bisous_04


 通話の切れた受話器を凝乎っと注視めていた。
何故もう一度連絡を取ろうとなどと思ったのか。未練たらしい。実際幾つもの心を置き残して此処にいるような気がする。本来別ち難い魂と魄が分離している感覚だ。
手嫋女ぶりも甚だしい。 如何に手管を講そうとも得られ無かったのだ。
 間違え電話を装ってでも声を聞きたかった。大概、此の時間帯に研究室に居る閑人は彼一人の筈だったからだ。けれども通話を受けたのは彼ではなかった。
─────どうしたのだろう。
俄かに不安になる。風邪を引いたのだろうか。所用があったのだろうか。あったのならばそれは上手く行っているのだろうか。此の手は彼に必要ではないのか。助言は欲しくないか。
傍に、行きたい。
体内の何処かが、軋んだ。
もう適わないのだ。
別の道を選取したのだから。選種するだけの瞭然とした理由はあった。厳然と。
………自分と彼はとても親しい。頼られていたとも思う。しかし欲しいのは親しみでも信頼でもない。
 電話を凝乎っと注視していた。
もし、若い編集者に投げつけた言葉が真になったらどうしたら良いだろうか。

「─────だったら君が口説けばいい」

何故投げつけてしまったのか。呪詛にも似た言葉だ。否、言葉は力を持つのだ。言葉は魂を持つ。つまりは言葉自体が呪詛である。此の身は頭頂から爪先、海綿体の中まで、それを畏怖し、また敬虔でもあるのに─────。
況や山上の説教にもある文言「求めよ、されば与えられん」。 あの青年が求めそして与えられたら…。
小さく頭を振る。自嘲に頬が歪むのを自覚した。
もし現実となれば如何程打ちのめされるか解いるのに。
「否、そうじゃない。そうではなかったのだ、」
僅かに脣を噛んだ。
言霊さえ彼の前に効力は無かった。
彼の前には聖書も規範ではなかった。
何故ならば、己は求めても、求めても、尚与えられなかったのだ。
あの若き編集者に投げつけた言葉は、あれは…あれこそ、呪詛だ。比類なき怨嗟だ。そう本来ならば、求めても与えようとはしなかった人物への、盛大な恨み言だ。
そして編集者への当て付けでも在る。
「君が得られる筈はない」
暗に傲然と言い放ったに過ぎない。自分で『さえ』無理だったのだ。
「君に得られる筈は無いんだ、」
誰にも得られない。
既に通話が切れた其処に囁いて、静かに受話器を置いた。



誰かが話している声がする。
「………った………大せい…で……」
ぼそぼそとした口調である。
怒っているのか。
人の怒りには、弱い。恐いのだ。逃げ出してしまいたい。
身が竦む。
早く立ち上がらなくては─────。
叱責されることには慣れている。
慣れているが、叱責を受けることが得意だとか、好きだとか云う訳ではない。
脱兎─────。兎のように逃げてしまいたい。
ああ時間だ時間だ遅刻すると、懐中時計を取り出して少女の前を足早に過ぎ去ろう。
早く、早く。もっと早く。
関口は敢然と瞼を押し上げた。
視界に流れ込んだのは、鮮やかな緑に身を弾かせた。
明るい。白昼だと云うことを僅かに理解し、関口は眼球だけを繰繰と動かした。
鮮やかな緑と明るい、けれど所々濃淡の違う灰色をした一面が網膜の向うにあった。
少し暑い。
右腕をゆっくり持ち上げて額と鼻の頭に薄らと浮かぶ汗を顔を撫でるように拭った。
此処は何処だったろう。
……極々近い過去にも同じことを思ったような気がする。
その時、チン、と云う甲高い音を耳が拾った。電話の受話器を置いた時の音だ。
硬質な床を誰かが踏みしめている。靴底がゆっくりと床を蹴る音だ。
関口は椅子に崩れかけた体勢の儘頸だけを廻らせて、其方を見た。だが芭蕉の大きな緑に阻まれて見えなかった。足音は関口の間近で止まり、不意に顔を上げると緑の向うに榎木津の顔が覗いていた。
秀麗な相貌は寝起きに見るには強烈過ぎた。
椅子の端に腰は僅かに掛っていただけだった。
だから、幾許かの驚愕に簡単に滑り落ちた。
「い、たっ」
「器用に寝るものだと感心していたんだけどな。まるで猿ではなく樹懶なまけものみたいだって。『樹懶も樹から落ちる』だね」
その物言いは理路としていた。
榎木津は薄いセーター姿で、寝台に居るときと同じ服装だったが何処か小ざっぱりとしていた。肩に触れる程の長い髪と口の周りの淡い髭。関口は自分の顎を触った。少しざらついている。
榎木津は関口の上腕を掴み持ち上げると、関口を再び椅子に座らせた。
卓子の上には温かな珈琲とパンがある。
自分で淹れたのだろうか。
「宿酔は如何だい?」
珈琲の香りを嗅いでも頭が響いていない。
関口は寝台で目覚めた時程は口の中も乾いていないことに気がついた。
榎木津は先刻まで潤がいた椅子に座った。彼女…家の主人は関口の問いに「潤て云うのよ」と答えたのだ。
「大丈夫で…す」
潤が盛んに飲ませた水の効用だろうか。
「顔色が大分好い。こんな処で眠っていたのに、」
関口は榎木津の皮肉な物言いに少しだけ頬を染めた。寝台で榎木津の両腕にがっちりと抱きかかえられて睡っていたのだ。
「椅子で無理な体勢で睡るから尻餅なんか着くんだよ」
恨み言に聞こえるが、榎木津は笑っていたので関口を揶揄っていることは直ぐに知れた。
「………あの、色々お世話になったみたいで」
頭を下げる。
「なんだい?その曖昧な口調は」
「あの……なんて云うか…その…実は何も憶えて無くって」
「ふぅん、」
榎木津は卓子に肘を着いて目を眇めて、関口を見た。
「憶えて無いのかい?何も、」
「ええ…その……はい」
酒が入っていたのだ。
仕方無いだろう。と思うのだが、酒の上で榎木津に迷惑を掛けたのなら猶更申し訳ない。そんな風になるまで呑んだことなど無かったのに。
其儘暫くの間、榎木津は無言で凝乎っと関口を眺め遣っていた。
居た堪れないこと此の上無く、関口は身を縮ませていた。
「まあ、いいか。今の処は。関くんが潰れてくれた御蔭で寝床は確保出来たし、の抱き心地はまあ硬いけど悪くなかったし、寝心地は良かったからね」
関口はその物言いに唖然とする。
何を言い出した心算なのだろう。
酒を過すと気持ち悪くなって吐きたくなる。粗相でもしただろうか。
「シャワーを浴びておいでよ。散歩に行こう」
「散歩?外は霧ですよ、」
ただ昼と夜の別があるだけの、殆ど視界の利かない濃霧だ。
「此の街の冬の風物詩だ。味わっておくのもいいじゃないか!此の家に居ると今が冬だなんて忘れてしまうだろう?」
榎木津は頬の傍まで延びている芭蕉の大きな葉を指先で扱いた。
「むこうにナントかとか云う果実が生っていた。後で食べよう。君はシャワーに行くんだね」
そういうと榎木津は卓子の上に置かれた新聞を広げだした。予備知識としてそれが此の国でもお堅い新聞だと知っていたが、勿論異国語のそれが関口に読めるはずも無い。
しかし榎木津はそれを拡げると大股開きにしてた膝を組んで、紙面に目を落としていた。
関口は僅かに脣を開いて、宇宙の最初の音を小さく小さく発した。
即ち、「あ、」と。
その光景はまるで『彼』のようだったからだ。
比類無い書痴漢。食事をする暇も、寝る時刻も、用を足すことさえ惜しんで只管に書を読んで、且つ滑舌ととうたらりと話し続ける、『彼』に。
少し目を伏せて、凝乎っと何かに耐えた。
否、耐えるべき何かが来るのを待ったのだ。そしてそれが行過ぎるのを。
けれども、実際には杞憂に終わった。
天は落ちて来なかった。
関口は杞憂に終わったことに少しだけ動揺して、榎木津に届かないように幽かに吐息した。
「矢っ張り酒臭いのに耐えられないから、風呂に行って来ます」
出来るだけ軽やかに、常日頃それは在り得ないのだけれど、言って関口は椅子を発った。眠っていた部屋に戻って行く。客室用であるらしい部屋には浴室が併設されていたのだ。
 外界を霧に包まれた屋内は、榎木津の許から去ってしまえば、酷く閑寂としていた。



 放心円状を描く街並。その規格は中世の様子を色濃く残している。
大きな円を描く通りには要所要所に門があり、多くはその門から続く道とその先にある都市の名前が冠されている。
門を境に街は新旧を分ける。
円の内側は所謂旧市街で、今も街の重要な官公署や名立たる教会や美術館・博物館、劇場を殆ど有している。
中世に此の地を治めた領主の煉瓦造りの堅牢な王城は街の北西にあり、南東に向って扉を開いている。
放心円の中央に見えるのは尖塔と数多の回廊を持つ旧く美しい聖堂である。歪んだ真珠とも譬えられる世界最大の白亜のバロック建築。その創建は古代にまで遡る。
旧い街の車道も流石に土瀝青が張られているが、歩道や裏道の路地は永く人々に踏み拉かれて磨かれ、丸みを帯びた石畳である。
 けれども今はその何れも瞭然はっきりと眼にすることは出来なかった。
外界はじっとりと重い。
それが視覚による効果なのか、それとも実際に此の濃かな粒子が外套や髪を覆っているのか。
実際四肢を動かせばその軌跡を描けるような真白い粒子が立ち籠めていた。それにしても『重い』と感じる程のものでは無いだろうから、もっと別の要素なのかもしれない。
 実際、暗澹とした気持ちで居るのだ。
不慣れな身にはその視界は殆ど零に近い。
何も見えない。
店の燈や街灯が霧の向うで朦りと白く丸く朦と見えている。霧の粒子が光を反射合い、拡散しているのだ。
許された小さな視界に突然人が現れることに中々慣れない。四歩も離れてしまえば、それさえ覚束無い。何度も突然現れる人にぶつかりそうになるのを避け切れなかった。
「歩くのが下手だな関くん」
左横から声が聞こえて未だ其処を榎木津が関口と同じ歩調でいるのを知った。此の白い世界に互いが寸断されてしまえば良いのに。そう思ったのだが、『すぐにそうだろうか?』と云う疑念が心の何処かで持ち上がった。
解らない。
何故解らないのかも解らない。
無知の知にさえ届かない。
「…こんな霧中じゃ、仕方ないよ、」
負け惜しみのように聞こえただろう。
「まあ確かに真灰色だね」
榎木津は嬉しそうに腕と長い指を燻らせた。粒子の中に動かした軌跡が残る。
 シャワーを浴びて、清潔な衣服に着替え、脱衣所まで持ち込んだ鞄を肩から斜め掛けにして出て行くと、榎木津は外套を羽織って使用後整えても居ない寝台の上に煙草を啄みながら座って待っていた。断っておくならば、榎木津を警戒して鞄を脱衣所まで持っていった訳ではない。髭剃りが入っていたからだ。
実は旅の道程、殆ど関口は鞄を手放していない。
此の道行き特製のライナスの安心毛布のようだ、と関口は少し笑った。
「…天寝煙草は危ないですよ」
「寝てないよぅ、」
榎木津は両の掌を仰向けて、関口を見た。
「おいで、乾かして上げよう」
彼の脇には櫛とドライヤがあった。
榎木津の膝の間に背を向けて座らされ、濡れた髪を弄られる。
「油でもつけたような髪だな」
丁寧に櫛で梳きながらに乾かされ、頸部に襟巻きをされて霧の中に散歩に出た。日頃、常には人との接触が厭わしいのに、髪を乾かして貰うのは何故か抵抗感が無かった。
頭を撫ぜる手はとても心地良く感じた。
 「何を笑っているんだ、」
「…否、ちょっと、」
「思い出し笑いは、鄙俗らしい証拠だ」
鄙俗らしい。
今頃、唐突に髪を乾かされたことに対する羞恥を憶えた。
もしかして、あれは余程親しい間柄の行為なのだろうか。
「あの…榎木津さん…」
話を挿げ替えるべく、関口は口を開いた。
「んー、」
「ど、何処に向かっているんですか?」
余りに唐突な話題転換だっただろう、榎木津の顔は微妙な表情をして関口を窺ったが、特にそれ以上問い詰めようとはしなかった。
「こんな処で足止めを喰らう心細いだろう君に、観光案内などを、」
「…観光?」
「シィ」
榎木津は軽く頷いた。
「『観光には明るくない』って云ったの誰でしたっけ?」
「なんだ、恨み言?そんなに昨日の僕の物言いは冷たかった?」
「違いますよ、ただ…」
こんな霧の中連れ出されて観光案内など真っ平だと思っているだけだ。しかし好意で申し出ているのなら、と思うと何やら言い出せもしない。
言い淀んでいると、榎木津が関口の頭を撫ぜた。
見上げると莞爾と笑う顔があった。
「ほら、此方だ」
榎木津の歩みが俄かに速さを益した。
「榎木津さんっ」
後を追うが跫の長さを気遣って欲しい。
関口の右腕が人にぶつかる。霧の所為で相手が見えなかったのだ。音を上げて鞄が落ちた。関口のものではない。
「す、すみません」
関口が頭を下げ拾い上げると、初老の女性はそれを受け取り軽く頷いただけですぐに自分の道行きに身を専念させた。霧の中では度々あることなのだろう。お互い様なのだ。関口は慣れていないことに少し恥じて、頬を爪で軽く掻いた。
もっと冷静に行動したいものだ。
不図前を見ると其処には誰も居ず、濃い霧が拡がっているだけだった。



 少し、急いていた。それもその筈だ。昨夜は酒を過ぎたらしい。
限々まで眠ってしまったのだ。自分の寝起きが殊更悪いことを知っているにも関わらず。それも用意された寝床のなんと暖かなことか。それが最大の原因だった。
偶然入った店は『当たり』で酒も食事も旨かった。
 興味深い夜だった。
霧の中に浮かび上がる舗の燈。猫目洞、と舗は言った。金文字のイタリック体で舗の名を書いた曇り硝子の扉のを開ければ、暖かな店内には霧に行く場を見失った同胞がいた。
灰色の視界を埋めるように立ち込める霧の中で孤独を温める為の業のようだった。
カウンタで臨席する男は僅か二杯で酔いに溺れたようだった。
彼のような泥濘の酔いに溺れるには一体何杯呑めば良いのか、硝子碗に少しだけ歯を当てた。
手の中のフォークで凝乎っとタリアテレを弄んでいた。
引き上げたり、絡めたり。それでも口にはしようとしていない。少しだけ焦れている様にみえる。時々霧の外界を窺うようにするのだ。
まるで────
「待ち人でも来るようだね」
男は顔を上げた。
酒精に顔が紅く、本当に猿のようだった。
僅かに瞼が落ちて目の縁も紅く、泣いているような────。
「そう…遅いな…。いつもだったらこんな待たせもしないのに」
何を云っているのか。
意味深長な物言いに彼の顔を覗き込むと、はっとして大きく目を瞠きすうど瞼を開閉させた。眸が潤んで見えた。
「ああ…ええ…」
胡乱な声を上げた。
頬に自嘲のような笑みが一瞬浮かんで澱みの泡沫の潔さで消え去りまた俯いた。
「すみません」
ぽつりと呟いた。
「僕、酔ってますね」
「未だ四杯目だ」
男の脇には四杯目の酒が手付かずで置かれている。平たい皿の中のパスタは半分辺りで進められていない。
じっと食べ物を弄んでいるだけだ。
「酒がそんなに得意じゃなくて」
「最初に云えばいいのに」
「得意じゃないけど…好きなんです」
「ややこしい」
「……でしょう?」
だから、と男は続けた。未だ若いが、酷く疲れて見えた。細い肩には辛うじて外套が掛かっているようにもみえる。
「酒の席を蹴ったこともなければ、一人で酒場に入ることもあるんだ」
でも一人でいると大概、彼奴が────
「扉を押し開いて、来てくれるから」
鬱陶しいなんて思うことも度々で。
「彼奴?」
随分とぞんざいな口調だ。
「そう────。僕を置いていってしまった…」
嗚呼っ、と男は小さく叫んで額を支えた。
「すみません。聞かなかったことにして下さい。やだな、口が滑る…」
滑る、ともう一度呟いた。
「恋人?」
普段ならば人の色恋なんて話は真平だが、今は興に乗った。
男の長い前髪の間から胡乱な眸が覗いた。蕩りとした眼球のコンポォトのようだった。
「貴方は…こんな思いになったことはないと思う」
「なんで?」
蕩りと笑っている。酔いがその薄い躰の内を廻っているのだ。
「だって、」
そんなにも綺麗で、明朗で────。此の霧の中で視界が悪いのに僅かに彼を垣間見した人間が目で追うのを幾度も目撃した。 きっと彼に声を掛けられて歓喜しない人間なんていない。
「人を好きになったことってありますか?」
「人聞きの悪い。僕は雄牛ブルだよ」
男は眼を大きく張って口角を上げて、噴出すように笑い声を上げた。
「あなたが?」
こんな優美な容姿の人間が己を雄牛だというだ。
「そう」
不意に笑うことを辞めて男は凝乎っと此方を凝視めた。普段は男に注視されるなどぞっとしないが、何故か今はそれを許容したい気分だった。否、もっと浴びるように此の男の目線が欲しい。
酔っているのか、凝視められることが気持ち好いなど────
「……すみません、」
「何が、」
「酔ってますね、僕」
「だろうね」
感情の起伏が激しい。恥じたのか、また気持ちが切り替わったのか、瞼を伏せ、顔も俯けられた。
「追いかけてきたんです」
話が変わったようだった。眉を顰めた。不意に男と自分の間に誰かが居るような気がする。
「結婚なんて、云うから」
「それは目出度いじゃないか」
「………そう、かな?」
「まあ大概は。違うかい?」
「諾。ええ、そうですね。彼奴の結婚じゃなければ、僕も祝えたんだ」
例えば、鳥口の結婚式であればきっと嬉々としただろう。
「僕のことを最初に好きだと云ったのは彼奴なのに、他の女性と…なんで…」
硝子碗を口に運ぶ手を止めた。
今、何を云っただろう。
隣の男の頭、正確には旋毛を凝視した。
如何見ても此の眼前の人物は男性にしか見えないのだが。今更性別を訊く訳にもいかないだろう。
「……北部の湖水地方、知ってますか?」
「諾、」
「美しい街らしいですね?」
「そうかな?何も無いよ」
酒を口にする。咽喉を僅かに焼くアルコホルを感じた。
「『恋をするに相応しい────』」
「なんだい、それは?」
「此処に来る前に読んだ雑誌に湖水地方の記事があって、其処に大きく書いてあったんです。でかでかと」
そんな処で引き合わされから、恋に落ちたのだろうか。
「僕を置いて行ってしまえる程に」
「君の恋人はそんなに薄情な奴なのか?」
「……いいえ、慥かに本の虫で仏頂面で冷淡に振舞うことも有る奴だけど………能く喋って世話焼きで、寧ろ情に厚いって云うか、」
何を云っているのか、それこそ酔っ払いの戯言なのか男は自分の相手、恐らく男性だろう、のことを並べ立てた、
「嗚呼莫迦みたいだ」
蕩り────。甘いコンポォトのような目線だった。
「榎木津さん」
男は名前を呼んだ。
赤いヴィーノと砂糖を煮詰める。砂糖の溶けて行く中に無花果を入れてじっくりと煮込む。
粘質を持った甘いコンポォトのような────。
榎木津の脣にそっと押し付けた。
長い鬱蒼うっそりとした睫毛が濡れて見えた。 煮詰めた無花果のような柔らかさに、その果肉を喰んでしまいたくなる。けれども歯を立てる前にそっと離れて行った。
男の瞼は半分以上落ちていた。
「睡りに落ちる前にせめて名前を言って行かないかい?」
「な…まえ?」
「そう、君の────」
「云ってませんで…たっ…?」
榎木津が頷くと同時に男は瞼を完全に落とした。そしてその寝息の一声と共に名前を吐き出した。
「せきぐち、たつ…み…て…」
 男に脣を奪われるのは初めてだった。しかも防ぐ間も無かった。
けれど、何故苛立ちがないのか。自分が不思議でならない。
不思議でならないが、これも大聖堂の前までだ。
約束の時刻は五分ほど前に過ぎているが、向うにしたって大事なのだ。そうあっさり帰ることは無いだろう。それでも急いだほうが良いかもしれない。なんだかんだ云われるのは性に合わない。煩瑣くて適わない。
 「関くん、」
榎木津には人の名前を略す習いがある。
背後を振り返った。此の街の霧は山間のような白い霧ではない。重苦しい灰色の霧だ。
振り返った其処には霧があるばかりだった。



   濃かな粒子が動く軌跡を描いて漂っている。軌跡の先には人間がいるのだろう。
「榎木津さん、」
霧に向かって声を上げてみるが、返る声は聞かれない。
鞄のショルダー部分を両手で握り締めた。辺りを見回す。
霧ばかりだ。
何処に居るのだろう。
「どうしよう、」 怖い────。
関口は霧に慣れていない。霧の中で視野が利かない。
此の街に棲む人たちは違うのだろう。迷いも無く此の真白い中を歩んでいる人々。あの家の女主人にしたって濃霧を苦にしたような様子でなかった。関口は歩道の脇、車道側に避けた。
どうしたら良いのだろうか。
明るいと思い上空を見上げると朦りとした黄色染みた光の珠が見えて、自分の背後に緑色をした鋼鉄の柱があった。どうやら街灯のようだ。関口は兎も角何かに寄り掛かりたくて柱に背を凭れた。
潤の家はどちらだろうか。否、せめて彼女の店は何処だろう。自宅のすぐ傍に店があると言っていた。そんなに遠くまでは歩いてはいない筈だ。
関口は兎も角辿った道を引き返すことにした。殆ど直線に行っていたような…。否、一度、二度だっただろうか、角を曲がった。
霧の中、目を凝らして足早に歩いて行く。
榎木津は、探してくれるだろうか────。
不意にそう思うとすぐに打ち消した。
そもそも榎木津は偶然出会った、もう二度は会わない人物だ。
そんな人間が見知らぬ街で逸れた知り合ったばかりの男を探してくれるだろうか。後ろに関口が居なければ居ないで、きっと其儘行ってしまうだろう。

髪を少し掻き雑ぜると、先を行くことに専念する。



   大聖堂はすぐ其処の筈だった。目と鼻に抜ける先、指呼の間。
けれど『物』が無い今、行ってもまるで無意味だ。地団駄を踏みたい気分になる。
地団駄…果たしてどちらにだろう。
何処かに行ってしまった関口か、それとも颯々と用件を済ませ得ない…向こうの言い形になる此の身か。
榎木津は数瞬考えたが、身を翻らせ、大聖堂に背を向けた。
関口の歩幅はどのくらいだっただろう?
思えば昨日から榎木津の歩む速度に着いて来てなかったような気がする。
一体、何歩ずれて、どれだけの距離が榎木津と関口の間に開いたのか。
榎木津は慣れている霧の中も苦にしないが、それでも矢張り視界が狭いことには変わりなく、煩わしい────
「苛苛するな」
来た道を競歩で戻る。流石に走るような無謀はしない。
最後に関口と会話を交わした、逸れたであろう地点までには、すぐに辿り着いた。
「いない…」
四辺を見渡すが、関口の姿は見当たらなかった。榎木津の眉間に深い溝が刻まれる。
もう一度、辺りを見渡せど、関口らしい影も見当たらない。
逸れた時には、無闇に移動しないのは鉄則だろうに。
「っの…莫迦!」
腕に巻いた時計を見る。約束の時間には十五分ほど過ぎてしまった。向こうが榎木津が来ないことに諦めて帰るまでの猶予はどれくらいだろう。
舌打ちをする。 「帰ったかな」
それ程方向音痴と言う風情ではなかった。けれど不慣れな街に況して霧の中だ。
どうか戻っていることを何かに祈りつつ、榎木津は外套の裾を翻した。
あの家に戻って、もう一度一人で大聖堂まで危険だが走れば限々間に合うかもしれない。颯々と約束を果たして無罪放免に成りたいのだ。
榎木津は鍵は関口が持っていることを思い出しつつ、酒屋の女主人の家に戻るべく走り出した。



 歩いている足元は石が張られている。何百年と人の靴底が石の表面を撫ぜた特有の円みを帯びている。旧市街なことは慥かだろう。
けれど、此処は何処なのか。
先刻まで路面電車の走る大通りを歩いていたが、流石に潤の家の周辺とは様子が違うので、再び路地を一本適当に入ったのだが、余計解らなくなった。
道を迷うのは青年編集者の専売特許だと思っていたのに。
「鳥口くんの呪いか…」
荷物は潤の家に置いてきてしまったのだ。戻らなくては成らない。
足元が石畳の所為か妙に爪先が冷たい。
関口は無闇に歩き回ったことを後悔した。
寒いと思い腕に触れると、自分の外套が柔らかく湿っていることに気が付いた。吐息する。どれだけ歩き回ったのだろう。
榎木津が捜していてくれているなどと甘い。
誰かに潤の店を訊ねたかったが、生憎昨夜の記憶は無くて、潤の苗字を訊くこともしなかった。霧が次第次第に濃くなっているような気がする。夜になる所為だろうか。
 霧と言う現象は雲と変わらない。水蒸気による水の粒子の集合体だ。地表に接しているかいないかの差で呼び名が分かれるのだ。けれども此の街の霧は空に浮かぶそれのように白くは無い。重苦しい灰色だ。
関口は鞄を引き寄せた。
どうしたらいいのだろう。
誰かに助けて貰うべきなのだろうが、関口は初対面の人間が苦手なのだ。仮初に出会う人間を信じられないのかもしれない。
否、他人を──── その時、のっそりと自分の手元に影が降った。
肩に手を掛けられる。それまで人が近付いていることに気がつかなかったのは、矢張り霧の所為だろうか。
関口は高い影を見上げた。男だ。関口より幾つか年上だろう。
「客待ち?」
柔和な相貌。背広にネクタイを締めて、髪を撫で付けている。そして上等な外套を。一見して何処かの若き事業家かと思わせる姿だ。
それにしても『人待ち』とは訊かず、何故『客』なのか。
「私もね、時間が有るんだ。此の霧だろう、身動きが取れなくてね」
「え、」
彼方そっちの相場は?」
此の何を語っているのか解らなかった。相場と訊かれても関口は株の仲買人ではない。
「先刻から此処をうろうろとして。客がいるんじゃないだろう?」
「あの…?」
関口は自分の口がこれ程廻らないことを悔やんだことが無かった。男が関口の肩を掴む手に力が加わったからだ。
「まあ客がいてもこんなに待たせてる奴なんかより余程私の方がいい」
男の手を止めようと掴むとその掴んだ手を男のもう一方の手で掴まれた。
「先刻から其処の舗で見てたんだ。もう一時間近くうろうろしてるだろう?」
そんなに時間が経過しているだろうか。どうも同じ処を何度か行き来していたようだ。
厭な予感がする。
客と云う言葉にも引っ掛かるし、何故関口の手を撫でるのか。寒気がするのは冬の所為だけではない筈だ。
「あの僕は…客を待っているわけでは…なくて…」
「こんな裏道で待ち呆けなのに?」
男が腰を屈めて顔を近づけた。見目の悪い男ではない。
「遠目じゃよく解らなかったが、結構可愛いな、君。私はそんな危険な男じゃないし金払いも良いんだ。自分で言うのも何だが」
ほらと肘辺りを外套の袖ごと取られ抱き寄せられた。
しっとりと水気を含んだ髪に鼻先を寄せられた。
「嗚呼…好い香りだ。矢っ張り客待ちんだんじゃないか。こんな香りの洗髪料で…。女物かな?」
背に腕を廻される。
関口の顔が男の肩に埋まった。
辞めろと云いたかったが、口を肩で塞がれて適わない。
胸が鼓動を早めた。
流石に関口も此処まで云われれば男が何を云っているのか理解出来た。関口は商売と間違えられているのだ。
あの家は潤の持ち物だ。
置いてある様々な石鹸や洗髪料は彼女好みの彼女用のものなのだ。
使うべきではなかっただろうか。
男物、せめて匂いの軽いものを出して貰えば良かったのだ。
 男が「こっちだ。それとも使うトコがあるの?」と訊いてきて関口は激しく頭を振った。
それが男の肩に額を擦り付ける行為になってしまって後頭部から項を撫ぜられた。
躰が粟立つ。
「では、私の流儀で。こっちに能く使う処があるんだ」
男は関口を離して、顔を寄せて云った。
もしかして此の儘連れて行かれれば、此の男と寝るのだろうか────。
見知らぬ人間と、金を介して。
男は関口の腕を取って強引に歩き出した。誰か、と思い四辺へ目を遣るとまるで煙幕でも張られているように何も見えない。関口を強引に引き摺る男ばかりだ。
まるで世界にこの男と二人残されているように。
ぞっとした。
関口は引き摺られる跫を如何にかして止めねば。
「あのっ本当に違うんです!僕は!」
藻掻いた。
「君は選好みするんだなぁ。私じゃ厭かな?」
「厭とかそう云う問題じゃ無くて本当に!」
「あー、ぐちゃぐちゃ煩瑣いよ。君。私はもうその気なんだから」
僕はそんな気じゃない、と思ったが口から声が出なかった。
何故こんな腕を強く掴まれて引き摺られなくてはならないのか。霧の中を男は迷い無く進んで行く。とても強い力だ。決して非力な心算は無いが、貧弱な体躯の関口では抗えない。太刀打ちできるものではない。何故拒否しているのに強引にことを進めようとするのか。
少なくともそんな人間は周りに居なかった。中禅寺にしたって強引なことはなかった。
彼は力仕事をしないと宣言するような男だったからなのか。それ以上に彼は誘惑という交渉事を好んだからか。
そう───中禅寺。
彼が居れば、彼が関口の傍にいればこんなことに合わずに済んでいるのに。
何故、行ってしまったのか。
「トウ───っ」
甲高い声がして、関口の腕を掴む手が叩き落された。
引き摺られていた関口は跫が悖ついて後ろに倒れそうになったが、誰かに両肩を掴まれた。
「ちゅう」
ぜんじ、と続けよとした関口の上に声が降り注いだ。
「これは僕のだぞ、此の猿攫いめ。否カメ攫いかな」 関口が慌てて顔を上げると「何て顔だ」と重ねられた、明朗な声。
「待て、それは私が先に、」
「先も後も真ん中も天も地も無い!占有権を主張する。そもそも第一この猿くんは僕のだ」
それも違う、と声を上げようとした関口に「合わせて」と小さな声が囁いた。以前にも同じことがあった。そして次に仕掛けられた行為に、自然咽喉が引き攣って声など上がらなかった。吸気のような引き攣った音が咽喉の奥から搾り出されただけだった。 榎木津は関口を腕に抱え込むと、鼻梁の付根、目頭の辺りに脣を押し付けた。
榎木津は脣を押し付けた儘、その怜悧な目線だけを男へ向けた。
男は如何やら新たな勘違いをして、しかもそれに納得したらしく「あんたが待っていた客って訳か全く、」と云った。そして小さく舌打ちをして颯々と霧の中に消えていった。
「最初から云えよ、」と言う棄て台詞と共に。 脣が離れた。 関口は脣を戦慄かせ、自分より高い位置にある榎木津を見上げた。鳶色の眸が向けられる。
「なんだ、関くん、夕暮れのかくれんぼで忘れ去れた子供みたいな顔だぞ」
なんとも的確だ。霧の中で取り残されて子供染みて恐慌していたのだ。関口は笑おうとして、失敗した。口の周りの筋肉が思うように動かない。 「エノキヅさ…」
見つけてくれるなんて思わなかった。それどころか捜してくれるとさえ期待しなかったのだ。関口は榎木津の外套を掴んでその胸に顔を伏せた。瞼が熱い。関口の頭を手が撫でてくれた。そして関口は榎木津の外套に頭を擦り寄せた。怖かったのだ。本当に。額に感じる榎木津の外套は関口のそれのようにしっとりと濡れていた。
榎木津も関口が見えなくなって粟を食ったのだろうか。そして此の濃霧の中を探し回ったのでは───。
「すみません…外套を濡らしちゃった」
「もう濡れてるから同じだよ」
気にしなくていいと耳元で囁かれた。
「も、大丈夫…です」 胸を押して離れようとするとすると、榎木津の関口の背に回された腕に力が籠った。
「逸れないか?」
「え、」
「もう。」
「あ…え…」
何故離してくれないのか、関口は温かな腕の中で僅かに身動くがそれも強い力で抑えられる。榎木津が怒っているように感じられ、余計に早く離れたかった。
「榎木津さん、ちょっと」
「君が知らない街に興奮するのは良い。駆け回りたくなる気持ちも判る」
駆け回ってなんか居ないと抗議したかったが、寒気の中榎木津の温かな頬が冷えた耳に触り、緊張した。
「僕がどれだけ探し回ったか解ってるかい?そう云うのは連れの居ないときにしてくれ」
「連れ、」
「そう」
「誰が?」
「………『誰が』、」
榎木津はこれ見よがしに溜息を着いて見せた。関口は愚か者と云われているように感じて羞恥が沸く。しかし同時に何故、とも思う。いつ『連れ』を得ただろうか。
「僕以外に誰が居る?」
「だって」
連れなんか居ない一人旅の筈なのだ。榎木津とは仮初に出会っただけで、此処で榎木津が関口と別行動をしようと、関口には恨み言を吐く権利さえ無い筈なのだ。
「もしかして…先刻の男に着いて行きたかったとか?」
肩越しに話していたのに、僅かに胸を離されて顔を覗きこまれた。そして榎木津の顔が安堵したように緩められるのを関口は目を瞠いたまま凝視していた。
「あー良かった」
「…昨日、僕は何を話しましたか?」
「……色々」
榎木津が先刻の男に着いて行きたかったのかなどと云うのは、恐らく関口の記憶の無い昨夜────言ったのだ。
「慥かに…僕は……男の人が……。だけど、別に見境いない訳じゃない」
「そういうことを云いたかったんじゃない。ただ君が"そう"だとしたらすまなかったと思ったんだ。でも僕を選んだようだから。安心した」
「別に榎木津さんを選んだ訳じゃ────」
「でも今こうして僕といるじゃないか」
「………っ」
関口は其処で漸く自分が救い出して貰ったのに、彼に御礼も言っていないことに気がついた。
「榎木津さん」
「なに、」
「有難うございました。…まさか、出会ったばかりの人が僕のことを気に掛けてくれるなんて…思わなかったんです」
「君は本当に…」
眼前いっぱいに白皙が覆った。それが彼の硬質な陶器のような皮膚だと云うことに気付いたときは既に、鼻に僅かな痛みを感じていた。
薄紅色をした脣。其処から覗く白い歯は小振りで綺麗なエナメルだった。
冷たい鼻先は、ルドルフのように真赤だと言うことは鏡を見る間でも無く解っている。さぞかし寒そうに見えたのだろうか。 鼻の頭を噛まれた。
「な…なななななにするんですか!」
驚愕して慌てて吃り顔を紅くした関口に榎木津は矢張り大笑いした。
「君は人を嘗め過ぎだ、カメくん」
榎木津にカメと言われるのは二度目だった筈だ。そういえば榎木津は昨日関口に何かを言った。酷く印象的で────。
気が済んだのかあっさりと彼の腕の内から解放された。
途端に寒さが襲ってくる。
「ほら」
手を伸べられる。
「あああああの…いや…」
汗が吹き出た。手の内も汗がじっとりと沸く。
「此の僕を街中走り廻らせたんだ。このくらい、何だ、」
そう云われてしまう、否とは云えなかった。
それよりも、榎木津は関口を捜して街中走り回ったのだろうか。本当に。胸が熱を孕む。
「もう…逸れないよ」
だから手を繋がなくてもいいだろう。
「ほら」
再度榎木津が手を伸べていざなう。
掌には汗が滲んでいる。握手をすることが苦手なのだ。それが殊更な意識の過剰だと云うことは充分承知している。でも嫌だと云う気持ちに、榎木津と繋がりたいと思う感情が僅かに上回っている。
関口は鞄を抱えなおして、外套の腿の辺りに掌を擦り付けると榎木津の大きな掌に自分のそれを重ねた。




猫目洞でのあんなだるだるな(ナダル?)会話に榎さんが付き合ってくれるとは思えない…



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