bisous_02


 嗚呼、琥珀色だ。


関口は未だ覚めやらない朦りとした視界に美しい琥珀色を見とめた。
日差し避けを下ろした窓。その下部が薄く開いて、日の光が微かに入り込み、男の眸の色をかせていた。
琥珀色の眸。
他人の眸の色を正面に見たのは何日ぶりだろうか。
関口は胸が疼くのを自覚した。
琥珀の眸。
それは眼球と言う柔らかな物体だのに、鉱石と変わりない程硬質にみえる。
侮辱的なことを安易に口にする非礼な男だと思えど目が離せなかった。人と目線を合わせるのは得意ではないのに、美しいと思うと目が離せなかった。
不意に彼の眸の色が暈ける。白皙の面も見えなくなった。否、焦点があっていないのだ。それが近付き過ぎた為だと云うことに気が付いたのは、彼の脣が髪に落とされた時だった。躰が強張り、眦が自ずから裂けた。
何を、するのだ…。
瞠目する関口に気が付くと、男は不意に莞爾にこやかに笑い(それは酷く綺麗で関口の脣が薄く開いた)両手を自分の肩口に掲げた。降伏の仕草だ。
「あ、あの…」
胸が早鐘を打っていた。
関口の膚の露出する首元からゆっくりと朱が頭の先へ上って行くのを男は面白そうに注視めていた。
耳の縁も目の周りも薄らと朱を孕んで、今にも融け出しそうなほど熱を帯びているのが解った。
関口は沫沫と口が開閉するだけだった。
何か云えばいいものを、と思うのだが顔を真赤にして何もいえないで居る。酷く焦っていることだけは解った。それに附随して身も硬直しているのか指一本動かせていない。痙攣したように長い鬱蒼りとした睫毛が振るえ、顔が朱を濃くするだけだ。
関口は赤面症なのだ。
自分でもうんざりするほどに簡単に顔が赤くなる。
日に当たることの無い生活をして膚が嫌になるほど白い所為もあるのかもしれない。
眼前にいる美麗な白皙とは種を異とする、謂わば不健康な白さでもある。
関口は己の赤面症は対人恐怖症の一種だろうと捉えている。
だから常日頃研究室に閉じ籠っているのに。
何も云えず沫沫とするばかりで顔に朱を満たして行く様子は見事に間抜けで、実際滑稽だったのだろう男は破顔した。それも酷く嬉しそうに、だ。
「どうも僕は野生的ワイルドなものを見ると、ついやってしまうんだ」
「わ…ワイルド?」
ワイルドと言う言葉に関口はサバンナを悠々と闊歩する優雅なまでに撓やかで滑らかな肢体を持つ大型の肉食獣を連想する。そしてそれは自分に結びつくことは先ず在り得ないものだった。寧ろそんな肉食獣の美しさは眼前の男にこそ、多少線が細すぎるかもしれないが、相応しい。
「赤さんなんか目の前に居ると、こう…愛でたくなる」
男は両手で小鞠を掴むような仕草をした。それは丁度赤子の胴の太さでもある。そして空想の赤子を抱え上げ、男はその赤子の甘い香りのする秀でた額に薔薇色の美しい脣を寄せた。
その脣が髪に触れたのだ。関口は叫びだしそうになり身を捩った。男の反対へせめてその存在を視界から追い出してしまいたかった。
「おい、大丈夫か」
ぎしりと微かな音がした。男が椅子の上をこちらに体重移動させてくる。つまりは関口へ寄ってきたのだ。
そして漸うと反らしたと云うのに、関口の顔を覗きこんだのだ。
「だ…大丈夫ですから!鳥渡…」
離れて欲しい、と懇願したかった。
「あ…あの、子供が…ワイルドなんですか?」
亀が首を甲羅に仕舞うように、首を俯けた。
ぎしりと再び音がしたかと思うと、男の声が先とは違い少し離れて聞こえた。離れて欲しいという懇願が聞こえたのだ。安堵して関口の肩から少しだけ力が抜けた。
「より動物に近いプリミティブと言う意味でね」
彼の中では赤子も野生の一種のようだ。
関口は男に気付かれないように溜息を着いた。きっと怪訝しな奴だと思われているだろう。それもこれも自分の対人恐怖症の所為だ。幾ら相手が美しいとは云え、同性なのだ。何故こんなに慌ててしまうのか…偏に己の性的嗜好にあることは明らかである。…それが対人恐怖症の一因となっているのだと云うことも関口は自覚していた。
それでも…付き合いは此の機内だけの話だ。今を過ぎてしまえばもう会うことも無いのだ。旅の恥は掻き捨てと云うではないか。そう思うことで少しだけ、気持ちが浮上する。軽くなる。明るくなる。
「ぼ、僕…そんなに…野生的、ですか?」
ワイルドだと言われたことなど万が一にも無い。
「獣は目を離さないものだろう?」
今こうして全力で男の目線を拒否しているではないか。
目を離せなかったのは、貴方に見蕩れていたのだ、とは到底云えない。
「………すみません」
関口は素直に謝った。関口の目線は此の人には酷く無礼に感じられたのだろう。
だから、あんな意趣返しをされたのだ。
そうでなければ関口の髪に口付けをする理由が見当たらない。ワイルドだとか云う戯言を本気にする関口ではなかった。そういう意味では関口は自分のことを知り得るだけ知っていた。
「何を謝っているんだい?」
「否…その…」
関口の顔からは朱が急速に曳いて行った。
自分が他人にとって取るに足りないものだと云うことを強く思い出したのだ。あの口付けは意趣返しに他ならない。関口を赤子のように愛でる筈もない。
関口は椅子へ座りなおし熱の曳いた顔を正面へ向けると凝乎っと黙った。視界の端に男の姿が映っている。
かりそめに会った人だ。もう二度と会うことの無い人だ。もう何も気にしないで置こう。
「それよりそろそろ着陸だよ」
鼓動が跳ねた。
途方に暮れる感覚が目覚める。何だかんだであれだけ怖がっていた初めての航空機移動もあっと言う間だった。睡っていたこともあるのだが、それ以上に此の臨席した男の御蔭でもあるだろう。多少無礼ではあったが、関口の恐怖心は此の男の前で薄れていたのだから。
関口は「ありがとう」と礼を言うのも何だか怪訝しいような気がして、どうして感謝を表して良いのか解らなかったが、右隣を向くと男も目線を感じて此方を向いた。
そして関口は極自然に微笑むことが出来た。
本当に有り難ったのだ。どれだけ此の機内で一人暗澹とした気分に陥るかと不安でならなかった。たった一人で、馴れない飛行機で、新たな恋人の元へ去ってしまった人間を追いかけるということは、正直酷くきついのだ。
「良い旅を、」
男は笑った。
またも、迂闊にも関口は見蕩れてしまった。酷く美しかったからだ。
けれどもそれで好いのだ。
もう逢うことも無い人だ。
きっとこんな稀有な人間に会うことは滅多にないことだ。
身に降る中での最大の幸いに違いない。
「貴方も、良い旅を」
関口も大分遅れてそう返し笑んだ。


 審査や検疫はクリアで何の問題も無かった。
空港を降り立ってさてどうしたものかと、関口は見知らぬ土地に萎縮するところだった。
湖水地方まで飛行機が出ていればと恨みがましく思うのだが、あの山並みでは飛行場を作るどころではないだろう。縦しんば作れたとしてもあの美しい風景に相応しくない。関口の胸は僅かに痛み、逡巡する。鳥口に背を押されて来たけれど、結果は見えているような気がする。否、既に突きつけられているのに一縷の望みに縋ろうとしているのだ。
「逢いたいんだ」 一人語ちた。
空港は郊外にあった。其処から北部湖水地方へ向う鉄道の始発駅へバスが出ているようだった。
バス乗り場にあの男の姿は無い。安堵なのか、残念に思う心なのか関口は彼の姿を人ごみの中で捜してしまっていた。
臨席の男は機内の座席でもたもたしていると長い跫で関口の膝先を跨いで颯々と姿を消していた。
彼には彼の行き先があるのだ。
関口は名前も聞かなかったことをほんの少しだけ残念に思った。
 一時間十分程バスに揺られて着いた街の中心にある中央駅は石と鉄と硝子で造り上げられたの美術館と見紛うほどの優美さだった。戦前の国家事業の一環として作られたそれは実に国の威信というべきなのか、関口はその広さを恨めしく思いながら眺めやっていた。
二十四番線まである構内では関口は迷いに迷った。
もしかしたら、これは行くなと言う啓示なのではないかと疑心暗鬼に陥らせるほど、迷ったのだ。
誰かに訊こうと思うのだが、長距離の移動で疲れていた関口は到底駅の中で忙しない人々に付いて行けるわけも無かった。人の流れに乗れない関口は鳥口に渡された行程表らしきメモを見るのだが、これも駅構内のことまでには言及されてなかった。
 途方に暮れ、半ば人に酔いつつどうにか北部湖水地方へ行く国鉄のターミナルに辿り着いたと思ったら改札が凡て閉じられていた。不図みれば窓口には長い行列が出来ていた。一時間近く迷った上に、改札が閉じている。此れに焦燥を掻き立てられない人間などいようか。鉄道職員に近付こうとするのだが、職員との間隙は他の人間に突かれる。
関口はただ「あ…」と小さく小さく声を上げる事しか出来なかった。無遠慮な人の腕に遮られよろけた処に柔らかいものにあたった。
「僕が助けてやろうじゃないか」
背後から声が掛けられた。振り向くと、其処には鳶色の眸があった。
西洋磁器人形が命を吹き込まれて動いている。
何故此処にいるのか。
関口が眼を瞠って見上げていると、「猿くん」と鳶色の眸の主が言った。
「君は能く眼が零れ落ちないな」
それはあなたのことだろうと云いたかったのだが、口が悖り言葉は滑り出さなかった。
「チケットは?」
男の大きくて繊細な手が関口の貧弱な肩を掴んだ。関口はそれで漸く自分のよろけた儘の状態から躰を持ち直すことに成功した。そして鞄の中から封筒を取り出した。鳥口の勤める出版社名が明記された封筒だった。
「十六時。猿くん。君、どれだけ構内で迷ったんだ?疾うに時間は過ぎているよ」
今は何時なのだろう、と慌てて周囲を見渡せば極至近距離に時計を見つけることができた。十七時を廻っている。
「払い戻しが利くか掛け合ってみよう」
そう云って長い脚で窓口に向う男に関口は思わず追い縋った。
「あのっ…!」
振り返るその秀麗な容貌に思わず顔に朱が差した。
「ん?」
向き直り男は首を傾げて見せた。琥珀色の柔らかそうな髪が揺れる。何で此処に居るのかとか、なんでまた出逢ったのかとか、人のチケットを持って何をしようとするのかとか、警戒心を働かせた方が良いのかとか、色色聞くことはあったのだ。けれども口から零れたのは本当に知りたかったことだった。
「あなたは…あなたの……名前、は」
花が咲くとか言うのなら此の笑みを言うのだろう。関口は多いに見蕩れて赤面した。薄紅色をした唇が緩み白い歯が覗いた。
「榎木津礼二郎」
暗色の外套の裾を翻らせて男は名乗って窓口へ向って行った。彼の背を見ながら関口は嘆息した。辺りが人で無秩序に混雑しているのを思い出したのはその時だった。関口は自分が印象の薄い人間であることを知っている。頻繁に通う食堂の親爺にさえ忘れられるのだ。親爺が人の顔を憶えるのが苦手なのかもしれないと言う選択肢を除くのであれば。良くぞ、あのエノキヅレイジロウと云う男は関口を見つけたものだ。



「あの下品な職業は健在かい?」
柔らかな発音が耳朶に触る。電話なのだから直接でそれは仕様の無いことだ。舌打ちをしそうになるのをどうにか留めた。
「なんのよう?」
煩わしそうに問えば電話回線の向うから微笑が聞こえた。
「不機嫌そうな声だね。まあ私と話しをするときの君は大抵そんな感じだけれど」
「解っているのなら」
電話などするなと言いたかったがそれは電話の発信主から遮られた。
「閑そうだな」
「あんたの話を聞くほどには閑じゃない」
「随分と辛辣だね」
流石に語気が強すぎだろうか。
「……別に」
言い澱むのもいつものことだった。嫌っているわけでも無く、ただ彼の言いなりに成るのが些か癪に障るのだ。
「まあいい。君が閑そうだと決め付けたのは、そうでないと私が困るからだよ。仕事の依頼をしたい」
「誰が?」
「私だよ」
漣のように笑う声が電話線の向うで漣めくのに眉を顰めて受話器を耳から外した。



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