悲しいシロ
公園を歩くのが好きだ。天気のよい日の公園では、散歩に来ている犬たちともたくさん出会う。
目下好感度ナンバーワンのゴールデン・レトリーバーや、ラブラドール・レトリーバー。シベリアン・ハスキーに、コリーを小型にしたようなシェルティー。そしてお馴染みの芝犬にマルチーズ、ヨークシャーテリアに愛嬌たっぷりのダックスフント。
のびのびと芝生を駆け回る姿は、どの子も最高に幸せそうだ。
その犬は、遊歩道沿いの椿の木につながれていた。
さっきからひっきりなしに聞こえる甲高い悲鳴の出どころは、この薄汚れた白い雑種だ。犬は後ろ足で立ち上がって首を突き出し、木に括りつけられた引き綱をギリギリまで引っ張って、キャンキャン、ヒィヒィと鳴き続けている。
その鼻先2メートルほどのところに置かれたベンチに、見ると小さなおばあさんが座っていた。近付くと、彼女は歩きつかれた膝をこすりこすり、犬に向かってぶつぶつ話しかけている。
「はいよ、はいよ。ばあちゃんはここにおるよ」
彼女はそう繰り返しているのだった。
思わず「おばさんの犬ですか?」と声をかけたが、普通なら決まり文句のように続くはずの、「かわいいですね」という言葉が出てこない。
これほど負け犬然とした犬は、悪いがそれまで見たことがなかった。そのあまりの惨めたらしさが、妙に気になるのだ。
近付いて手を差し伸べると、犬はたちまち飛びついてきた。狂ったように私のジャンパーにすがりつき、ヒィヒィ鳴きながら顔中をなめ回す。
うすぼやけた白い毛皮は、ごわごわと垢じみて臭く、撫でる手がたちまちねばついた。病気でもしているのだろうか、落ち着きのない目は血走り、絶えず身体が震えている。振り絞るような鳴き声さえ、必死のあまり喉にからんでうまく出てこない。いったいこの犬はどうしたというのだ。
みぞおちの辺りから、いやぁな気分が這い上がってきた。「動物虐待」の4文字が脳裏をよぎる。この善良そうな小さなおばあさんが、動物虐待? まさか!
聞けばシロは、半年ほど前に、元の飼い主に捨てられたのだった。保健所で処分されかけていたところを、危機一髪でおばあさんがもらい受けたという。
「一度置き去りにされたもんだから、少しでもあたしから離れるとこの騒ぎ。血統書付きのいい犬なら、引き取り手はいくらでもあったんだろうけど、こういう器量だからねえ」
おばあさんはそう言うと、死に物狂いの犬に向かって声をかけた。
「ほい、シロや。今日はおまえ、遊んでもらって嬉しいねえ」
犬はせつない生き物だ。飼い主に一途な愛情と信頼を寄せる彼らのひたむきさが、私には重すぎる。その愛情や信頼が裏切られたとき、彼らはどんなに深く傷つくだろう。
涙が見られないようおばあさんに背を向けて、私は無器量犬シロのやせこけた身体を抱きしめて、思い切りゴシゴシこすった。
雪の朝、ネコと喧嘩する
そこへいくとネコは気楽だ。飼い主があってもなくても、マイペースで気ままに生きているらしいところが、私などには犬よりもつきあいやすい。
この冬は珍しく、関東地方に三度もまとまった雪が降った。被害を受けた方たちには申し訳ないが、いくつになっても雪が舞うとウキウキして、朝なども常になく早起きをしてしまう。
先日、春の雪が降った翌朝も、6時過ぎに目が覚めた。勢いよくカーテンを開いた窓から、まぶしい光が流れ込んでくる。昨夜の雪はやんで、今日はよいお天気だ。
カーディガンを羽織り、マフラーを何重にも首に巻きつけて、いそいそとベランダに出た。太陽に照らされて、白い塊はもう溶け始めている。あっちの軒でも、こっちの軒でも、ポタポタ、ピチャピチャの合奏だ。
ざっくざっくと、誰かが道路の雪をかき、家々の屋根からも立ち木からも、ゆらゆらとした無数の筋になって水蒸気が立ち上っている。世界が顔を洗ったようなこういう朝は、生きているだけで「バンザーイ!」と叫びたくなる。
何気なく下に落とした視線が、ちょうど庭を横切ろうとしていたノラネコの目とばったり出会った。白と黒の巨大なブチだ。
彼は庭の真ん中でのそりと立ち止まり、私たちはベランダの上と下とで、一瞬、気まずく見つめあった。こういうとき、私はいつも、何か言わなくてはという強迫観念に襲われる。たとえ相手がネコでも、だ。
そこでノラの仏頂面に向かって、努めて明るく呼びかけた。
「おはよ、気持ちのいい朝ね」
ネコはちっとも気持ちのよい朝だなどとは思っていないらしく、不機嫌を絵に描いたような顔でこちらを睨む。雪だらけの水浸しが気にくわないのか、馴れ馴れしくかまわれるのが疎ましいのか、そうとう虫の居どころが悪いようだ。古傷が残る不敵な面構えと、凄みのきいた物腰から察するに、彼はどうやらこの界隈のボスらしい。
私はなおも友好的に語りかける。
「ネコちゃん、朝のお散歩?」
ノラはピクとも動かない。たじろぐでもなく、逃げるふうでもなく、じいっとこちらを見すえている。機嫌をとるようにニャーンとネコまねをしてみるが、これも黙殺。
動物は目を見つめられるのが嫌いだというのを思い出し、ついと視線をそらしてみても、なおもしつこくハッタと睨みつけてくる。そのとき閃いた。こいつ、メンチを切っているのだ。
「何よあんた、ケンカ売る気?!」
ついに私は怒鳴る。
「あんたの縄張りなんか取らないわよっ」
ノラは逆毛を立ててフウウッと威嚇の声をあげ、私はベランダの上で手を振り回して叫ぶ。
「ヘンッ、睨んだってぜんぜん怖くないもんねー。バカ、バカ、バーカ! 悔しかったら上までおいで。ヒゲを抜かれてベソかくな! ベロベロベーのベーッ」
突然部屋のドアが開いて、キリコがぼさぼさ頭をつき出した。
「うるさいなあ。朝っぱらから誰とケンカしてるのよお」
ネコと、だとはさすがに言えない。
もぞもぞと言い訳をして庭の方を振り返ると、ノラの姿はすでにない。ただ、悠然と消えていく尻尾の先が、フェンスのすき間から、わずかにチラリと視界をかすめただけだった。
人間相手に一歩もひかぬ豪胆さ。風のような引き際の鮮やかさ。これぞノラの鏡、う〜ん、敵ながらあっぱれと、吹きさらしのベランダに一人残された私は、思わず彼に敬意を表したのであった。
犬とネコ、どっちが好きかなどと、あまり考えたことはない。だが、近所の野良猫たちと啖呵を切り合っているくらいが、私の性には合っているのかも知れない。
End of Vol.5
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