その、ありえない在り方、

魅力について

      1887(明治20)〜1928(昭和3) 41歳

 葛西善蔵という作家を知ったのは、2005年4月の津軽旅行でだった。
 名前を聞くのも全く初めてだった。

 旅行の初めに書店で太宰治「津軽」を購入した。

 太宰は「津軽」の中で岩木山に関しての葛西善蔵の発言を述べていた。
 岩木山の秀麗さを自慢するのは井の中の蛙、てなちょっと皮肉めいた言葉・・・。
 ん?、葛西善蔵?とこの名前が私の頭にインプットされた。どんな人なんだろう?

 弘前の郷土文学館には葛西についてもパネル展示されていた。
 とても破滅型などなど説明があり、丸い眼鏡に縁取られた端正な顔立ちが印象的だった。

 数日後に訪れた青森市の青森県近代文学館でも郷土の作家としてあげられている。
 そして、ここには没後70年特別展のパンフレットが販売されていた。
 平成10年秋に開催されたようだ。7年前か。
 このパンフレットはとてもよくできていて、作家葛西善蔵の足跡がわかりやすく解説されていた。
 地図や写真も豊富だ。

よくできたパンフレット!

昭和3年2月にこの写真を撮り、7月に亡くなっている。

 そして、この青森県近代文学館で鎌田慧氏が、
 「椎の若葉に光あれ」という葛西善蔵についての伝記本を書いていることも知った。


 同じ弘前出身の鎌田慧氏は親愛に満ちた筆でこの本を書いているように思う。
 石坂洋次郎などが後に葛西について書いているものを紹介しているのは、興味深い。
 友人への手紙から葛西の置かれた状況や心情を考察したりしている。
 葛西善蔵の故郷(妻)とのかかわり、鎌倉の寺(おせい)とのいきさつ。
 作家仲間との交友などが、よくわかるように述べられている。


 葛西善蔵はひとことで言えば、私小説家。
 自分自身や親族や友人を題材にした小説を書いた。
 そこには社会背景や時代i的描写はほとんどない。
 ひたすら身の回りをちまちま述べている印象だ。

 だが彼の生き方そのものは凄い。
 肺結核なのに酒を飲み続け、妻の実家や弟に金を頼っている。
 晩年は妻子を青森の妻の実家にまかせ(子供3人)、鎌倉建長寺からのおせいさんと東京で同居。
 おせいさんにも子供を2人産ませている。
 それにもかかわらず、生活が困窮すると青森や日光、別所温泉などの旅館に逃走。
 宿代が払えないと、友人関係に頼っちゃう。
 酒乱で、おせいさんに暴力を振るうこともあったらしい。
 まったく、なんて男だ!

 友人のスキャンダルを小説の題材にし、友情にヒビが入るとおもいきや、
 結局和解している。
 死の床についていても来客は多かったらしい。
 もてなしかたに親愛の情があったのだろう。
 というか、それには葛西善蔵の人間的魅力が人を惹きつけたのだと思う。


文学に自己の生涯をかける不退転の決意

 とは、葛西善蔵が22歳のときのものだ。

 この前年に彼は津軽で結婚していて、長男が誕生したばかりだった。
 妻のつるさんはこの後長女次女を産む。しかし、10年間というもの東京と青森を行ったり来たりさせられた。
 彼女の実家は地主で、善蔵は生活が困窮してくると妻子ごと実家に預けたり、金策に走らせたりした。
 まったく、なんてヤツだ。
 大正7年〜昭和3年の10年間は実家に預けられたままで、別居状態だったのだ。
 善蔵は晩年には離婚届を持参したこともあった。
 しかし、つるさんは応じず妻の立場を貫いた。
 親とか親戚は離婚を勧めただろうに・・・。
 ???
 つるさんの心境もちょっと理解できない。
 つるさんは善蔵の死後40年も長生きされた。(昭和43年)

 第二の妻、おせいこと浅見ハナさんは善蔵が亡くなるまで5年間ほど同居し、その間善蔵の三女四女を産んでいる。当時すでに善蔵は喀血していて、それは過度の飲酒などの不摂生も加わりどんどん病状が進行していった。まあでもそれも善蔵にとっては小説の題材なのだが。
 小説が進まないとおせいさんは当たられ、逃げられ、ほんとどうしてこんな男と一緒にいるんだろう?!
 でも自分が小説の題材になることは幸福だったのかな。
 こういう犠牲的あり方は今もあるだろうが・・・。
 浅見ハナさんも平成4年まで存命だった。

 まったく現代では考えられない夫婦関係だろう。
 明治大正と庶民は全体的に貧乏だったから、人間同士の結びつき、価値観は別物だったのだと思う。



 葛西善蔵の葬式には200人が集まった。
 弔辞は徳田秋声、谷崎精二が詠んだ。
 また、文壇で「葛西善蔵遺児養育資金」が集められ、志賀直哉や佐藤春夫、室生犀星などが協力したそうだ。
 いかに仲間付き合いがよかったかという証拠。
 葛西善蔵の人徳のなせる結果だろう。


 また、近所に葛西ファンの酒屋があったらしい。
 ただで酒を差し入れてくれた。
 立派な葬式だときいて、善蔵はさすがに自分が見込んだ人物だった、と自慢したそうだ。
 葛西善蔵には不思議な魅力があったのだろう。


藝術院善巧酒仙居士

 なんと洒落た戒名だろう!
 葛西善蔵は弘前の菩提寺徳増寺に1928(昭和3)葬られた。
 そして、1981年(昭和56)鎌倉建長寺回春院に三女ゆう子さんによって墓碑が立てられ、徳増寺から分骨されている。
 つまり、お墓が2つあるのだ。たいしたもんだ。



いちおう読んだ作品

題名 発表年月 発表雑誌
哀しき父 大正元年9月 奇蹟
悪魔      12月 奇蹟
贋物 6年2月 早稲田文学
子をつれて    7年3月 早稲田文学
浮浪   10年5月 國本
父の出郷   11年2月 中央公論
不良児 11年8月 改造
父の葬式 12年2月 中央公論
蠢く者 13年4月 中央公論
椎の若葉 13年7月 改造
湖畔日記 13年11月 改造
血を吐く 14年1月 中央公論
死児を産む 14年4月 中央公論
われと遊ぶ子 15年1月 中央公論
酔狂者の独白 昭和2年1月 新潮


  葛西善蔵随想集  阿部昭 編  福武文庫

    これは味わい深い随想集だ。
    なかでも興味を魅かれたのは、大正9年花袋秋声生誕50年記念祝賀会での記述。
    葛西は徳田秋声に師事していて、この祝賀会には裏方として参加のつもりが手違いで列席することになる。
    その準備段階や周りからのむかつく?あしらいなどが詳しい。
    当然彼の服装も気が引ける有様だったらしい。
    出席者は当時の文壇の面々や文化人。
    正宗白鳥、武久夢二、有島武郎、柳原伯、相馬泰三などなど。
    そして、テーブルの向かい側には与謝野晶子平塚雷鳥

      ・・・・僕は女の人を見たのは、あの時初めてだった。
         ああいう人を見た僕は、随分きまりが悪かったが、また気持がよかったな・・・・。

    この時、葛西善蔵33歳。平塚雷鳥34歳。与謝野晶子47歳。
    同じ空気を吸っていたのだ。

    葛西が生きたのは大正デモクラシーのまんなかだったが、雷鳥などとは隔たりが大きい。





  大村彦次郎 「文士の生きかた」 ちくま新書

    この本に葛西善蔵がピックアップされていた。
    なんと2番手、芥川龍之介の次にだ。
    内容的には、やはり葛西の周囲への迷惑ぶり。
    そして、それにもかかわらず、彼を助けた人がけっこういたということ。
    葛西の実弟の勇蔵や従兄弟の北川清蔵は人生かけて葛西善蔵を援護している。
    また、「改造」や「新潮」などの編集者は葛西作品の魅力にとり憑かれて日参したという。
    原稿取りも並大抵の苦労ではなかったらしい。
    住む家の世話までしたようだ。

    今でこそ、名前を知る人は少ないが、当時はけっこう人気作家だったのだ。


  古川智映子 「一輪咲いても花は花」 津軽書房

    善蔵と浅見ハナの出会いから別れまでが詳しい。
    鎌倉での出会いのいきさつ。関東大震災の様子。
    本妻つるさんとの面会。(青森の浪岡、つるの実家)
    弘前の旅館滞在の描写。
    三宿の信州屋の想像できない援助の数々。

    おせいの目から見た葛西善蔵の姿がリアルだ。
    死に逝く数日の親族や文壇関係の訪問者の様子。





  別所温泉 大島屋について

    大正8年5月末〜9月初め、大島屋に滞在して「不能者」を執筆した。
    滞在にあたっては、編集者から原稿料を前借した。
    だが、連日芸者を揚げてどんちゃん騒ぎ状態で、さんざん遊興代に使ったらしい。
    旅館代を預かって別所温泉に向かった友人もミイラ取りがミイラになったという。
    まったくなー。
    そして、これらはみんな小説の題材になったのだ。
    かくして別所温泉は有名になった。

       中年の恋などし 狸も目になみだ       

                  善蔵が大島屋に残した短冊

  鎌倉・建長寺 2009・10・14
    宝珠院はまったく昔の面影はない。石段のみが往時を想像させた。
    回春院の墓には善蔵・浅見ハナ・北川清蔵が眠っていた。


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