こんな私も有権者
自慢するわけではないが、私は怠け者だ。明日できることは、今日やらない。自分のベッドをこよなく愛し、公園や海岸のベンチでボーッと過ごす時間を、無上の幸福と心得ている。
私はまた飽きっぽい。毎日決まった時間に決まったことをする、一週間のスケジュールをたてて行動する、1日5分のストレッチを欠かさず続ける、といったことが昔から苦手なのだ。待つのも嫌いなので、銀行の窓口やスーパーのレジでは長い列を見るだけで方向転換してしまう。1時間待ち、2時間待ちが当たり前のディズニーランドなど、10年以上も前に一度行ってこりごりし、二度と行く気にならない。
そんな私でも、選挙権を得て以来、よほどのことがない限り投票だけは欠かしたことがない。
権利だ義務だと構えて意識したことはないし、自分ひとり投票しようがしまいが、大勢にはな〜んの影響もないことだってわかっている。それでも棄権するのは気持ちが悪い。
だって選挙の結果次第じゃ、法律が変わる、税金が上がる、戦争に加担する可能性だってあるかもしれないではないか。「そんなのいやだ」といくら喚いても、あとの祭り。じゃああんたは反対したのかと聞かれたって、自分からその機会を放棄してしまっていては、ぐうの音も出やしない。
本当は面倒くさいだけなのに、「誰に入れたってどうせ同じ」だなんて、もっともらしい理由をつけて棄権するくらいなら、死んだひいおじいちゃんの名前でも、飼ってる金魚の名前でも書いてきたほうがましだ。
7月12日は参議院選挙だった。
その日はたまたま、午後から数年ぶりの友人たちと会う約束があった。今回から、投票時間は午後8時まで延長されている。外出したついでに、夕方、投票して帰ってくればちょうど都合がいいだろう。
そう軽く考えて出かけたのだが、友人と別れて電車に乗ったとき、時刻はすでに午後7時になっていた。
帰りの電車の乗車時間は30分ほど。8時の投票締切には、ギリギリ間に合うはずだ。
が、こういうときに限って、電車というのは遅れるのである。この日もどこかで信号機故障があったとかで、駅に着いたとき、時計はすでに7時40分をまわってしまっていた。
階段を駆け下りて、自転車置き場から自転車を引っ張り出す。飛ばせば15分ほどで投票所に着くだろう。
折悪しく降り始めた雨が、本降りになってきた。傘もささず、力いっぱいペダルを踏み込んで、人を追い抜き、自転車を追い抜き、ラッシュで徐行するバイクや自動車もついでに追い抜いて、走る、走る。雨粒がピシピシと顔に当たり、濡れた髪が風に煽られ、頬や額にはりついてくる。
(わ、すごい形相。人が振り返ってるよ)
頭の隅で、気だるい声がささやく。
(そんなに、ムキになっちゃって! 焦ったってどうせ間に合わないよ)
「8時まで、まだ10分あるじゃない」と心の中で言い返すが、声は黙らない。
(あんたはつくづく小市民だねえ。今回くらい棄権しちゃえば?)
ダメだ、ダメだ、まだ間に合う! 今日一日、遊びに行く前に投票することだって、1時間早く帰ってくることだってできたのだ。ここへきて時間切れでギブアップしてたまるか。
目に流れ込む雨を振り払い、立ちこぎで坂道を走り抜ける。あとひと息だ。うちの選挙区では、今回から中学校の体育館に投票所が変わった。次の角を曲がればすぐのはず。が、最後の角を曲がったとたん、私は思い切りブレーキをかけた。
雨のなか、自転車にまたがったまま、私は目をこすった。なんと学校が二つ現れたのだ。中学校と高校が、道路を挟んで並んでいる。そのどちらが中学校だっけ?
二つの学校は、陰気な双子のようにひっそりと、暗がりに横たわっている。ああ、どっちが、どっちだろう? しかたなく、学校と学校の間の道をそろそろ走ってみる。と、片方の校門に、〇〇高等学校の文字が見えた。当然もういっぽうが中学校だ。しかしどこから入ればいいのだろう? 夜だというのに、投票所だというのに、どこにも目印になる灯りがついていない。
雨脚がいよいよ強くなるなか、私は校門を探して狂ったように中学の周りを走った。その間にも、時計の針は刻々と8時に近付いていく。「いっそのこと塀を乗り越えて、校庭を突っ切ってやろうか」と本気で考えはじめたとき、ようやく正門にたどり着いた。
投票所に滑り込んだのは8時2分前。有権者の姿は一人もない。バタバタと駆け込んでいくと、手持ち無沙汰に座っていた数人の選挙管理委員の目が、いっせいに私に注がれた。
私が歩いたあとには、小さな小川や水たまりが無数にできた。髪はザンバラ、ぜいぜいと息を弾ませて、威厳もへったくれもありはしない。それでも私は有権者。たとえ締め切り2分前でも、会場に入ってしまえばこっちのものだ。
魅せられたように注がれる視線のなか、私は深呼吸をし、選んだ人の名前を投票用紙に書き込んだ。
投票時間終了のベルが鳴る。「ざまあみろ!」に近い開放感でいっぱいになりながら、鼻歌交じりで投票所を後にする。その背後で、ドアに施錠する音がガシャンと響いた。
キリコが見てる
「ひぇー、どうしたの? ずぶ濡れのヨレヨレじゃん!」
帰宅した私に、キリコが素っ頓狂な声をあげる。
「投票に行ってきた」
「へぇぇ…」
彼女は横目で上から下までじろじろと私を眺め、ちょっとの間何か考えているふうだったが、やがておもむろにつぶやいた。
「よくわかんないけど、選挙って、なんだかものすごくたいへんなことなんだねえ」
そして私にタオルを手渡すと、もはや興味を失ったようにどこかへ行ってしまった。
キッチンの椅子に腰を掛け、濡れた髪をバスタオルで拭いながら考えた。「ずぶ濡れのヨレヨレ」で投票に行ってきた私を見て、キリコはさっき何を思ったのだろう。
『大人ってたいへんなんだな』だろうか。『雨が降ってるなら、傘くらいさせばいいのに』だろうか。
『選挙というのは、それほど大事なことなんだ』と、額面どおりに考えたのかもしれないし、『たかが投票に行くだけなのに、この人がやると、なんでいつでもこんなに大騒ぎになるんだろう』、というのもあったかもしれない。
つい数日前、私たちはバイクのことでやり合った。
16歳になったキリコは、バイクの免許を取ることはできる。しかし彼女は自転車でさえ管理ができない。違法駐輪や放置を繰り返しては、何度も撤去されている。
しかも学校やバイトを理由に、撤去され収容されている自転車を、なかなか引き取りに行こうとしない。面倒くさいのだ。
孫に甘い私の父が見かねて、2キロも離れた収容施設にわざわざ足を運んだことも一度や二度ではない。そんな始末なのに、バイクを買うなどもってのほかだ。
「どーしてダメなの? お願い、ちゃんと管理するからぁ」
「あんたには信用がない。代わりにチャランポランの実績がこってりある」
「ケチ! いいよ、バイト代を貯めて自分でバイク買うから。免許とるのは自由だもん」
「あのねぇ、人や世間に迷惑をかけるような自由は、単なるわがままっていうの!」
「そんなのヘンだ。どんな人にでも自由は無条件で保障されてるって、先生だって言ってたよ」
「基本的人権とバイクは違うのっ。バイクがほしいなら、自分の物はちゃんと自分で管理できるとか、ルールを守って他人に迷惑をかけないとか、証明してみせるのがスジでしょ。自由だ権利だという前に、まずハラを括りなさい、ハラを!」
そのときのやりとりを、私は思い出していた。
自分のことは棚にあげ、私は日頃、やれ主体性をもてだの、責任ある行動をしろだのと、ことあるごとにキリコに言ってきた。一緒にテレビを見ているときも、政治家がやることや社会のあれこれについて、しょっちゅう文句や悪口を並べ立てている。
「いつも偉そうに他人を批判しているこいつは、いざというとき、どう行動するのか」
さっきキリコが見せた表情のなかに、私はそんな冷めた視線をうっすらとだが感じ取っていた。
子どもはたしかに大人を見ている。投票に行って、よかった・・・。
End of Vol.11
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