り行ってしまったのだ。
自分から離れて。
矢張り────皆、自分から離れて行くのだ。


 硬貨投入式の据置電話の仕切り壁左右に背と跫を預け、榎木津は受話器の向うへ対し悪態をついていた。それもその筈で予定とまるで違うのだから頭に来る。
「霧で此方が行けなかったことはそっちも了承済みだろう?」
言い募る声に鷹揚な頷きが返って来る。
「ああ早く帰りたい」
むすりとした不満そうな顔は幾ら経っても変ることは無い。
「そうだね。私も屋敷から君が到着していないと言う連絡を受けては居たんだ。全く、何処をほっつき歩いていたのか」
苦笑が聞こえる。いつだって此の受話器の向うの人物には子ども扱いをされる。
反抗心がむくむくと育つ。全く自分は幾つの子供なのだと感じはするのだが、そんなものは風の前の塵に等しい。
「いいだろう?別にそんなのは。僕は子供じゃないんだ」
「そうだ。此れは仕事の依頼だと云っただろう?君を大人と扱っている心算だよ」
口調は何処までも丁寧だ。
「早く帰りたいのなら、私の云うことを利くのが一番早いと思うよ。もしくは屋敷に持っていってくれてもいい」
「厭だよ、あの屋敷には行きたくない。此処に来たのだって『どうしても』ってあんたが強要したんだろう」
「強要だなんて人聞きの悪いな。まあ君が此の何日か何処に居たのかは聞かないで上げるよ。不問にする。だから屋敷に行きなさい」
理解の悪い生徒に噛んで含めるような口調に受話器を少し耳から放した。幾度目かの溜息を吐いた。
駅舎の遠くに関口見えた。彼は猫背の所為でより小柄に見える。あの鼻を抓みたいと思うと何だか疼々とする。既に別れは告げていた。励ましと別れの言葉を告げた時の関口には安堵したように見えた。
何故か焼けるように臓腑が痛んだ。 北部鉄道のアナウンスが流れる。
そしてまた溜息を吐いた。
ああああ、解った、解ったよ。彼方そっちに行くよ」
乱暴に投げるように受話器を元に戻すと、改札に向って歩み出した。列車の傍には既に関口の姿は見えない。発車までもう間もない。


 山並みを埋めていた霧が晴れて行く。
緑の無い黒々とした山並み。未だ麓までには下りてきていないが頂付近には雪も見える。その山肌の下方、眼下に見える湖は鈍色をしていた。夏に此処を訪れた時とはまるで景色が違う。寒々しくて寂しそうで痛々しい。
不図腕の肘辺りを掴まれた。
華奢な肩にその上で揺れる断髪の黒髪。柔らかな、美しい人だ。
いつもは慎ましやかな衣料に身を包んでいるのだが、今は細い腕が剥き出しのドレスだ。
窓を閉め切った温かな室内とは言え、寒くは無いのかと問う前に彼女の口が動いた。
「人を呼ばなくて良かったのですか?」
もうすぐ妻になるひとは訊いた。
親族以外招かなかった。
家族の縁に乏しい身にはその親族さえ少ない。だからこそ彼女は人…つまり友人を招かなくて良かったのかと聞いたのだろう。
良いのです、と応えると少し戸惑ったような表情を見せたがすぐに莞爾と笑った。
百合が飾られた彼女の傍には親しい友人が二人立っていた。此の場に誰を呼べと云うのだろうか。友人。親友だろうか。親友とは即ち彼のことを云うのだ。彼は親友と恋人を兼ねていた。つまりは他に換わりが無いほどの…。
彼女に問われるまでも無く、会いたいのは己自身だ。
顔が見たい。
声が聞きたい。
「中禅寺、」
ぞわりと背から耳の後ろまでが粟立つ。思わず眼を泳がせる。此処に彼を招いたことは無い。此処のことも彼女のことも、妹のことも彼に話しをしたことも無い。何も告げずに来た。
呼ばれる訳が無い。
此処に彼が来るわけはないのだ。
「寂しい場所、とお思いでした?」
「春と夏にしか来たことがありませんでしたから」
「今は眠りの時期なのです。春が美しいのは厳しい冬があるからでしょう?」
千鶴子は花のように笑った。
「私達も見えないところを知って行くのでしょうね」
中禅寺は少しだけ眼を瞠り、そしてゆっくりと笑んだ。永らく強張っていた顔は笑む動作が錆び付いて、酷くぎこちなかったと思う。
「そうですね」
千鶴子を倖せにしたいと、焦がれるように思った。



 コンパートメントは三号車の後方だった。日頃利用客は少ないらしいのだが、霧で二日ほど遅延した為、コンパートメントはほぼ満席状態であるらしい。改札を通る時に駅員が朗らかに云っていた。
息を吐く。
このコンパートメントは貸切で相席は無い。定員六名の座席を独り占めだ。誰とも顔を合わせないことはこんなに安堵できる。ずっと調子を狂わされ通しだったから。両壁につく三席の肘置きを押し上げて関口は跫を伸ばして横になった。日除けを降ろして眼を瞑りその上に腕を置いた。瞼の裏で光が点滅している。眠れなかった所為だろう。
 榎木津は猫目洞の位置を正確に把握していたのか、関口が散々迷ったと云うのに実にものの数分で舗に辿り着いたのだった。
関口とて方向音痴な訳ではない。迷ったのは、ただ視界が利かなかったからだ。
そう言い訳をしたのは舗の女主人である潤に対してだった。
「手なんか繋いじゃって」
そう云って迎え入れてくれた潤は両肩が剥き出しの装いだった。榎木津から慌てて手を離すと、榎木津は俯く関口の顔を覗き込んだ。関口は益々俯いて鞄を両腕で抱き締めた。
舗の中は未だ日が高い所為か客もなかった。カウンターに若い男女がヴィノを前に互いの顔を触れさせようとばかりに議論中だ。
「未だ昼の時分よ。此処が夜営業になるのは九時から。もう少ししたら一旦閉めるわ」
此の国の食事は九時でも早いくらいなのだ。大概の家々では十時を過ぎた頃合いである。
関口は踵を上げて、榎木津の耳許に脣を近づけた。ただ榎木津のその秀麗な顔を見るのと、人に聞かれるのが恥ずかしかった。
「有難う」
本当に小さな声だと関口自身も思った。
礼を言う態度ではないかもしれない。でも、「手なんか繋いじゃって」と言う潤の冷かすような声を思い出すとどうしても小さくならざるを得ない。
 榎木津は、囁いてすぐに背を向けた関口の頭頂後方の旋毛を凝々と見た。
余りに小さな声だったので、吐息交じりの睦言に能く似ていた。耳を甘く擽ったのだ。揶揄っているのかと別の人間ならば、例えば女性とかだ、思いもするのだろうが此の数日付き合ってみて少なくとも関口と言う男が揶揄うような人間じゃないことを解っていた。
なら、あれは本気で恥らっているのか────?
耳朶が薄紅色に染まっている。
榎木津の口角が静かに上がった。
 右腕が取られる。
何をするのだと振り仰ぐと、榎木津の伏せた長い琥珀色の睫毛があった。そして関口の手は彼の脣の前に曝されて、虚空に小さな弾けるような音が上がった。
「な…!」
「あらま、紳士的」
関口の顔に朱が上る。会ってから此の方、榎木津と言う男は関口を混乱の淵へ追い遣るためだけの存在にしか思えない。榎木津は盛大に声を上げて笑った。
手を奪い返し、蹲ろうとする其処を「関口さん」と潤に呼ばれた。
「全く寒かったでしょうに」
そして潤は関口の耳に脣を寄せた。
「いい処の坊なのね」
「え、」
関口の目線より潤の眼は尚低い。彼女の存在感はもっとずっと実物より潤を大きく見せているらしい。
「ちゃんと作法を知っているじゃない?」
「作法?」
「鈍いわねっ。貴方の手に脣は触れなかったでしょう?」
それが作法だと云うのか。
「社交界のね」
ふふと耳許で笑われ、関口をカウンターの跫の長い椅子へ座らせ潤はその向こうへ入った。
「全く関くんは僕の期待を裏切らないな!癖になるよ」
揶揄われている。意地悪だ。霧の中でみせてくれた優しさは幻だったのだろうか。
社交界など関口にとってはまるで絵空事だ。凝々と彼の横顔を見る。選良品ブランドに詳しい訳ではないが、彼が纏っているものは概して彼と同等に上等な品に見える。
「関くん」
潤と話していた横顔が関口に向けられた。古代の優美な彫像が動き出したとしたらきっとこんな感慨だろう。
見蕩れる。
「……はい?」
「猿似の男に熱く見詰められるのはぞっとしない」
どうも注視していたらしい。慌てて顔を左横から正面に移す。その猿に似た男を身動き取れないほど抱き締めて眠っていたのは誰だというか。
「あんたは、人を猿、猿、サル、さるって」
好い加減くどいよと続けようとしたのを遮られた。
「なんで?可愛いだろうに」
何故こんな言葉を返せないことをあっさりと云えるのか関口には理解出来ない。口が痺れて声が出なかった。そんな関口に笑みを一つ向けると榎木津は怪訝そうに頸を傾げた。
「うん…」
意味の無い頷きをして、鼻を擦る。先刻、其処を齧られたことを思い出して、また関口は周章する。紳士なものか。あんな鼻を齧って。
齧られる処か、瞼の上にその丹花の口唇を────。
「あったかいヤツじゃない方が良かったかしら」
潤の声に関口は思考の小径から素早く帰還した。
朝顔のような優美なフォルムをした跫の付いた硝子碗と此の舗には似合わない湯気を上げたマグカップが差し出された。
「…霧は明日にははれるらしいわよ」
カウンタに肘を着き潤は舗の窓の向こうを見ていた。東から夜の攻勢が始まりかける時刻だ。
湯気の上るマグカップは関口の前にある。
「あの…」
先刻榎木津が注文したものは慥か彼の前にあるものを双つと云った筈だ。
「関口さん、お酒苦手でしょう?べろべろだったしね」
だから、とこれはまるで大人に連れて来られた子供の扱いだ。温かなそれはレモネードだった。柑橘の酸いも甘い香りが寒さと周章に持ち上がった儘だった肩をゆっくりと寛がせた。
碗に口を着ける。
酸いに舌が僅かに痺れて、温かさと香りと甘みを知覚した。
その後に漏れたのは嘆息だ。
「美味しい」
「それはアリガト」
隣を見れば榎木津は既に硝子碗を呷り切っていた。情緒も無いと思うのだが、酷く彼の仕草は優雅で何も云えなくなる。眼を反らすしかないだろう。
「あ、」
関口は潤を見た。
「此れお潤さんの家のですか?」
あの食卓を置く温室に慥か黄色い実もあった筈だ。
「そうだよ、時々舗でも出すのさ。酔い覚まし用とかにね」
食事を出された。勿論食堂ではないから出されるものは慎ましやかだが、彼女は自分の口に合うものを選ぶと云っていたように何もかもを旨く頂いた。
彼女が言っていたように舗は二人の食事中に一旦閉められた。潤は「其儘いていいわよ」と告げて外套を羽織り、舗を出て行った。従業員の青年に訊けば「教会ですよ」と応えられた。
彼女が帰った頃食事も終り、二人は舗を後にした。
昨夜と同じ寝台に眠り眼を覚ました。昨夜のように抱き合って眠ったわけではない。交互に浴室を使い互いに髪を乾かしあい、眠った。
「殆ど眠れなかったけど」
そして今こうして眠たくて仕方ない。
眠れなかった理由を先刻からもとめようとしているのだが、どうにも解らなくて困っても居るのだ。
朝には霧も無く、色を薄めた冬特有の蒼穹が広がっているのをみて酷く安堵した。
「予定外のことが多すぎるよ、」
人の名前を呼びかけようとして、戸惑った。
一ヶ月前のことだったらきっと『中禅寺』。と言っていたに違いない。だけれど、今は────
「ああ、駄目だ」
瞼に顔がちらつく。こんな恋人を追いかけている時に浮かぶのは、その人一人の顔でないと行けないだろうに。去来するのは────
不意に生理現象をもよおし、鞄を持って手洗いに発つことにした。関口は列車のコンパートメント車両に初めて乗車する。まるで箱に繭が整理されているような具合だ。閉ざされた扉の向うから人の気配と小さな声がする。
室内に備えられた列車の見取り図で手洗いを確認してコンパートメントの扉を開けた。

 傍にいて欲しいとはきっと思ってはいけないのだ。こんな道中では特に。

コンパートメントの扉を開けると、横から腕が伸びて関口を拘束した。大きな手が口を塞ぎ、もう片方の腕で胴ごと両腕を掴まれる。
何が起こったのか────
暴漢か、それとも列車の車上荒らしだろうか。藻掻こうとするが拘束する力の方が強い。
先刻まで人がいないコンパートメントを安堵できるとか思って置きながら、調子のいいことだ。助けを求めようにも────。
否、求める必要も無いのかもしれない。
此処で関口に何があろうと、気にする人間などもう何処にも────。
暴れようとしていた躰から力を抜くと、背後から嘆息が聞こえた。
「拐しがいの無い」
耳慣れた声だった。
「全く君は叫んだり怯えたりした方がずっといいのに。なんなんだ!そんな簡単に諦めたりして」
「え…えの…きづさん!」
振り返ると其処に榎木津がいた。

また、だ。

離れたと思ったのに────。視界が滲んだ。そして知覚出来なくなる。
躰の脱力と共に涙腺が緩んだらしい。
榎木津に傍にいて欲しいと云う欲求。それが目の前にいる。 「そんなに驚いたのか、」
榎木津の鼻が鳴った。子供のようで口角が少し持ち上がったが、それを自覚して関口はまた落ち込んだ。喜ぶところではないだろうに。自分が情けない。吐息が震えながら零れた。
中禅寺に会う心構えなど全然出来ていなかったのだ。だから、列車が走り出して中禅寺のすぐ傍まで行くことになることを考えたら、一人では寂しかったのだ。子供の様に寂しかったのだ。恥ずかしいくらい寂しい。
だから此処に榎木津が現れたことが望外に、嬉しいなんて。
掌から顔を上げた。列車は揺れている。町並みを外れたようだ。緑が多い。中央駅から二時間弱だと聞いた。
「なんで?」
胸が疼く。
榎木津が変な顔をした。
「いいんだ、御免」
謝ると益々榎木津は怪訝な顔をした。
「本当は最初から僕と同じ目的場所だったんでしょう?」
「目的場所?」
「そうじゃなかったら、あの時、駅の改札で会う訳がない」
そうでしょう?と関口は訊いた。北部鉄道の改札は市内各線から離れたところにあるのだ。
「…まあね」
返す適切な言葉も思いつかず榎木津は適当に言った。
「どんな?」
「君ほど色っぽい用事じゃないよ」
憮然とした声だと言うことに自分で気付いた。けれども関口はまるで頓着した様子もなくただその榎木津は言い放った科白に苦笑していた。右側の座席に榎木津は横になって目を瞑った。長い睫毛が窓からの陽光に影を落とす。胸が上下している以外はまるで人間には思えない。けれども関口は榎木津があたたかい体温と柔らかい脣を持っていることを知っている。
古代の美麗な彫像ではないのだ。
「榎木津さん?」
「鳥渡寝るよ、君も寝たらいい」
「え?」
「寝不足だろう?それで舞台に上がるなんて無茶ぶりにも程があるよ」
何処まで一昨日の夜榎木津に話したのだろう。
酒に酔うものじゃない。
関口は胸に鞄を抱えて左側の座席に転りと横になった。榎木津と同じ寝台では眠れなかったが、同じ空間にいるのはとても居心地が良いのだ。


 小動物のように丸まっている。
鼻先に掌を翳すが起きる様子は無かった。鞄を抱えたままで、その腕の中から鞄を引き抜くことは出来そうにも無かった。此処まで追うことになるとは予想外だ。
コンパートメントを発った時が好機会だと思ったのだが、矢張り鞄は持って行っていた。
隙だかけなのに何故か其処だけいつもタイミングが悪い。否、良すぎるのか。
目の前にモノが有るのに手が出せない。
颯々と渡して自由の身になりたい。そうでなければ、彼で遊ぶことさえ心行くまで出来ないのだ。
髪が落ちて蟀谷が覗いている。其処に脣を寄せようとして、「起きる、か」。あの真赤になった顔が見たいのだが、彼は向うに着いてからが本番なのだ。









17/12/08
榎さんが激しく偽者…。ご…ごめんなさい…!
何故か千鶴子さんは断髪のイメージがある。京極さん、言及されていただろうか。




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