Vol.24 8/Feb./04

後半はこちら


漂泊の人(1)



 
 ポストへ郵便を出しに出かけた。
 よく晴れた、でも寒い午後。空はキーンと音がしそうなほど、高く澄み渡っている。ジャケットの襟をかき合わせ、頬までマフラーで覆っても風が目にしみる。

 原稿料の請求書を手に、「あーあ、ゼロが3つくらい余計にくっついて、銀行に振り込まれてこないかなぁ」などと思いながら団地の広場まで来たとき、むこうから小柄な男性がとぼとぼ歩いてくるのに出会った。

 住宅街の公園に、いつの頃からか住み着いている男の人だ。水のみ場で顔を洗っているところや、陽だまりのベンチで眠りこけている姿を、前にも何度か見かけたことがある。

 男の人は背中を丸め、わき目もふらずに広場を横切って行く。私の前を通り過ぎ、飲み物の自動販売機が並ぶ一角へやってくると、空き缶入れの前で立ち止まった。それからポリ容器のふたを取り、いきなり片腕を肩まで中に突っ込んだ。

 どうするつもりだろう?

 容器に覆い被さるようにして中をかき回し、彼は空き缶をひとつつまみあげた。そして身体を起こしざま、缶の底にわずかに溜まっている液体を、あっと思う間もなく飲み下した。立ち止まってぽかんと見とれている人間がいることなど、知る由もない。空っぽになった缶を静かにポリ容器に戻し、元通りにふたをすると、もう次の空き缶入れを物色している。

 私は慌ててポケットのお財布をまさぐった。

 だって今日はとても寒いのだ。こんな日に、誰が捨てたかわからない空き缶の、冷たくなった飲み残しをすするなんて、どんなにか寒々とした気持ちになるだろう。

 だが500円玉を握ったはいいが、どう声をかければいいか、わからない。

 黙ってコインを差し出す? いや、だめだ。あの人は物乞いではない。
 現物を買って渡そうか。だとしたらコーヒー? …好きじゃないかも。ウーロン茶か緑茶? 紅茶なら、レモンティー、ミルクティー、それともストレート・ティーのほうがいいかしら。(私、なんでこんなことで悩んでいるんだろう?)

 やっぱりお金のほうが無難かな。だけどいきなりお金やモノを渡すなんて、そもそもそれだけで失礼な気がする。誰かがこっそり自分の行動を観察していたと知ったら、彼は恥ずかしい思いをするかもしれない。

 オロオロしている間に、喉を潤し終わった男性は今来た道をさっさと戻り始め、私はあっけなくタイミングを逸してしまった。

 北風がビューッと吹いた。

 思わずマフラーのなかに首をすくめた私の耳に、すれ違いざま、「う〜、さぶ。寒いなあ」と、その人が呟くのが聞こえた。ほんの一瞬、私たちは目が合った。彼は口元をゆがめ、ちょっと笑ったようだった。

 『あんたも寒いのかい。でも、あんたらの寒さとオレの寒さじゃ、わけがちがう』

 そう、言われたような気がした。

 陰の薄い後姿が遠ざかってゆくのを見送りながら、私はぼんやり突っ立ったまま、握りしめていた500円玉をそっと財布に戻した。



ホームレスになるかもしれない

 
 
 あのとき彼に声をかけられなかったのには、本当はもうひとつ理由がある。素性のわからない人と、うかつに関わることを怖れたのだ。

 彼は乱暴者かもしれない。とんでもなくやっかいなトラブルを、背負っていないとも限らない。
 それでなくても同じ地域に暮らしているのだ。この先顔を合わせるたびに、お金をせびられるようになったらどうする? 自宅を突き止められたらどうする? 家族に危害でも加えられたら?
 
 そう考えたことを、後ろめたくは思わない。私にだって、侵されたくないプライバシーもあれば、守らなければならない人間だっている。
 だがそれでもなぜか、モヤモヤは残るのだった。

 数年前、「ホームレス作家」という本を読んだ。
 著者の松井計さんは、著作も数ある現役の作家だ。あるとき出版企画が続けざまにキャンセルになるなどして、予定していたお金がピタリと入らなくなった。やがて家賃も払えなくなり、住むところを失ってしまったのだ。そのときの体験が、本には生々しく描かれている。

 自分で選んだ道とはいえ、私もまた、その日暮らしのような身だ。ひとつ歯車が狂ったが最後、いつ経済的に破綻し、路上で生活することになってもおかしくない。
 
 そのときのゾッとなった背筋の感覚が、「団地の彼」と出遭ったことで甦った。
 彼らの世界と、日頃自分が属していると思い込んでいる世界の間に、境界線があるとはとても思えない。寒空の下で空き缶を物色していた彼の姿が、何の違和感もなく、自分の未来の姿と重なり合う。

 私、ホームレスになるかもしれない−−−。 友人に電話をかけた。

 「なに言ってんのよ、馬鹿だねぇ!」 
 友だちはいきなり笑い出した。

 「笑わないでよ。私、本当に心配なんだから!」
 「はい、はい。でも、あんたは絶対だいじょうぶ。何があったってサバイバルしちゃう人よ」
 「だけど病気になったら? よぼよぼに歳をとったら? そうしたら働けない」
 「将来が心配なら、せっせと貯金でもしなさいよ。いざとなれば生活保護だってあるし、さもなきゃいっそ、結婚しちゃえば?」

 ・・・そういうことでは、ないだろう。

 別の友人は言った。
 「まともに暮らしていれば、ホームレスになんかならないよ」と。

 「俺に言わせれば、彼らは自業自得だよ。みんな生活のために必死で闘っているのに、その努力をしないんだから。酒だ、博打だ、借金だって、人間が破滅するにはそれなりの原因があるよ」

 友人が言うように、借金やお酒が原因でドロップアウトする人もいれば、自分ではどうしようもない事情があって、やむなくホームレスという境遇に甘んじる人もいるに違いない。
 真面目に営々と頑張ってきたのに、生きるのがとてもヘタで人生につまづく人。他人と関わるのが嫌で、家族も仕事も名前も捨て、知らない街で路上生活を始める人。あるいは好んでそういう生き方を選ぶ、究極の自由人。
 世の中のあらゆることと同じように、「ホームレス」だってきっと十人十色だ。



次のページへ続く

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