Vol.9 12/June/98


「親知らず」のハンラン



 仕事で20日ばかりアメリカへ行ってきた。市民活動の取材が目的の一人旅だ。

 アメリカのなかでも、とりわけNGOの活動が活発なことで有名な、サンフランシスコにまず入った。複数の市民団体を訪ね、責任者にインタビュー。エイズ・ホスピスのペンキ塗りや、ホームレスの人たちのためのスープ・キッチンを、地元のボランティアに混ざって手伝う経験もできた。

 取材は順調に進み、日程を半分ほど消化したところで、ワシントンDCに移動した。
 折りしもアメリカは4連休に入ったところだ。ラッキー! 私もここらで中休み。初めてのワシントン、おのぼりさんの旅行者気分で観光三昧でもしちゃおっかなっと、うかれかけたその矢先、2年前に治療した親知らずが突然うずき始めた。

 最初は気のせいだと放っておいたが、痛みはどんどんひどくなり、たちまち食事もとれなくなった。翌日にはもうヨーグルトさえ喉を通らない。歯医者へ行こうにも、連休のおかげで開いている歯医者などないのである。

 観光どころの騒ぎじゃない。連休なんて、もはや恨めしいだけだ。
 しかたなく年中無休のドラッグ・ストアに駆け込んで窮状を訴えると、店員は棚の奥からチューブ入りの薬を取り出し薦めてくれた。「がまんできない歯の痛みに即効!‘最強の歯痛止め’」と、パッケージに書かれている。

 早々に塗り薬を買い求め、ホテルに戻るやいなや、奥歯の周りに塗りたくった。
 日本ではお目にかかったことのない、ゲル状の部分麻酔薬だ。しかも「最強」というだけあって、たちまち口の中が痺れてくる。これは効きそうだと、期待を込めてじっと待つ。だが5分たっても、10分たっても、奥歯の痛みだけはいっこうにおさまらない。

 もう一度、透明なゲルを今度はさっきの二倍くらい指先にとり、痛む歯の付け根に慎重に塗りこんでみた。
 唇も、舌も、薬に触った指先までもが痺れてくる。それでも肝心の歯の痛みだけは、せせら笑うように続くのだった。

 次の日には熱も出てきた。
 頬っぺたは腫れあがり、目を開けているのさえ辛い。痛みはもはや悶絶状態。自分の舌が触れただけでも飛び上がるほどだ。一睡もできないままベッドに横たわって、ズキン、ズキンと脈打つ痛みを数えていると、「ひょっとして、このまま死ぬんじゃないかしらん」などと弱気になってくる。
 いまいましい連休が終わるのは火曜日。今日はまだ日曜日だ。あと丸二日もこの状態でいるなんて、想像するのも耐えられない。仕事のことも気がかりだ。苦労してとったアポが来週早々入っている。ここまで来て、キャンセルだけはしたくない。

 よろよろとロビーに下りて、フロント係に泣きついた。彼は電話帳を広げて片っ端から歯科の救急医にあたり、自分のかかりつけの歯医者にまで電話をしてくれたが、すべて空振り。自分の歯痛の記憶を思い出してか、フロント係は酸っぱいような表情でそっと自分の頬をさすり、気の毒そうに頭を振った。

 ふと、成田空港で旅行者保険に入ったのを思い出した。
 歯の治療に保険はおりないが、それでも歯科医のリストくらいは保険会社にあるはずだ。藁にもすがる思いで「お客さまデスク」に電話をしてみるが、結果はまたもや当て外れ。歯科の契約医は紹介できても、休日診療をやってくれるところがないという。

 ああ、もうダメ…。いや、きっとまだ何か手だてはある。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ、痛みで朦朧となるのをこらえ、必死で知恵を絞った。

 そうだ、日系人の歯科医はどうだろう? 「お客さまデスク」は日本人が相手なのだから、契約医ではなくても、日系人医師の連絡先がわかるかもしれない。こうなったら同胞のよしみにすがりついてでも、何とかしてもらおう。
 再度「お客さまデスク」を呼び出した。

 親切な「お客さまデスク」の女性は、泣きそうな私の訴えに同情してくれたらしい。受話器の向こうでしばらくガサゴソやっていたが、やがて勝ち誇ったように、ワシントン市内で開業している4人の日系歯科医の名前と電話番号を告げた。
 やった! このうちの誰かをつかまえて、今すぐ診てもらうのだ。

 1件目は留守電だった。次にかけたところは誰も出ない。呼び出し音だけが虚しく鳴っている。
 祈るようにダイヤルした3件目で、ようやく応答があった。年配の男性のきれいな英語が、受話器から穏やかに流れてくる。なんて頼もしい声だろう。もちろん留守番電話なんかじゃない。

 だが、手短に事情を説明すると、先生は困ったように言った。
 「気の毒ですが、今日は診療はやっていないんですよ。午後から旅行に出るんです」

 ここで引き下がったらおしまいだ。見得も体裁も知ったことかと、私は必死でかきくどく。

 「お願い、電話を切らないで! 非常識なことはよく承知しています。でもここで先生に見捨てられたら、私、一巻の終わりなんです。痛くて痛くて、身体中に親知らずの毒が回って、頭がおかしくなるか、死んじゃうかもしれません」

 ついにオオタガキ先生は笑い出した。

 「わかりました。何とかしましょう。2時までなら待ってあげられますから、すぐにいらっしゃい。住所はわかりますね?」


危険なのはどっち?



 これまでの人生で、歯医者へ行くのがこんなに嬉しかった試しがあったろうか。世の中に救世主がいるとすれば、このときのオオタガキ先生こそ、私にとっての救世主だった。勇気百倍、俄然元気になってホテルを飛び出した。

 飛び出したものの、今度はタクシーが見つからない。ホテルは都心から少し外れた閑静な住宅街にある。連休の街は静まり返り、タクシーはおろか、車そのものがほとんど走っていないのだ。
 2時までに診療室に入れなければ、コトは振り出しだ。頬を押さえ、ジリジリしながら大通りを歩き出す。

 と、屋根の上にサインを掲げた車が、とろとろと反対車線を行くのが目に入った。タクシーだ! 私は半狂乱で手を振り、なかば強引に車を止めた。ところが、ああ助かったと駆け寄った私に、運転手は助手席のドアを開けたのである。
 ちょっと待って。なんで助手席なの? 怪しい…。ここは世界に名だたる犯罪大国の首都なのだ。犯罪の匂いがしやしないか? 私は車に乗るのを一瞬躊躇した。
 だが、ためらっている余裕などない。たとえ相手が悪魔でも、行けるところまで行ってやる!

 ままよと助手席に乗り込んで、そそくさと行き先を告げた。しかし動き出したかと思った車は、そのまま路肩によって、ふたたびピタリと停止してしまったではないか。

 キッと向き直った私に、運転手がおずおずと口を開いた。

 "What do you want?"
 「どうしたいのか? ふざけないでよ! 急いでこの住所に行ってほしいのよ」
 こんなときに冗談ではないと、こちらは思わず殺気立つ。この人やっぱりヘンだ。私の語気の荒さにひるみながら、それでも車を出そうとしない。そればかりか、「意味がわからない」などとのたまう。

 「だからっ、この住所へ、行って、く・だ・さ・い! 英語わかってるの? 緊急なの、緊急! エマージェンシー! あんたタクシーでしょっ!」

 運転手はすっかり怯えてしまった。キョトキョトと視線を泳がせ、放心したように何か呟いている。
 "No, this is NOT a taxi, ma'am"

 私は耳を疑った。え? タクシーじゃない?
 そっと車内を見回すと、確かにどうもタクシーとは様子が違う。
 
 数秒間の沈黙の後、私はコソコソ謝りつつ車を降りた。
 とびきり丁寧にドアを閉め、腫れあがった頬で、できる限り感じよく運転席の男に微笑みかけたそのとたん、車はものすごい勢いでピューっと走り去っていった。まるで災厄から逃げ出すかのように。

 茫然と見送る私の目に、でかでかと車体に書かれた「迅速お届けファースト・ピザ」の文字が、白昼夢の映像のように焼きついた。犯罪大国アメリカで、どうやら私は、ピザの配達車をカージャックするところだったらしい。


 夕方、数日来のすがすがしい気分でホテルに凱旋した。

 小さなホテルでは、私の歯痛騒動は全員の知るところとなっており、スタッフも滞在客も、出会う人が口々に、よかった、よかったと声をかけてくれた。
 さんざん歯医者探しにつき合わせてしまったフロント係などは、上等のクリスタル・グラスになみなみと注いだシェリー酒を、わざわざ部屋まで届けてくれたほどだ。
 その一人一人に、小さなビンに入った見事な「親知らず」を見せてあげたことは、言うまでもない。
 
 旅のトラブルなど、ないに越したことはない。でも実は、トラブルにつきものの冒険の匂いに、私はいつもちょっぴり心惹かれる。ハプニングと、それがもたらす思いがけない出会いを、どこかで期待していたりするのだ。
 それはそのまま、自分の人生そのものに対する期待のように思えてならない。

教訓その1:絶体絶命だと思っても、諦めるのはまだ早い。必ずどこかに道はある。
教訓その2:助けを求めるのに遠慮は無用。全身全霊でアピールせよ。
教訓その3:ピザ屋の車はタクシーではない。


End of Vol. 9

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