bisous_03


 酩酊を味わう時はいつも傍に彼が居た。
酒は体質に合わず大概宿酔などの酷い目に合うのだが酒の齎す雰囲気と僅かな高揚感が好きで、折に触れ口にする機会を蔑ろにするようなことは無かった。
そんな時には自分の仕事や私事を切り上げてまで、彼は己の傍に居た。
まるで子離れできない親のように。
そして同時に子離れしない親を煩わしく思うように己は彼を僅かな憤懣と親愛とを以て見ていた。
今思えばあれ程酒の付き合いを続けられたのは傍らに彼が居たからでもあるのだ。弱い癖に呑みすぎだ、と嗜めを聞きながら呑む酒は決して旨いものでは無かったが、自省が殆ど有効に働かない己には必要なものだったに違いない。
今も彼の叱責が聞こえてくるような気がする。
それだけ彼を求めていることのなのだろうか。
自分の心理が知れない。
嗚呼、
なんて、
薄情な────



 温かい。
柔らかな敷布。
リネンが馨って、不意に違和感が競り上がってきた。目覚めなければ成らないと言う焦燥があるのだが温かくてもっとこの微睡まどろみを貪りたいと思ってしまう。いけない、早く起きなくては────と思うのに瞼は重い。それ以上に心地好いのだ。此処から動きたくない。頬に触る枕覆の感触が怪訝しい気がする。心地よいのだ。。関口が寝台の敷布を換えたのは一ヶ月前だった筈だ。こんな感触はしない。それにこれはとても温かい。重い重い瞼を抉じ開けた。
 温かい。
四辺を見渡す。そして己を見れた。
いつの間にか此の身は阿修羅と化したらしい。修羅の道に堕ちたのだ。果ての無い戦いの中で苦しみ続ける世界だ。それ程、悲しみは深かったのか。
まるで此れでは、カフカの小説のようではないか。
そう、腕が四つ在るのだ。
尤も四つでは阿修羅と言うには成りきれて居ない。二本ほど足りないのだ。
何処までも足りない人間なのだろう。自嘲の笑みを口端に刻むと関口は腕を動かすことにした。折角四本あるのだ。
けれども、
「あれ?」
関口は声を上げた。声は少し掠れて何処かアルコホル臭がした。
腕は持ち上がった。
慥かに持ち上がったのだが、二本だけである。
もう二つは微動だにしない。
指を動かしてみる。二十本の指が動くさまはまるで昆虫の跫ような醜悪さに違いないと思ったのだが────
「うご…かない…」
矢張り口から吐き出されるものが酒臭く眉を顰めた。そしてこの動かない腕にも。
なんの為に二本の腕が増えたのだろう。
「動かないなんて!」
僅かに声を荒げると、吐き出される呼気は矢張り酒臭い。
呑み過ぎたのだ。
関口は漸うと目を見開く。
「さけ────?」
動く腕を寝台の敷布に着いて、躰を持ち上げようとして失敗したことを関口は知った。それこそ身を以て、だ。
慥かに腕は四本あるのだ。
見えるところに。
だのに動く腕は二本だけで、もう二本は関口の意思で動くこともしない。動くこともせしない腕は関口の脇から伸びていて、そして関口の胴に巻き着いているのだ。
温かい訳だ。

「…ん…ぅ…」

吐息が頸筋に触れた。自分ではないそれに、関口の全身が俄かに粟立った。
どういうことだ。
何が起こっているのか。
自分の呼吸が背後で聞こえる筈は無い。
では…誰かと一緒の寝台の中にいる…。
と言うことは此の動かない腕は関口の物では無いと言うこと────
其処まで漸うと思い至り、慌てて胴の前で交差したその腕を外そうと指先を掛けると、関口の項に背後の何者かが鼻先を摺り寄せた。ふわふわと柔らかいものと、滑らかな────。
人の皮膚の感触のそれは、脣か────。
昨夜、何があったのか。
思い出そうとすると、頭と胃が鈍重に痛いことに気が付いた。
鉛を脳の周りに付着させたような感覚は宿酔の折に感じるものだった。呼吸は酷くアルコホル臭い。関口巽と言う粕漬けのようだ。
ならば、
「酒?」
を呑んだということだろうか。それも酷く過したのだろう。
声にならない悲鳴が咽喉から迸り出た。

頭が痛い。胃の辺りが気持ち悪い。息が臭い。咽喉が渇いている。自分は混乱している。兎も角此処から脱したい。何も思い出せない────。

関口は打ち付ける痛みを頭部に抱えながら、四辺を見渡した。
誰のものとも知らぬ腕は関口に撒き付いている。
昨日何があったのだろう。
他人と寝台にいるなど。
思い出そうとするのだが、頭が痛くて記憶を辿ろうとするのは容易ではなかった。首筋に掛る安らかな呼吸も思考の遡上を阻む。
思い出せない。そして後ろも振り向けない。見てはいけないような気がする。
関口は兎も角眼前に広がる室内を見渡した。
「何処だ、此処…」
見知らぬ部屋だった。
天井からゆったりとした柔らかな鳥の子色のドレープが前面にあった。寝台の下には毛足の長いラグがあり、踵を踏み潰した室内履きが転がっていた。
ドレープの前には鋲打ちの美しい濃茶色をした皮張の椅子が一脚あって、其処には関口の物ではない外套が乱雑に置かれていた。
背後の人物のものだろうか。外套は男物に見えた。
「そんな…」
自分の胴に絡まる腕を確認する。襯衣の袖が肘まで捲られていて、象牙の腕が覗いていた。それは────男の腕である。
昨夜、自分は何をしたのだろう。
何故こんな状況に居るのだろう。
「信じられない」
関口は呆然と呟いた。
男の腕を掴み左右に引いた。躰に絡められてはいたが苦しくは無かったように、力は籠められていなくて、思った以上に腕は容易に外すことが出来た。関口は慌てて寝台から降りた。
但し、
「寒いよ、何するんだ」
と言う男の起床着きだった。
「未だ…早いだろう?」
背後に男の声を聞く。
躰が強張って背筋が伸びた。誰だ、と疑問に思うのだが、何処かで聞いた声でもある。
「関くん、」
男の声が何者かの名前を呼んだ。
「関くん、寒い」
寝台の中に戻れと言う意味なのか。否、その前に『関くん』とは誰なのだ。
「関くん」
腕を引かれた。それは不意打ちにも充分強くて、関口は背中から寝台の上に転がった。
「ふん、酒臭いが君は実に温かい」
声が至近距離で聞こえ、顔を上げると其処には、榎木津礼二郎の顔があった。
数瞬瞠目した後、関口の口から悲鳴が上がった。



 薄暗い廊下の所々に額が床に直置きされていた。蛍光灯の一切は無い。風景や人物のラフ画やデッサン画に見えるものもあれば、油絵の大きなものもある。架け替える心算なのか、それともこういう飾り方なのか、関口には俄に見当が付かなかった。  関口は再び搦まろうとする腕の主を押し遣って、辛々部屋を飛び出した。
見慣れない廊下だった。
………此処は何処なのだろう。
廊下にまで空調が利いている。
関口は廊下に配されたそれらの絵を見遣りながら闇雲に進んだ。それほど入り組んだ廊下ではない。直ぐに明るい部屋へ出た。 其処は緑溢れる一室だったが、珈琲の匂いがして、関口の頭痛を増長させた。
「起きたわね」

暖かな…湿度が高めに設定されているのだろうか、暑いと云っても好いだろう…明るい部屋だった。緑に溢れている。サンルームだろうか。
どう見てもこの土地のものではない生い茂る樹と葉の中に卓と椅子を置いて腰掛けた女性がいた。
「酷い顔色じゃない」
関口は自分の頬に手を当てた。
亜熱帯地方に見える大きな葉を少し押してその向こうにいる女性へ近付いた。女性は袖の無いワンピースを着ていた。背凭れと肘掛をヒヤシンスで編まれた大振りの椅子に座り、円い卓子には珈琲ポットと菓子パンの入った籠と新聞が広げられていた。
「珈琲…は、辞めた方が好いわね」
「あ…は…い」
卓子の上にあった薄青い三角フラスコのような壜の蓋を捻った。
彼女は美しい装飾の爪をしていた。家事をしなくても良い人物なのだろう。
宿酔ふつかよいにはこれよ。特に貴方は昨日殆ど食べてなかったし」
底が八角形をした呑み口の円い硝子碗に炭酸水を注いだ。
「あの…」
見覚えの無い女性だ。関口に女性の知り合いはそう多くないのだが、眼前の女性のことはまるで記憶に無かった。
「いつまで立ってるの。あなた。腰を落ち着けないさいよ」
女性はもう相向かいのヒヤシンスの椅子を指差した。
関口は襯衣の袖を捲った。自分が少し汗ばんでいるのは、初対面の女性を一緒にいるという状況の所為ではない。此の部屋の暖かさの所為だ。否、暑さだろう。湿度が高いのだ。
関口は恐々と薦められた椅子に座ると、硝子碗に口をつけた。
咽喉が渇いていたのだ。
一気に咽喉の奥へ押し込むと咽喉が鳴った。口当たりが良い。飲み干すと同時に再び水を注がれた。
「好い水でしょう?源泉は北部湖水地方のものなんだけど、ミネラル分が多いらしいの。でも塩味は余り無くて。胃腸に好いのよ。お店も同じものを出しているの」
「…店?」
女性は片眉をぐっと押し上げて、実に面白そうに関口を眺めた。そして猫のように笑った。
「何も憶えてないのね」
「…す、すみません…」
関口は顔を俯けた。
緑が目に入る。羊歯の一種だ。関口の在籍する理学部の中には学部当局が管理する植物園がある。個体別種に管理されるが知らぬ人が見れば殆どただの野辺に見える植物園の一角には南方から集めた植物を育成管理している小さな温室があるのだ。度々其処へ出入りする関口は眼前に初対面の女性がいるというのに、このサンルームの中では擬視感を覚え、落ち着けた。
「私のこともね?」
関口は傍の羊歯の葉を裏返しながら、謝った。
此処は彼女の家なのだろうか。
「はい」
「宿酔は脱水症状の一種でもあるから水は取ったほうがいいわ」
莞爾と笑う彼女の手には新聞があった。此の国で一番お堅いと言う新聞で何処か艶めいて見える彼女には相応しくないようにも思えたが、すぐにそれが外見から受ける関口の偏見であることを自覚した。
「酒は人を酩酊させるし、慥かに時々記憶の混濁を招くけど、そんな奇麗さっぱり忘れるものかしら?」
「え、」
「憶えて居たくないことがあるの?関口さん」
「…僕の名前…」
「知ってるわ。あの色男カサノヴァと私の前で名乗ったじゃない。彼が余り猿くんとせっつくものだから」
口端が優美な弧に持ち上がって、関口に微笑みかけた。
何故だか焦りを感じて関口は硝子碗を傾けて飲み干した。
「何処から憶えてないの?」
「あ、否…もう全然。何で此処に居るのかも…」
何故榎木津礼二郎に抱き締められて眠っていなくてならないのかも、憶えてないのだ。
抱き締められて────
思い出すと顔が熱くなって無闇に叫びだしたくなった。首筋に感じた彼の吐息も。けれどそんな動揺は押し留める。
汗の滲んだ額を拭った。
「暑い?」
「此処は貴女の家なんですか?」
「ええ。そうよ、私の家」
彼女は自分の碗に口を着ける。
「お店にね。諾、私向こうの通りでバルをやっているのよ。関口さんと彼は霧が出だして今日は客がもう来ないかもしれないって店員と話していた頃に遣って来たの」
目を少し上げると彼女の聡い眸が関口を覗き込んでいた。
「すみません…全然憶えていません」
「そう」
卓子の端に置かれた時計を掴んで時間を確認すると立ち上がった。
「私、此れから教会と買い物と店の用意があるの」
「あの…じゃあ僕も」
「そんな訳に行かないでしょう?彼未だ寝床なのよ。起きて貴方が何処にも居なかったら寂しくて泣くかもしれないじゃない?」
あの男の何処を見てそういうのか知れないが、少なくとも人が居なくて泣くような殊勝な人間じゃないだろう。
余程怪訝な顔をしていたのか、朗らかに笑った。
「冗談よ。未だ霧が濃いわ。列車は動かないだろうし、遠慮はいらないわよ。私お客って好きなのよ、」
小さな鞄を木の脇にあった椅子から引き寄せると卓子の上の天使の付いた使われていない灰皿に白銀色の鍵を入れた。此の屋の鍵であるらしい。
「じゃあ、」
歩みだす一歩に慌てて関口は声を掛けた。
「あのっ…有難うございます。それで…申し訳ないんですが、」
「なに?」
「お名前は、」
どうも、最近の自分は人の名前ばかりを訊いている。



 榎木津が黒い外套の裾を翻して足早に戻ってくると関口は駅に備えられた長椅子に腰を降ろして疲れた表情をしていた。慣れない飛行機とバスを乗り継いで漸く此処まで来たと思ったら改札は閉鎖されている。気負っていただけに落胆もある。
「チケットは払い戻せたよ」
「あ、ありがとうございます」
頭上から降った声に意識を浮上させ慌てて関口は礼を云った。ほらと数枚の紙幣と小銭を渡され関口はそれをコートに仕舞いこんだ。肩から掛けた鞄の財布を取り出してしまうことさえ億劫に感じるほど疲れていた。
「さてどうしようか」
「え、どうするって…」
「列車は動かないみたいだよ?」
「でも…そんな長い話じゃないでしょう?僕は此処で待ってますよ」
「ふーんやっぱり君は山から降りてきた猿なんだね。此方の事情をちっともわかってない!」
どうも此の男では関口は完璧に猿であるようだ。それにしても猿と口にする時の嬉々とした様子はどうしたものか。
「事情ですか?」
「此の季節の霧は凄いぞ」
「霧?」
「今は山の方が出ているみたいだけど、此方も直に一寸先も見えないほどになるよ」
『一寸先も見えない』とは能くある慣用句に過ぎないような気がするのだが…。
此の見目麗しい男が何処まで本気で云っているのか、俄には察し得ない。関口は自分が察しが悪いことも腹芸が通じないことも能く知っている。
「まあこうなったら列車は走らないね」
そう云われると困った。そもそもそんな列車が止まるなんてこと考えてもみもしなかったのだ。
「ほら、行くよ」
榎木津は関口の旅行鞄を取って、手首を掴み歩き始めようとした。
「え、鳥渡、榎木津さん?」
関口を掴む榎木津の手を掴み、関口は両足を踏ん張る。榎木津は変な顔をして向き直った。
「よし、君のすべきことを教えてやろう」
鞄を置くと、関口のものと比べて遥かに長い親指を榎木津は上空へ向けて突き出した。そして「一つ、」と云った。
「君の行き先は此処ではない、」
そうだろう?と訊ねられ、関口はそれが正しかったので肯いた。
人差し指が突き出される。まるでピストルのサインだ。「二つ、」と云った。
「君は宿を探すべきだ。こんな霧は冬の間でも滅多に出るもんじゃない。たぶん暫くはこの状態だろうね」
「……それって本当ですか?」
榎木津の言に思わず瞠目した。
時間が勝負だと云うのに、足止めを喰らうのだろうか。
「本当だとも、僕は嘘は言わない!」
中指が突き出された。
親指、人差指、中指の三本の指が関口に着きたてられている。それが実に下品なジェスチャの一種だと云うもとも関口は知っているが、何もいえない。
少し眉を顰めさせるくらいだ。
「まあ兎も角適当な店に入ろう。寒くて行けない」
「は?」
三本の指を突き立てるのを辞めて榎木津は自分の外套の袖を摩った。
「あの…でも…」
霧が引いたらすぐにでも出発したい。それならば駅で待つことが最善に思われた。
「駅で凝乎っと待つのなんか寂しくて適わないぞ!僕と一緒に居たほうが好いに決まっている」
何を言い出すのだろう。
薄らと気付いていたが、風変わりな人だ。奇妙と言うのか、奇矯と言うのか、変というのか。
…もしかしたら逃げたほうがいいのかもしれない…。
関口が少し後ずさるとそれを見咎めたのだろうか、腕を掴まれた。
関口は思わず、自分の見上げる位置に在る顔を振り仰いだ。
彼が笑ったり、捲くし立てたりしなければきっと彼のことを人等身大の彫像だったと思うに違いない。実に精緻でそして美しい彫像だと。
屈託の無い笑顔が其処にあった。
過信も慢心もしていない、麗しい笑顔だ。
「何だ?ぼうっとして、」
「い!いいえ!…なんでもないです。ただ」
見蕩れていたとは云えない。思わず顔を伏せて関口が言葉を伸ばしていると、関口の頬が温かなものに包まれた。
そして掬い上げるように顔を持ち上げられる。
「頬も鼻が真赤だ」
榎木津の掌は温かかった。
「本当に猿みたいだ」
榎木津の両親指の腹が関口の頬を撫ぜた。屹度猿みたいに尻尾があればそばえただろう。
「ふふ、震えているじゃないか。寒いなら寒いと云いなさい。何処か適当なバルに入ろう、君にも僕にも温かいものが必要なんだ」
手は関口の頬から離れた。榎木津は鞄を持って関口の背に手を宛がった。
「霧、大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。不本意ながら、僕は霧に慣れている。…まあ今回は役に立つのかな?そんな習性も。怪我の功名って云う?」
怪我の功名とは違うと思うのだが。せめて昔取った衣笠ではないだろうか。否、それも適切ではない。適切な表現があった筈だ。
思考を弄繰り回していると此の美術館か博物館のような美しい駅構内からあっと言う間に出てしまっていた。
 四辺は濃やかな霧が立ち込めている。
何処か明るく感じられるのは、霧の粒子に光が反射し合っているからだろう。関口は首を廻らす。粒子の流動が見えるだけだ。
しかも空気の所為なのだろうか。谷地に聞く白い霧と言うよりも、もっと煤けた重い灰色をしているように見える。
霧の中を人が突然現れて、関口は慌てて身を捩った。あちらには驚くことではないのか、それとも関口が見えているのか、謝る素振りもなく、また霧の向うに消えていった。
石畳を行く靴の音や、数多の人が喋る声、駅舎の前と言うこともあるだろうが、列車の嘶くような機動音が聞こえている。視界が狭い分聴覚過敏になっているかのだろうか。
…もし霧が無かったら此処はどんな風景が広がっているのだろう。
此の国の北辺最大の都市である。
中世にその規格が作られた放心円状に拡がる、石造りの美しい…華麗な町並みだとも聞いた。
「観光案内を頼みたいだろうけど、生憎僕はそういうのに明るくないよ」
心を読まれたのだろうか。
「観光なんて考えてませんよ」
そもそもそれが主眼ではない。彼の像が脳裏を過る。関口は髪に着いた埃を振り払うように頭を一振りした。
「ふん、じゃあなんなのだ?}
「…別に…。そういうことではなくて…」
中禅寺のことを初対面の人間に正直に話すこと関口は恥知らずではない。尤も世の中には初対面だからこそ、二度と会わない人だからこそ自分の心情を語れるという人間もいるだろう。
「これからどうしようというか…榎木津さんの云う通りに霧が霽れないのなら、今夜の宿を、とかそういう…」
どうしたってしどろもどろになる。
「まあそんなのは何とでもなるよ、」
「貴方は自分のことじゃないから…」
そんなことを云えるのだ。
当たる関口にはそれはそれは大問題だ。中禅寺を終えず、見知らぬ土地で聞きなれない言語に一宿の手配をするのは。
榎木津が首を傾げて凝々と関口を見ていることが解った。
関口は何となく居心地が悪くて俯いた。自分の物言いが失礼にあたったことを関口は知っていた。知っていて、発言をしてしまったのだ。愛想を尽かすといい。幽かにそう思った。
「猿くん、全く君の頭は鶏の程しかないのかい?そんな猿だのに」
「…え…」
「君の人間関け…。まあいいか、そんなことは今は。でもね、猿くん、君はそうやって切り捨てるかもしれないが、広い大海原には自分の時間を人に差し出せる奴もいることを学んでおくんだね、亀くん」
「カメ?」
何を云われているのか、解らなかった。
切り捨てただろうか?何かを。
自分の時間は自分のものだろうし、人に切り分けられる筈もない。
関口には理解し難い言葉が彼の端整な脣の狭間を通り抜けた。
困惑する関口を余所に、ほら、と手を伸べられた。
「逸れないように」
榎木津はいつまでも握り返さない関口の腕をとって、大股に歩き始めた。こっちかな、と云う榎木津の声を聞いた。不安を煽るような物言いだ。
「榎木津さんっ」
言い募ろうとしたがその隙も与えられず、榎木津は「バルだ!バルっ」と口にして強引な歩調で薄い膜を張ったような視界の街を歩み出した。



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