Vol.18 02/Aug/02



【1】




 命には限りがある。誰だっていつか死ぬ。そうわかっていても、死は、それが訪れる者や身近な人々にとって、いつも唐突で理不尽だ。

 7月のうだるような日曜日、父はいつもと変わらぬ一日を過ごした。定年を迎えてからの、板で押したような彼の夏の日曜を、私は今でも空で言える。

 朝は7時前後に起き出して、朝食をとりながら新聞に目を通し、NHKの政治討論と、サンデープロジェクトを見る。それからひとしきりパソコンをいじって、軽い昼食。気が向けば自分で蕎麦を茹でたり、チャーハンをこしらえて、家族に食べさせるようなことも気軽にした。

 午後からは図書館へ行くか、本を読みながらうたた寝をする。なにやら細々とした修理仕事を見つけては、日曜大工に精を出すことも珍しくない。

 陽射しが傾いてかすかに涼風がたつ時分になると、愛用のハンチングをかぶって、決められた仕事のように散歩に出かけた。あるいは庭に出て高々と茂った樹木を剪定し、鉢や植え込みに水遣りをして時を過ごすのだ。

 夕食のあとで少しテレビを見、入浴後は早々と床に入って、日記を書きながらしばらく音楽を聴く。それはときによって小唄であったり、長唄であったり、往年のスクリーン・ミュージックや、ジャズやボサノヴァであったりするのだが、夏の父の部屋からは、ほの明かりと共に、微かな音楽がいつも廊下に流れていた。

 その晩も、他のどの日曜日とも同じように過ぎた。

 夜10時をだいぶ回った頃、母を呼ぶただならぬ声に階段を駆け下りてみると、父は布団に臥せってひどく喘いでいた。

 30分後、両親を乗せた救急車がサイレンを鳴らして走り去るのを、私は門のところで見送っていた。


**


 危篤の報が入ったのは、小一時間もたたずのことである。
 病院の薄暗い待合室の長椅子に、放心したような母の姿がぽつんとあった。

 父はいくつものチューブや機械につながれ、処置室に横たわっていた。私の到着を待ちかねていた当直医が、せかせかと状況を説明する。

 「意識はありません。肺も心臓も停止して、機械で動かしている状態です。我々にできることはすべてやりました」

 意味を測りかねて医師の顔を見上げたが、疲れが滲んだその表情に余裕はうかがえない。

 「でも、回復の見込みがゼロというわけではないのでしょう? ついさっきまで、あんなに元気だったんですよ。たぶん、一日か二日、入院させて様子をみれば…」

 もたもた言うのを、「そういう問題じゃないんです」と遮って、若い医師は呑み込みの悪い子どもに噛んで含めるように、だがきっぱりと言葉を続けた。

 「いまこの状態が、もう亡くなっているのと変わらないのですよ。あらゆる手は尽くしました。残念ですが、望みはありません」

 私は口をつぐんだ。それから父の耳元にかがみこみ、大声で呼んでみた。テレビドラマじゃあるまいし、馬鹿みたいだと思うのだが、こんなにあっけなく死亡宣告されてたまるかと思った。自分が呼べば目を覚ますはずだという、根拠のない確信めいたものもあった気がする。が、どっちみち、こんなときに人間がやることときたら、それほど限られているのだ。

 父は目も開けず、声を発することもなかった。

 私は言葉をのみこんだ。目の前にあるのは、抜け殻だ。このなかに、もう、生命はない。そう、はっきりと感じた。

 ベッドの足元では、母とキリコが途方にくれたように、父を呼び続けている。その姿を見て逡巡した。どうしよう…。

 手をのべて、大人になって初めて、父の白い髪に触れ、赤味の残る頬をゆっくり撫ぜてみた。これまでだ。そういうことだ。私が決着をつけなければならない。

 −−−お父さん、ここでお別れです。

 心の中で父に別れを告げ、私は医師と向き合った。

 「わかりました。お世話になりました」
 「いいですね?」 ホッとしたように念を押し、医師が時計に目を走らせる。

 「零時19分。お気の毒でした」


**


 妹夫婦と一緒に到着したモモコの、身も世もない泣き声が、霊安室の廊下に響いている。急死の場合の手続きとして、私たちは亡骸が検死にふされるのを待っているのだ。

 自販機で何か冷たい飲み物を買ってみんなに配るよう、目を真っ赤にしたキリコにお金を渡し、私はロビーに上がった。葬儀社や親戚に連絡をしなければならない。朝には仕事のアポイントも入っている。仕事仲間のM氏に話すと、何も言わずピンチヒッターを引き受けてくれた。

 ひとしきり電話連絡に追われたあと、新鮮な空気が吸いたくなって外に出た。

 日中の熱を溜め込んだ重たい夜気が、一気に覆い被さってくる。街灯も家々の灯りも滲ませ、音さえも吸い込んでしまう、湿って膨らんだ熱帯夜の息苦しさ。

 救急エントランスの赤い灯に戯れる蛾を、ぼんやりと目で追いながら、携帯電話を取り出して、岡山にいる親友にかけた。

 呼び出し音が鳴っている。春にも、夏にも、秋にも、冬にも、いったいどのくらい多くの時間を、私は彼女とこうして深夜の電話で語り合ってきたことだろう。他愛もない毎日のできごと、仕事のこと、折々の恋愛や将来の夢。

 聞きなれた声が、弾むように耳に飛び込んでくる。その声の向うに広がる日常の確かさに、気持ちが和むのを感じた。

 「あ、わたし。今しがた、父が亡くなったの」

 友人は受話器の奥で息をのみ、それから「ああ、かわいそうに!」と、悲鳴のような声をあげた。

 「何があったの?」とも「本当なの?」とも、彼女は言わない。そのとき、そのときの私を受け止め、直感的に気持ちを汲んでくれる人の存在が、ありがたかった。

 手短に状況を話すのを黙って聞いていた彼女が言った。

 「わかった。朝一番の新幹線でそっちへ行くから。昼過ぎには着けると思う」

 いきなり涙が堰を切って、止まらなくなった。



 長い夜は終わらない。今度は警察医の手で書類作成のための検査を行なうというので、遺体は葬儀社の人に付き添われ、警察へと移送されていった。

 家に戻ると、先ほどまで父が寝ていた布団が、そのままにあった。ここにいるべき父と、白い布をかけられ霊安室に横たわっていた父。ふたつの姿が重ならない。布団を畳んで、押入れにしまった。

 明け方、葬儀社から検査が終了したとの連絡が入った。高血圧症からくる心不全の疑いと病院で聞いていたが、詳しい検査の結果、くも膜下出血の痕跡も見られたという。
 何がどういう順番で父の身に起きたのか、直接の死因は何なのか、今となっては、正確にはわからない。すぐに意識がなくなったため、長く苦しまなかったことが救いだった。

 「ご遺体をご自宅にお送りさせていただきますが」と、葬儀社の人がいう。

 「いえ、お通夜も告別式もおたくの斎場でやることになりますから、そちらに安置してやってください。朝一番で会いに行きます」

 できればもう一度、父の身体を家に迎えてやりたかった。だがこの猛暑のなか、エアコンを入れていない部屋では遺体が傷む。弔問客が出入りすれば、母もゆっくり休めないだろう。頭の隅では、そんなことを計算しているのだった。

 朝9時には、葬儀社の一室で、葬祭ディレクターなる人物とやり合っている自分がいた。

 「骨壷はこれ。お棺もどうせ燃やしてしまうのだから、安くてけっこう。質素にという故人の意思もありますから、余計なお金はかけません」

 父の葬儀について話していることも、その段取りを、自分がこんなふうに事務的に決めていることも、なんだかとても奇妙だ。

 それでも、決定しなければならないことは、山のようにあるのだった。会葬者の人数は? 送迎の車の台数は? 式次第は? 遺影用の写真は? 会葬御礼の品物は? 挨拶状の文面は? 通夜と告別式のあとで出す料理のメニューは? 祭壇に飾る花は?

 家に戻っても、遠方から来る親戚のホテルの手配、弔問客の対応、お金の計算と、いくらでもやることが待っている。感傷に囚われたり、気持ちを整理する余裕などまったくない。止まらないエスカレーターに乗せられているようだ。

 母や気を張ってしっかりしていた。その彼女に、妹夫婦が何かと気をつかってくれた。キリコとモモコは私を案じ、食事の支度や買い物を黙って引き受けている。岡山から駆けつけてくれた親友も、到着するや百人力で電話の対応や雑用を買って出てくれた。

 人ひとりを見送るということが、こんなにも大ごとだとは、それまで想像したこともなかった。みんながいなかったら、私ひとりではどうしようもなかっただろう。

次のページへ続く>

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