トイレ捕物帳
平日の昼下がり、映画を観ようと、都心で友だちと待ち合わせた。少し早く着いたので、ふらふらと時間を潰していると携帯電話が鳴り、その友人の興奮した声が、私の「もしもし…」を蹴散らかす勢いで飛び込んできた。
「わたし! 駅のトイレで盗聴犯を捕まえちゃったの! すぐ公安の事務所に来て!」
盗聴犯って、他人の電話や無線を盗み聞きするアレ? そいつが駅のトイレで何をしてたっていうの? さっぱり要領を得ないが、もちろん今回は夢の話などではない。
駅の公安室の待合室に、友人は大学生風の女の子と並び、上気した顔で座っていた。私を見るなり二人して、口から泡を飛ばす勢いで話し始めた。その話というのはこうである。
最寄り駅に降りた友人は、私との待ち合わせにまだ時間があったので、メイクを直そうと思い駅のトイレに立ち寄った。
洗面台の前に立ち、鏡を覗きこんでパタパタやっていると、その鏡のなかに、突然、奇妙なものが映った。背後の個室の上のほうから、背広の腕が突き出しているのだ。
ギョッとして反射的に振り返ると、やはり紛れもない本物の人間の腕が、個室からニョッキリと突き出されている
腕は隣の個室に向けて差し伸べられていた。その手に握られている銀色の四角い物体を、彼女は瞬間的にテープレコーダーだと判断した。
「誰かのトイレの音を、男が録音しようとしている!」
そう閃いたとたん、彼女は自分でもどこから出たかと思うほどの、ものすごい大声を発していた。
「ちょっとあんた! 何してんのよっ!」
腕は稲妻のように引っ込んだ。
ひと呼吸あって個室から出てきたのは、サラリーマン風の若い男。「な、何もしてません」と震えながらつぶやき、足早にその場を立ち去ろうとする。
とっさに彼の腕をひっつかんだ友人は、抵抗する男と一緒にもつれるように出口のほうへ歩きながら、「公安を呼んで!」と、通行人に向かって叫び続けた。
そこへトイレから、若い女の子が飛び出してきた。
「今、叫んだ方ですか?」
「そうよ! この人、隣の個室の音を盗聴しようとしてたのよ!」
「その『隣の個室』にいたの、私ですっ!」
顔面蒼白、抵抗する気力も消え失せた男を、二人はこうして公安職員に突き出したのだそうだ。
友人がテープレコーダーだと思った銀色の物体は、実は小型のデジタルカメラだった。男はトイレに潜み、それを使って、隣の個室に入ってくる女性を撮影しようとしたのだ。「盗聴」ではなく「盗撮」である。たまたま男子トイレが清掃中だったのをいいことに、女子トイレに潜入したらしい。万一見咎められても、「お腹が痛くてどうしても我慢できなかった」などと言い訳できるとふんだのだろう。
残念なことに、男のカメラには証拠となる写真は一枚も残っていなかった。
「さっき警官が来る前に、あの人、バッグに手を入れて何かゴソゴソやってたんです。絶対あのとき写真を消去したんだ。すぐにバッグを取り上げちゃえばよかったなぁ」
被害者の女子大生が、悔しくてならないように言う。
取り調べは公安から最寄の派出所に移動して行なわれた。目撃者がいたことで、男はあっさり観念して被害者に謝罪し、騒ぎから1時間半後、警察の事情聴取を終えた二人の女性は、ようやくお役ごめんとなったのだった。
ひょっとして・・・
「ちょっとかわいそうだったかしら」 紅茶をすすりながら、友人がつぶやく。
駅で騒がれ、警察に絞られ、女たちからケチョンケチョンに弾劾され…。たしかに「彼」にとっては、さんざんな一日だったことだろう。
男は若いが妻帯者であった。左薬指に光る結婚指輪を、友人が目ざとく見つけたのだ。再犯防止のためにもぜひ奥さんに連絡してくれと、被害者は強硬に警察でアピールした。
「この人の会社にも報告してください。あたし、こういうの絶対に許せません!」
怒りがおさまらない被害者の要求に、温厚な若い巡査は困ったように言った。
「会社に報告するのだけは、なんとか勘弁してやれませんか? そのかわり、自宅には私が連絡して事情を説明します。くれぐれもよく監督して、二度と繰り返させないよう奥さんに頼みますから」
あのお巡りさんは、約束を果してくれただろうか? もし奥さんの耳に入ったら、男はただではすむまい。今日の締めくくりともいうべき最大の修羅場が、家で待っていることになる。平日の真昼間、自分の夫が仕事そっちのけで公衆トイレに潜み、コソコソとよその女のオシリを盗撮しようとしていたなんて、女にとっては浮気よりショックだ。奥さんが知ったら、離婚沙汰だってありえるかもしれない。
小さくなって震えていた男の様子を思い出すと、友人が彼を哀れに思うのもわかる気がしてくる。
しかし、だ! 気づかぬ間に彼にあられもない写真を撮られた被害者は、他にも大勢いるかもしれない。痴漢、強姦、下着ドロ、ノゾキ、盗撮、少女買春…。薄汚く卑劣きわまりない犯罪だという点では、犯人はみな同じ穴のムジナではないか。
「少なくともそういう連中の一人にお灸をすえられたのだから、あれでよかったのよ」
「だよね。常習犯かもしれないもんね。あいつの部屋を探したら、オシリの写真がごっそり出てきたりして…。うん、やっぱり許せない!」
そう言って息巻きながらも、彼女も私もどこか気が重い。それは多分、男があまりにも「普通の人」だったからだ。
公安から派出所に移動するとき、お巡りさんと並んで前を行く彼は、どう見ても「大事な書類を落としてしょげ返っている、気真面目な若いサラリーマン」くらいにしか見えなかった。
被害者にはなりえても、絶対に加害者には見えない顔。指名手配のポスターにはおよそ不似合いな、気が弱いだけの、何の印象もないのっぺりした顔。町の雑踏のなかに、すうっと溶けて紛れてしまう、ごくごく平凡な人である。
言い換えれば、「彼」はどこにでもいるのだ。大学のキャンパスにも、会社にも、電車のなかや、ファミリーレストランにも。ひょっとして、この人も、あの人も・・・。
気がつくと私たちは、喫茶店の外を行く若い男性を、次々にじいーっと目で追っているのだった。
「男性不信になっちゃうね」と、顔を見合わせ苦笑いしたが、女性のためにも、男性のためにも、彼はあんなことをしないでくれればよかった…。
この一件から数日後、やはり女子トイレの覗きを見つかった男が、被害者の女二人から大金を脅し取られるという事件が報道された。女性の復讐もここまでいくと犯罪だが、それくらいやらなければ、こういう手合いは病気が治らないのじゃないか、とも思う。やってはならないことをすれば、最後にはそれだけイターイ思いをする。いい加減、骨身に染みてもらいたいものだ。
End of Vol. 8
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