Vol.4 06/March/98

ピヨピヨ



 子どもの頃、ペットといえばニワトリだった。
 別に好んでニワトリを飼ったわけではない。縁日で買って来たヒヨコがことごとく育ち、自動的にみんなニワトリになってしまったのである。

 本当に欲しかったのは馬だ。クリーム色の、たてがみの長い馬。そんな馬に乗って、ポコポコと学校やおつかいに行けたら、どんなに素敵だろう。大人になった今でもちょっとあこがれる。しかし子ども心にも、馬を飼うというのはさすがに現実的ではないと思った。

 もっと現実的な犬やネコは、父親の転勤が多かったのと、自分で世話ができないだろうという、これまた現実的な親の判断で飼ってもらえなかった。かといって、金魚やカメではつまらない。だから夏祭りで売っていて、子どものお小遣いでも買えるヒヨコあたりが、ちょうど手頃だったのだ。

 もともと縁日のヒヨコというのは、買ってきてもすぐに死んでしまう生き物だった。
 そのたびに私はおいおい泣いて庭にお墓をこさえ、「こんな悲しい思いをするくらいなら、もう二度とヒヨコなんて飼わない」と、固く固く心に決めるのだ。
 が、次の夏が来ると、お祭りの夜店の裸電球の下、ピヨピヨと声を張り上げる柔らかな黄色い塊の前に、私の足はやっぱり釘付けになる。そして性懲りもなく、その「ピヨピヨ」が入った紙の箱を後生大事に捧げ持ち、家に帰ることになるのだ。

 ヒヨコが死んでしまう原因は、今思えば餌にあった。いつもやっていたパン屑やご飯粒では、うまく消化できないのだ。
 生まれて間もないヒヨコには、米ぬかを水で柔らかく練ったものが一番いい。それから徐々に青菜を加え、トウモロコシや乾燥サナギなどが入った専用飼料に切り替えていく。親切な農家の人から、あるときそう教わった。

 これはうまくいった。小学校3年生の夏に我が家へやってきたヒヨコは、練り餌のおかげですくすく育ち、家の内となく外となく、私のあとを追って、転がるように駆け回るようになった。

 こうなると可愛い。
 大好きなジャングル大帝からとって、私はヒヨコをレオと名づけた。友だちと庭で遊ぶ私の傍らで、レオはご機嫌で土をほじくって過ごし、宿題をやる私のセーターの懐にもぐりこんで眠った。
 
 白い翼が生え揃い、もはやヒヨコとは呼べなくなったレオに、私は首輪をつけて意気揚揚と散歩に出かけた。行く先々で人が笑顔で振り返る。小さな子どもがキャッキャとついて来る。当たり前だ。こんなに利口できれいで、愛想のよいニワトリなんて、だあれも持っていないのだから。

 学校にも連れて行った。理科の授業でちょうどニワトリについて習っていたのだ。レオは教壇の上で注目を一身に浴び、体育の時間には校庭で砂浴びを披露。教室中を物珍しげに歩き回っては、みんなから給食を分けてもらい、クラス中の人気をさらってしまった。


カラーヒヨコ



 こうして私はヒヨコ育ての名人になった。
 そんなある日、町の小さなペットショップで、ついに出会ってしまったのである。カラーヒヨコに。赤、青、緑、ピンク、オレンジ、紫…。箱のなかで押し合いへし合いしている、目にも鮮やかな綿毛のボール。私はうっとりと息をのんで見惚れた。

 「これ、オス? メス?」
 店のおじさんに尋ねると、おじさんは曖昧に笑った。
 「う〜ん、メス…かな」
 「じゃあ、大きくなったらタマゴを生むの?」
 「生む…と思うよ」

 なんてすてき! カラーヒヨコが育てば、カラーニワトリからカラータマゴがとれるのだ。色とりどりのユデタマゴが並ぶ朝食のテーブルが、目に浮かんでくるようだ。
 それにそんなにきれいなタマゴなら、きっと欲しがる人がいっぱいだ。うんと高く売れるかもしれない。そうだ、どんどんカラーヒヨコをかえして養鶏場をやろう。100万円くらい儲かったら、お父さんにはピカピカの新車を、お母さんにはダイヤモンドのネックレスを買ってあげるんだ。ああ、抑えようとしても、ひとりでに口元が緩んでくる。

 それほど珍しいヒヨコなのに、店のおじさんはランニングシャツのお腹をポリポリ掻きながら、1羽たったの30円でいいと言った。なんていい人なんだろう。でも商売というものをまるでわかってない。出し抜くみたいで悪いけど、迷うことなく商談成立。お小遣いをはたいて10羽を手に入れ、おじさんの気が変わらないうちに引き揚げた。

 「こんなにいっぱい買っちゃって! お母さんは知りませんからねっ! あんたが自分で世話をするのよ!」
 10羽のヒヨコを見た親は、驚き、呆れ、怒りまくった。
 ふん、これだから大人はイヤだ。今に見てろ。この子たちが金のタマゴを生むニワトリだって、あとで知って驚いても遅いんだから!

 ところが3日もたたないうちに、私は奇妙なことに気づいた。
 あれほど鮮やかだったヒヨコたちの綿毛の色が、何となく薄れ始めたような気がするのだ。病気だろうか。栄養が足りないのだろうか。心配でたまらないが、どの子も食欲旺盛で元気いっぱいに見える。そしてヤキモキする私を尻目に、2週間もすると、なんとカラーヒヨコはみんな完璧に普通のヒヨコになってしまったのである。

 キツネにつままれたというのは、こういうときに言うことばに違いない。
 もしかすると、カラーヒヨコも大人になると白いニワトリになるのだろうか。私は必死で考えた。そう、きっと、ヒヨコの間だけカラーなんだ。でもヒヨコが色付きということは、タマゴだって色付きで生まれるはず。ならばカラータマゴは手に入る、よしよし。そう、無理やり自分を納得させた。

 私は育ち盛りの若鶏たちのために、奴隷のように働いた。
 朝早く起きて、学校へ行く前にみんなに餌をやり、学校から戻ると、父が急ごしらえで作ってくれた鶏小屋をフンだらけになって掃除する。それからまた夕方の餌やり。八百屋でもらってきた大根葉や、キャベツの外葉を山のように刻んで、飼料といっしょに与えるのだ。水も朝晩替えなければならない。砂浴びの砂を入れてやり、庭に放してたっぷりと運動もさせてやる。

 せっせと世話をした甲斐あって、ヒヨコたちは一羽もかけることなく無事に育った。しかし、待てど暮らせど、タマゴなど一個も生まない。それどころか、いつしか立派なトサカまで生え、鶏小屋の止まり木にとまっては、競うように時を作り始めたのである。

 彼らは寄るとさわると大喧嘩をする。鶏小屋の掃除に入る私を、意地悪そうな黄色い眼でにらむ。そして恥知らずにも、あれほど手塩にかけた私の手を、ごっついクチバシで嫌というほど突付くようになったのだ。

 数ヵ月後、あらくれた10羽のオンドリを積み込み、田舎の農家に引き取ってもらいに行く父の車を、私は情けない思いでいっぱいになりながら、ぼう然と見送っていた。

 一攫千金の夢が泡と消え、人生最初の挫折を味わった小学3年生のあの夏以来、私はヒヨコを飼っていない。

 ちなみに、最初に育てたレオは、その町を引っ越すことになったとき、小学校の鶏小屋で飼ってもらうことにした。その後、幼なじみの手紙を通じ、長寿をまっとうしたと聞いている。

End of Vol.4


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