bisous_01


 離陸して機体が安定を見せると関口巽は漸く肩の力を抜くことが出来た。膨らんだ風船に針穴を開けたような息を着くと隣の男が長い跫を組み替えるのが目の端に映りこんで来た。それまで隣席に人が居ることさえ気付きもしなかったのだ。余程、視野が狭くなっていたようだ。それほど自分が飛行機に緊張していたことを知らされた。
何せ飛行機に乗ることは初めてなのだ。それどころか国を出ることさえ初めてだ。
隣人の足を見詰めていると隣席の人物が―――それは男だった――――ごそごそと動き始めた。跫を辿って彼の様子を伺うと鳶色の眸と目が克ち合った。
咄嗟に拙いと思ったが、男は少し笑っただけだった。
襯衣の胸ポケットから折り畳まれた封筒を取り出すところだった。
取り出すと手に押し包んで、膝に押し付けるようにしてそっと中を確認した。何処か人目を避けているような行動に見え、有らぬ想像を引き立てられる。まさかテロリストと言うこともあるまい。
封筒を再び仕舞うと唐突に男は声を掛けてきた。
「大丈夫かい?」
「え?」
関口は思わず顔を上げもう一度男と目を合わせることとなった。
じんわりと耳が熱くなる。自分では見ることは適わないがきっと耳の縁は紅く彩られていることだろう。
隣人は美しい男だったのだ。 肩に触れるほどの鳶色の柔らかそうな髪を撫でつけ。同じ色彩を持つ眸と高い鼻梁に形好い脣はまるで彫像のようだった。 そして彼の口の上と顎に髭があった。際どい程にそれが彼の精悍さを引き立たせている。そう────、関口は見蕩れていたのだ。彼の脣の口角がキュと上がった。
そして「君は、猿に似ているね」と嬉しそうに宣ったのを瞭然と聞いた。時間を緩やかにした魔法はその一瞬で解けた。否、躰と意識が強張って、つまりは呆れたのだ。初対面の人間に何を言うのだろうか、この男は。別段に猿を嫌いではないし個人的な恨みも無いが、男の物言いに莫迦にされた気分になるのは何故なのだろう。此の男の軽い口調がそうさせるのか。顔を背けると、男は身を乗り出して関口の顔を覗き込んできた。
「猿くん、話を合わせて」
耳許で囁かれた声は本当に微かなものだった。────思わず耳をぱっと塞いだ。余りに傍で囁かれて、彼の脣が耳に触れたのだ。男は鳥渡笑ったがそれに対し謝る素振りもなく、要は気にしていないように見えた。
「…何…で?」話を合わせろなどと云うのか。意識せず関口の声は掠れ、小声となっていた。男はそれに応えず人を喰ったように笑顔を閃かせた。
「水を貰ってくるよ、待ってて」
男は片目を魅力的に瞬きして見せて立ち上がり、関口の膝を長い跫で跨いで行ってしまった。座る席より後方にある客室乗務員の許へ行ったのだろう。困惑しているとすぐに男は壜を片手に戻ってきた。緑色の無花果に似た形の壜は、その表皮に薄く水滴を浮かばせていた。冷たそうだ、と朦りと思った。
蓋を捻り開ける音がして「ほら、」と眼前に壜が差し出されていた。
目線で伺うと男は頷いた。飲め、と言うのだ。
毒でも入っているのか、と思ったのだが先刻蓋を上げる音も聴いていたし、関口を殺しても此の男が愉快な筈もない。
「あ、ありがと…ございます」
礼を言ってみた。だが男は先刻話を合わせろと言ったにも関わらずそんな礼には興味もないのか応じもせず、窓から外界を眺めている。関口は壜を傾けた。初めての経験に緊張で咽喉が渇いていたのも慥かなのだ。水が関口の口内に流れ込んでくる。変な味はしなかった。冷たくて清冽だった。
「僕も一口貰ってい?」
「え、あ、はい…」
いつの間にか外界を眺め遣っていた筈の男の眼は此方に向き直り、会話を進めた。戸惑いながら返答すると、目線だけを辺りに巡らせ男は胸ポケットから封筒を取り出し膝の間に置いた。小さく膨らんだ封筒である。長い指が封筒の中から取り出したのは五cmほどの透明な筒だった。筒の半ばまで土が詰まりその半分の空間に緑色の植物が芽を萌えさせていた。そして蓋に壜から水を注ぐと其処へそっと数滴垂らした。
「あの…それは?」
小さな声で問うと左手の人差し指が脣に当てられた。脣と目線が笑っている。「黙って」の意味である。関口はそれにどんな意味があるのか解り兼ねて白地に顔を顰めた。関口の顔は余程変な様相だったのだろう、男は一瞬間を置いて肩を震わせて笑った。但し声は上げなかった。それを再びポケットに仕舞うまでは。
「君と同じようなものだ」
小さく、耳許で囁かれた。吐息が耳に掛って一瞬首筋が粟立った。そんなに近くで話さなくてならないようなことなのだろうか。
「僕と同じ?何が?」
男は一瞬天を仰いで「あー」と声を上げ再び耳に脣を寄せた。
「輸入禁止の保護物件」
囁きが一瞬何を言っているのか解らなかった。だが先般の男の科白を思い出した。猿類の中で絶滅危惧種など希少性の高い固種はワシントン条約によって国際的な取引が規制されているのだ。鮮々と関口は男を凝視した。これほど真正面に男の容姿を観察しても最早無礼ではないだろう。男の方が余程非礼なことを口にしているのだから。その美しい横顔を注視して、産まれて初めて本当の美青年と言うものに遭遇したと関口は思った。
何て失礼な奴だろう。関口は口を開けて横にいる男を奇異な眼で見詰めていた。けれども怒りが燐寸着火のように涌くこともなかった。否それができるような状態ではなかったのだ。此の無礼な男にただただ見蕩れてしまったのだから。
「口は閉じた方が好いよ」
艶然と笑む顔が向けられる。慌てて関口は口に手を当てた。顔に熱が集るのを感じる。赤面症は関口の得意技である。
「飴玉でも放り込みたくなるから」
まるきり動物扱いだ。
「いらない、そんなの」
怒ったように顔を俯ける。これで赤くなった顔も見えないだろう。ほんの少し安堵した。
其儘眼を閉じて、睡眠導入の姿勢に入った。関口は何処でも眠れる習性を持っている。睡眠は関口にとって安寧と同様である。仮令其処でお得意の奇妙な夢を見ようと、現実だとて余り代わりはしないのだ。
今だって此れ程の美青年に揶揄されているのだし。何故人は自分の矮小さを看破するのかそれがいつも不思議でならなかった。 其処まで思考が進んで自分が少し落ち込んでいることに気が付いた。こんな美青年に。けれどもこんな旅行の初っ端としては上々なのかもしれない。此のくらいで丁度良いのだ、自分には。眠りに落ちる半歩前、深い吐息が身の内から出て往くことを朦りと認識した。



 関口巽は大学の研究所に勤める若き粘菌の研究者だ。粘菌は変形菌の別称である。植物界の一門で胞子が発芽してアメーバ状の細胞となり集合して運動性のある変形体となり次代を作って往く。動菌とも呼ばれるそれは生き物である。日夜粘菌を眺め遣っているのが関口の主な仕事だ。時には迷路をこさえて粘菌に解かせたりもするが正直余り闊達な研究であるとは思えない。じめじめとしていて何処か暗い。粘菌がそういう生き物だから仕方ないのだが、それでも実際関口は自分に似つかわしいのかもしれないとも思っていた。
 飛行機に乗ったのは研修室の教授が先般大きな企業の種苗部門と研究を提携することになり忙しくなる矢先だった。帰った時には研究室に関口の席は無いかもしれない。悔いが無いとは言えない。できれば席が無くとも悔いは無いと言えるような帰還であって欲しい。正直自信はないのだけれど。
 彼から。そう、『彼』だ。相手は関口と同性の、男だ。彼から想いを告げられたのは青天の霹靂としか云えないことだった。もしくは天変地異の先触れだろう。
高校時代に知り合って、人から離れて殆ど孤立していた関口を長い時間を掛けて施したのは中禅寺だった。想いを告げられて散々困惑したのちに、漸うと躰を重ねたことも未だ新しい記憶だ。
未だ未だ取り払う垣根は沢山あった。
身に備わった臆病さ加減は如何にしても関口を順調に真直ぐと中禅寺に向くことを許さなかった。関口は自分が実に緩慢と鈍間だがそれでも自分が彼に開かれて行くのを感じていた。
だのに、彼は姿を消した。
関口の前から。突然で唐突だった。彼は大学卒業後に教職に就いていたのだが、それも辞めて棲んでいた部屋も引き払い彼の物は何も無くなっていた。世話になった人や近隣所辺には実に忠実忠実まめまめしく礼を尽くしてのことだったらしい。関口だけが其処から取り残されていた。何も告げられなかった。その気配さえなかった。幾つかの彼の友人の間を渡り、漸く知りえた彼が関口の許から姿を消した理由は、彼は家の勧めた結婚をするらしい────ことだった。
悲嘆に呉れたのは言うまでも無く、何が悪かったのかなど、判りすぎていた。関口は自分が風采の上がらない小男だと云うことは誰に云われるまでも無く知っているのだ。性格も暗く、決して面白味のある人間ではない。家の望んだ女性と関口と、彼にどちらが相応しいかなど秤にかける必要すらなかったのだ。
 「何でもっと本人の前でそういう姿を見せなかったんですか!」
そう怒鳴った青年の声が耳の中で反復している。今も。鳥口青年の声だ。三年前に知り合った、関口の極極新しい友人だった。眼が寄っていてまるで橇犬を思わせるが中々の二枚目である。その軽薄さを覗けば。研究室の教授の原稿を取りに来る若き編集者で、余りに教授が待たせるものだから何度も研究室に通い、酷く人見知りをする関口といつの間にか親しくなった。人懐こいのだ。酷く勘の良い男で、本人の弁では報道屋に成りたいそうなのだ。つまりは目鼻の利く男である。彼は関口が誰に告げたことの無い事柄もいつの間にか知っていた。関口の同性の恋人ことも、その相手が去ったことも。



 鳥口守彦は本当は写真家になりたかった。カメラに触っていれば倖せだし、人像でも風景でもファインダの被写体となればどれでも愛せた。本意ではない仕事で訪れた学校の研究室でまるで小動物のように丸くなって眠る人間を撮りたいと思ったのは、彼に好意を抱き始めた後だったのか、先だったのか思い出せない。もうどちらでも良い。彼を撮りたかった。正直彼に初対面で好意を抱く人間など殆ど居ないだろう。居たとしたら奇跡だ。そんな鳥口だからこそ関口に恋人がいたことを知っていた。彼を見ていたから。そして彼らのことを知っていたのは恐らく自分だけだろう。
 鳥口は聖誕祭の前日に余り治安の良くない地区に建つ古めかしいアパートを訪れた。嘗て移民を多く受け入れた新興国である此の国では多種多様な言語が話されている。関口が研究室に通う為に借りている安価のアパートが建つ一帯では嘗ての移民が聖誕祭をナターレと呼んだ。そのナターレの時期は同じアパートに棲む住人も殆どが家族の許へ戻り閑散としている。関口はそんなアパートを壊れた暖房器具と共に寒々しく朦りとしていた。彼が朦りとしているのはいつものことだが。
 食事に誘い出して、酒を呷る関口の仄紅く染まった皮膚を眺めていた。じっとりと汗が滲んで、彼の一日を過ごした体臭が顔を寄せるとほんの僅かに馨った。それさえも甘いと嗅覚は捉える。先刻から料理はフォークで突付かれたり、切り刻まれたりして弄ばれるばかりで量が減る様子は見えなかった。
「関口さん、余り強く無いんだから酒ばっかじゃ駄目ですよ」
酔いに染まった眼が緩慢と鳥口を見る。鬱蒼うっそりとした睫毛が重く影を作って見せるのは此の店の照明の所為だろうか。そして目の縁が赤く見えて、勿論それは酒によってのことなのだが、鳥口は胸がざわついて仕方なかった。
「うんそうだね。でも余り、食欲が、無くてね」
ゆっくりと瞬きをして関口は僅かにぎこちなく微笑んだ。そしてまた硝子碗を傾ける。フォークで原型を留めない皿の上のものを弄ぶと、そっと口を開いた。
「君は、知っているんだね?」
誰にも言わなかったのに。
「彼奴と僕のこと」
声が擦れていた。 「ええ」
「だと思った」
「何でです?」
「解らない、何でだろう?君だったら知っていても怪訝しくは無いって思うんだ」
それは鳥口が関口を見詰めている眼に気付いていているからだと鳥口は思ったのだが、同時に関口が自分が気付いていることに気付いていないことも鳥口には解っていた。
「彼奴の…」
口籠る。関口の親しげなに呼ぶ『彼奴』と言う単語は他でもない関口の、今や不実な恋人だった。そう実際不実なのだ。応えられないでいると、鬱蒼りとした睫毛が持ち上がって、関口が此方を見た。そして鳥口の表情を読んで関口は少しだけ眼を反らして困ったよう微笑んだ。
「それも…知っていたんだね」
知っていた。
「関口をどうするのか、」
と、彼────中禅寺秋彦に問いもしたのだ。
 中禅寺は酷く兇悪そうな目線で鳥口を凝乎っと睨んで、やがて今の関口と同じように眼を反らして困ったようにした。
否、困ったように見えたのは鳥口の主観で実際にはそんな表情はしていなかった筈だ。そんな感情が無いまでは言わないが、人前に吐露するような人物ではないというのか鳥口の抱いている中禅寺感だ。
「君が、関口に言いたいのなら言えばいい」
中禅寺はそれだけ言った。
「以前のあの写真の人ですか?」
「写真?」
「貴方が以前持っていた、否…あれは写真じゃなくて…」
絵葉書だった筈だ。水仙の野辺と美しい湖と山の天辺に万年雪を頂いた風景を映した写真。鳥口の記憶の中ではそれは『写真』でしかなかった。だからこそ憶えていたのだ。
「湖水地方のものでしたね、とても綺麗な」
関口の属する研究室で、偶然中禅寺と鳥口は出会した日に手にして凝乎っと見入っていた葉書があった。葉書に記された名前は女性のものだった。
「あの時から貴方は関口さんを裏切っていたんですか」
「裏切っては居ない。そう、今も」
「何を云ってるんですか!そんな別の女性に走るって…」
「走っちゃ居ないさ。今も心は関口と共にある」
「いけしゃあしゃあと何をっ」
「最初から、だ」
「え、」
「最初からだよ」
一瞬中禅寺の顔から表情が消えた。初めて紹介されたときから肺病患者のようだと思った程不健康そうだったが、これほど白い顔にみえたのは初めてだった。鳥口は怪訝な顔をして、やがて思考が辿り着く。
「最初からって…最初からそういう心算…だったんですか?」
男は凝乎っと応えない。鳥口は重ねた。
「最初から、最初から彼女との結婚は決まっていたんですね。期限があったんだ、貴方には。その期限の前に…関口さんと?」 関口を最初から切り捨てる心算で、跫を踏み出したと言うことか。
中禅寺は応えない。その顔には感情も見えなかった。ただ透徹として冷淡と見える。常には、それほど会ったことがあるわけではないが、能く喋るし能く笑う人物だったのに。けれども今は頑なに口を鎖している。最初二人で居る処を見てから関口はとても此の男に依存しているように見えた。そして男はそれを許容し、否積極的に受け入れていた。二人の間は緊密で、性が違えば番いにしかみえなかっただろう。実際には関口は二人の間が恋愛に発展するとは露とも思っていなかった筈だ。それに思い至りもしなかったのだ。跫を踏み出したのは、小賢しい蛇のように知恵を授けたのは、此の男だった。鳥口は二人の関係の変化を見てきた唯一の観客である。
「結婚してしまうから、他の女性と生涯番うその牢獄の最後の思い出作りにと?」
「君は随分な言葉選びをするようだね。それともそれが君の仕事の一つだったか。此の研究室に通うかぎり叡智と理路と懸命な文章をこそ弄ぶと思っていたのだが、君の口から紡がれるのはまるで醜聞だ」
中禅寺の薄い唇から皮肉が閃く。鳥口の躰はぞわりと震えた。怒りとその興奮に。
「言葉を換えても、然程代わる事実とは思えないです」
「成程、」
「貴方…否定しないんですね」
男は頷きも頸を振ることもしない。
「そんな…そんな旧態依然とした結婚をしなくてはならないんですか!」
「僕には妹がいる。歳の離れた、未だ就学が必要なほどに幼い。小賢しいがそれなりに可愛い。兄弟だからね」
「それが?」
「彼女は今僕の相手の家で暮らしているんだ。育てて貰っている」
「なんですか、それ。態の良い人質ですか?」
「流石に失礼だな。…僕と彼女との結婚はもっと昔から決まっていたんだ。本当は学業を終えてすぐと望まれていたほどだ」
関口がいたから大学卒業直後とはならなかったのだ。それほどには関口が大切ではあるらしい。けれども家と兄弟を犠牲にするほどの存在ではないのだ。
「赤の他人の家に子供を預けれることも、預けられる子供も堪ったものではないだろうな。でも此の場合は違う。そもそも縁付くことが予め決められた家に妹は養育されたんだ」
「だからって関口さんは…!」
「だったら君が口説けばいい。僕に妻が出来るように、関口には君が出来る」
イーブンだ。薄く男は哂った。そして暗く───。
 「関口さん!」
硝子碗を呷って液体を嚥下させると沸沸と躰の中が熱くなり、意気込んで鳥口は云った。顔を上げて鳥渡驚いたようにする関口を鳥口は抱き留めたい衝動に駆られる。駆られるがそれは抑えるべきものだ。自分はあの男とは違うのだから。
「…未だ好きなんでしょう?」
「え…」
紅い寝惚けたような顔をして囈めいた声を発した。
「じゃあ、行きましょう」
その細い腕を掴む。関口は筋肉も脂質の無いような細い腕をしていた。
「え、ど何処に?」
「追うんですよ!行きましょう。中禅寺さんの処へ」
「む、無理だよ!」
「何故です?」
鳥口は紅い関口の顔を覗きこんだ。そして顔を歪ませて唇を噛んだ関口は目を彷徨わせた。
『だったら君が口説けばいい。僕に妻が出来るように、関口には君が出来る』中禅寺の囁く声が聞こえるようだった。けれど、生憎と鳥口は好意を持っていようと傷心な関口を画策して手にしようとするほど厚顔ではなかった。
人を想うと言うことに敬虔に純情を捧げているのだ。中禅寺と関口が訣別、本当の意味での訣別を経るまで、口説くことも手を出すことも出来よう筈が無い。
「第一、彼奴が何処に居るのか」
知りもしないのだ。
「知ってますよ」
鳥口は卓子の上に投げ出された関口の手に自分の手を重ねた。
「僕を誰だと思っているんですか。本来、報道希望なんです。そういう探ったり調べたりとかは僕の得意分野です」
入社時は折角出版社に就職したのだからカメラを担いでロバートのようになろうと思っていた。他国の第二次世界大戦後の内戦で一人の兵士が撃たれ、斜面を滑り落ちるその瞬間を捉えた白黒写真が鮮々と瞼に焼き付いている。人の命の瞬間を映したあのモノクロオムがどれほど痛ましく美しいものなのか鳥口は悲しいまでに羨望した。
けれどそれはもう望むべくもない。鳥口の目指す写真もジャーナリズムもまるで違う方向へ進み始めてしまっている。
「そうときまれば急がば回れ右!と云うでしょう」
諺を間違えるのは此の青年の愛嬌だ。その意気込んだ顔が泣きそうに見えたのを関口は矢張り泣きそうに見詰めていた。



 眠る隣席の男の眼前に手を翳して幾度か手を振ってみた。眠りに落ちるとそっとのことでは起きない人種なのか寝扱けている。
辺りに目線だけを廻らせて、膝に抱え込んだ鞄をそっと覗く。預けた荷物がどれ程のものかは知らないが、持ち込んだ小さな鞄には然程ものがあるわけではなかった。薄い財布と旅券とチケットだ。そして人の手書きの小さな用紙が入っていた。眠る男の道筋だろうか。出発地は紙の下側に書かれ、その終着地は紙の上部のようだ。その終着地を見ると少し眼を瞠った。そして口角が自然と釣りあがった。
「渡りに鳶だな」 諺を間違えるのは何もあの青年のみではないのだ。そして鞄の内部のポケットのようなスリットに封筒を差し込んだ。



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