Vol.16. 12/Dec./99


ショッピングは楽し


 「住むなら、団地の近くが一番よ」というのが、母の持論だ。
 まず交通の便がよい。バスが深夜まで運行している。学校関係も、幼稚園から高校までがそろっている。病院だって、小児科から歯科まである。銀行に、郵便局に、クリーニング屋、美容院と、およそ暮らしに不便がない。環境にしても、公園だの、気持ちのよい並木道だのを整備しているし、交番もあって治安の面でも安心できる。

 買い物に便利なのも、団地のそばに住む利点だ。うちの近所には、自転車で5分から10分ほどの圏内に、スーパーが4つ、コンビニが3つ、生協が2つ、大型ドラッグストアも2つある。
 それらが常時、互いに競争しあっているから、毎日どこかで特売をやっている。集めれば割引が受けられたり、商品券と交換できるシールだの、スタンプだのと、サービス合戦にも余念がない。
 消費者としては、「いいぞ、もっとやれぇー!」なのだ。

 ひとり暮らしなら、私は間違いなく、ゴチャゴチャした生活感が希薄な、もっと落ち着いた環境を選ぶだろう。だが、このところの私は、夢にもそんなお洒落なことは言っていられない。

 昨年の秋からは、キリコの妹のモモコを預かっている。そのうえ今年の1月には二人の母親までが、「腰が痛いので、しばらくそっちで静養しながら治療に通う」といって、我が家に転がり込んできた。

 その結果、うちの家族は6人に膨れ上がり、毎日6人分の買出しをするはめになったのだ。

 二人は育ち盛りの子ども。ひとりは育ち盛りじゃなくても、よく食べる。「痛いのは腰で、胃腸はどうもない。静養中だから、食べることしか興味ない」のだそうだ。

 今どき6人分の買い物は、ただごとではない。
 パンも牛乳もタマゴも、買った翌日には魔法のようにかき消る。魚だって6尾、肉だって6枚必要だ。

 毎回の調理も戦争のようだ。「よし、作るぞ!」とまなじりを決し、気合を入れないと、根性で負ける。コロッケでも、餃子でも、パスタでも、作っているうちに食欲が失せるほど、山のように作るのだから。天ぷらなど揚げたひには、そのあと3日くらい夢でうなされるほどだ。
 もちろんお米も味噌も、トイレットペーパーも、ティッシュペーパーも、洗濯洗剤だって、物凄い勢いでなくなっていく。
 ついでに茶碗が割れる。コーヒーカップやお皿も割れる。子どもたちは「お菓子はないの?」と、わあわあ言う。

 だから毎日せっせとスーパーに通う。
 一度で間に合わないときは、午前と午後に通う。

 自転車の前かごと荷台に荷物を積み上げ、ハンドルの両側にも大きなレジ袋を括りつけて、よろよろと走っていると、日向ぼっこをしているおばあさんなど、珍しいものを見るように目で追うのだ。
 食べても食べても底なしの食欲を見せるひな鳥たちに、えんえんと餌を運び続ける親鳥になった気分だ。

 幸い、3月には子どもたちの母親が、9月にはモモコが自宅へ戻り、やっとほっとしたところだ。あの状態が続いていたら、私は復活できないくらい、完璧に所帯じみてしまうところだった。


八百屋とキスをする



 何だかんだといっても、買い物は嫌いではない。日常のおつかいには、服やバッグや化粧品のショッピングとは、また違った楽しさ、おもしろさがあると思う。

 とくに個人商店、なかでも八百屋をのぞくのが好きだ。あら、もう蕗が出た、たけのこが出た。イチゴがずいぶん安くなったと、季節の移り変わりが店先を彩るのがとても楽しい。春には竹の子ご飯、グリーンピースのポタージュ、秋にはキノコのパスタに栗ご飯。出盛りの野菜や果物を使って何を作ろうかと、ウキウキ頭を悩ませる。

 近所の八百屋は3軒。屋号は覚えていない。代わりに勝手な呼び名をつけて、呼び分けている。

 「団地の八百屋」は、文字通り、団地のなかの商店街にある。働き者の50年配の奥さんが仕切っているが、彼女はなかなかの勉強家だ。市場に珍しい野菜が出ると、さっそく仕入れてきて、自分で料理をして試食させてくれたりする。

 「このキノコ、どうやって食べるんですか?」
 「どう料理してもおいしいけど、バター炒めが一番よ。最後にお醤油をちょっと落としてみて。香りと歯ざわりがすごくいいから」

 とにかく野菜のことなら何でもこい。どんな質問にもちゃんと答えてくれて、プロだなあと内心尊敬している。

 家から2分のところには、「感じの悪い八百屋」がある。
 近くて便利だからよく行くが、品揃えは悪くなくても、店のおばさんたちが妙に馴れ馴れしくて私は好かない。

 3軒目は「坂の上の八百屋」。家から一番遠いので、月に2度ほど、ついでがあれば寄ってみる。ここは安売りで有名だ。特に夕方になるとどんどん値下げをして、商品を売り切ってしまうのだ。30代半ばの兄弟3人でやっている小さな八百屋は、だからいつでも混んでいる。

 普通なら一個200円はする立派なリンゴが、4個で600円。それでも安いのに、
 「リンゴ4個、今から300円でいいよー!」
 店長らしき長男の鶴の一声で、リンゴは目の前で半額に下がり、私の血はたちどころに全身を駆け巡る。

 「リンゴ買ってこ、リンゴ! わ、ホウレンソウが3束で100円だって。カリフラワーも50円! ほら、ぼんやりしてないで、キリちゃんも持ってよ」
 「えー、まだ買うの? カリフラワーのポタージュ、作ってくれる?」
 「じゃあ、カリフラワーは2個買おう」

 おばさんたちの肩越しに、一番大きそうなカリフラワーを2玉、つまみあげてカゴに入れる。足元にまで並んだ根野菜の山のなかから、ジャガイモと玉ねぎのザルをひっぱりだして、それもカゴのなかに放り込んだ。
 10円でも、1円でも安くいいものを。男が見ればあさましい光景かもしれない。でも、まともな主婦はみんな、人知れずこういう苦労をしているのだ。私なんか、主婦じゃなくてもやっている。

 通路は狭く、人で立て込んでいた。
 山盛りになったカゴをレジに運ぼうと、よろけながら八百屋の長男の横をすり抜けようとしたちょうどそのとき、何のはずみか、八百屋がいきなり、勢いよく振り向いた。

 次の瞬間、八百屋の唇は、私の口元にぴったりくっついた。

 周りにいたおばちゃんたちが、いっせいに息をのんだ。八百屋も私も息をのんだ。私の後ろにくっついてきていたキリコが、あんぐりと口を開けているのが目の隅に入った。

 「ヘヘヘ…」 八百屋はあいまいに笑って身体を離した。
 「ははは…」 私も意味なく笑って、身を引いた。

 黙々とレジを済ませて外へ出たとたん、待ちかねたようにキリコが飛びついてきた。

 「ねえ、ねえ、ねえっ! キスしたよねっ! ヨーコちゃん、八百屋とキスしたよねっ! ねっ!」
 「うるさい!」
 「ヤー、どうしよー! あたし本物のキス、初めて見ちゃった。生キスだよね! きゃあ、ドキドキするぅ。いいなー、いいなー、キス!」
 「あんなのはキスでもなんでもない! あれは…あれは事故っていうのっ!」

 舞い上がったキリコには、私の反論など耳に入るわけもない。まだキャアキャア言っている彼女と、山のような野菜を従え、どうにも複雑な気分で家路についたのだった。

End of Vol.16

 

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