Darwinism〜岸を離れる日5〜



 脳裏を刺激した鋭い痛みに、それまで半覚醒の状態でたゆたっていた意識が不意に浮上した。

 ぼんやりと開かれた視界には、白一色で統一された無機質な印象の天井が広がっている。見慣れない風景に、ここはどこなのかと自問に陥りかけ……しかし、何か思い至るよりも先に、目も開けていられないほどの眩暈と吐き気に襲われた白鳳は、たまらず目を閉じると喉の奥で低く呻いた。

 手が足が、まるで自分のものではなくなってしまったかのように重い。気を抜いたら最後、意識を失ってしまうのではないかと、危惧するほどの不自然な浮遊感。
 どう贔屓目に言いつくろってみても、摂生を心がけているとは到底言い難い日常の中で、それは、既に馴染んでしまった貧血時特有の倦怠感だった。

 とはいえ、多少の無茶の代償と考えるには、意識を取り戻したにもかかわらず全身を苛み続けるこの倦怠は重過ぎる。
 意志の力ではどうにもならない酩酊感に、無意識の動きで額を押さえかけ……瞬間、利き腕にかかった負荷に、白鳳は遅まきながら、自身が拘束された状態にあることを知らされた。


 左右の手首と二の腕、そして足首にも枷が施されている。背中に当たる硬質な感触から察するに、どうやら研究用の簡易寝台か何かの上に、仰向けに縫い付けられたような状態で、拘束を受けているといった状況にあるようだった。

 意識を失う寸前に置かれていた状況を思えば、それは至極当然の成り行きであるともいえたが……だからといって、不本意な束縛を甘受できるほど、主体性のない気性はしていない。
 自由を奪われた四肢を抗議のようにもがかせかけ……しかし、時を同じくして左腕に走った鋭い痛みに、不意を突かれた喉奥から苦鳴にも似た呼気がもれた。


 と、その刹那―――


 「気がついたか」
 「……っ」

 視野の外から出し抜けにかけられた声に、反射的に身が竦む。ほどなくして、自ら晒してしまった不覚に内心歯噛みする白鳳の視界に、この数日間で嫌が応でも視覚と記憶に刷り込まれてしまった、端整ではあるが非人間的な容色が覗いた。

 「……こ…の……っ」
 「むやみに動くな。針が折れる」


 無感動な声音で言い置かれ、不自由な体制から視線を巡らせれば、先刻痛みを覚えた左腕には、採血用の注射針と思しきものが穿たれたままになっている。
 何をされていたのか思い至った白鳳が、瞬時に気色ばむのもお構い無しに、「ノーベル学者さん」は手にしたアンプルと注射器を、事も無げに白鳳の腕に刺さった針に装着した。
 アンプルに納められていた、得体の知れない溶液が、申し訳程度にしか身動きの取れない白鳳の体内に流し込まれていく。

 「何を……っ」
 「動くな。ただの増血剤だ」

 感情の起伏を感じさせない声音で言い置かれるのと、ほぼ時を同じくして、口内に不自然な粘着感が充満する。

 日頃の不摂生に加え、旅を続ける行程で限界まで無理を重ねてしまうことの少なくない白鳳にとって、それは時折味わわされている感覚だった。それが日頃から世話になっている薬剤の副作用であることは間違いなく、それならば、この人外が自分に処方したのは、本当に純粋な増血剤なのだろう。

 サンプルの提供者として捕らえたはずの身にこんな処置を施さなければならないほど、この人外は自分から血液を採取したということか……

 人の生態や健康状態、遺伝子に組み込まれた正確な情報を手に入れようと思ったら、その人物から摂取した体液を分析することが最も効率のいい研究方法だった。
 血液、粘膜、精液……その中でも最も有益な情報の宝庫である血液に、「ノーベル学者さん」が目をつけるだろう事は、容易に予想がついてはいたが……


 麻酔弾の余波と、急激な貧血にグラグラする頭を二、三度振って意識を立て直しながら、憮然とした面持ちで白鳳は抗議した。
 「……普通、注射器ごと換えてから投与するものじゃないのか?」
 「針の備蓄には限りがある。支援者がいるわけではない以上、支出は極力抑えなければならない」

 同一人物への使用に、なんら問題はあるまいと、当事者にとっては噴飯ものの物言いで結論付けて見せた人外が、白鳳の腕からアンプルの中身を注入し終えた注射器を引き抜く。採血の時から穿たれたままだったらしいそれからようやく解放され、無意識の内に嘆息しながら、白鳳はどこか腑に落ちない心地で傍らに立つ存在を眺めやった。


 注射針の使用は、注入一度につき一つというのが、医療行為の大原則だ。使い捨てが絶対である注射針は、用途を終えた後の使い回しをけして許されない。それが、同じ患者を対象とするものであってもだ。

 感染症を防ぐ事が第一目的だと言われるその原則を、完全なサンプルを求める「ノーベル学者さん」が遵守するというのはある意味自然な成り行きであるのかもしれない。それでも、邂逅の瞬間から数えてもけして長い時間相対してきた訳ではない自分の前で、幾度となく規格外の言動を見せつけてきた「彼」の取ったその処置が、白鳳には意外だった。

 とはいえ、対象に穿ったままの針に新たな注射器を取り付けて使用するなど、到底妥当な行為であるとは言いがたい。針さえ抜かなければいいのかと、あてこすってやりたい衝動が喉元までこみ上げたが……結局、白鳳はそれ以上の言及はしなかった。
 自分も「彼」も、医者ではない。追求すべき問題は他にいくらでもあった。



 ともあれ、「ノーベル学者さん」の投与した薬剤の効果は覿面だった。体内に注入されてからいくらも経ってはいないのに、それまで目を開けているのも億劫に感じるほどだった眩暈と倦怠感が、呼吸をするごとに和らいでいくような心地になる。
 体が楽になってくるにつれて、それまで失神を免れるために掻き集めていた意識が、ようやく他所事に向けるだけの余裕を取り戻した。

 「……スイは、無事だろうな」

 明確になった意識にまず浮かんだのが、盗賊団の少年と共に拘束されていた弟の安否。自分が昏倒していた間にもしもの事があったのなら許さないと、「ノーベル学者さん」をねめつける視線が剣呑としたものになる。
 白鳳の問いかけに、手元の医療器具の片付けを優先した「ノーベル学者」さんは即答で返さない。あの対峙の瞬間から引きずったままの、不自然な興奮状態に置かれた神経にはその程度の間さえも癇に障り、再度同じ言葉を投げかけた声に、意識した以上の剣がこもった。


 「いきり立つな。麻酔の影響で、まだ寝たり起きたりを繰り返してはいるが、意識はしっかりしている。もう半時もすれば回復するだろう」

 対して、事も無げに経緯を説明してみせる「ノーベル学者」さんの声音は、いっそ小面憎いほどに抑揚を感じさせない。のみならず、
「彼」は情動の欠片も取り繕わない鉄面皮のまま、拘束した被験者に反問した。


 「―――『白鳳』、お前にとって、あの小動物は一体なんだ?」


 その問いかけには、少なからず含むところを感じさせるものがあり、咄嗟の返答に窮した白鳳の双眸にも、時を同じくして緊張の色が宿った。

 「……どういう、意味だ…」
 「私は人間という種族を、知識としてしか知りえない。人間の有する感情の機微などというものは、私には理解できない。だが、それでもあの小動物に向けたお前の執着が、尋常なものではないことは解る。お前の言動は、実に興味深く、そして不可解だ」
 「……っ」
 「おまえ自身が研究対象となる以上、疑問点は確実に解明しなくてはならない。……お前にとって、あの小動物は、一体なんだ?」


 拘束を受けたままの背筋が、噴き出した冷たいものでじわりと湿った心地がした。

 そもそもが、「ノーベル学者さん」の最初の興味は、あからさまな異形を有する翠明にこそ向けられていたのだ。そこに奪還を目的とした白鳳が乱入したことで、一時的にその方向がそらされていたに過ぎない。白鳳が声高にその身の安全を訴えれば訴えるほど、「ノーベル学者さん」の探究心が掻き立てられるのは、ある意味当然であるとも言えた。

 だからこそ、迂闊な返答は出来なかった。
 口先だけのおためごかしで納得し、追求の手を引き下げるような生易しい相手ではない。かといって、弟が異形の姿に変じてしまった経緯を、順を追って説明してみせるわけにもいかない。そんな道理は自分にはないし、真相を知ったこの人外が、解明の為と称して想像するもおぞましい生体実験に走ることは疑いようもなかった。


 「……それこそ、お前の言うところの人間の機微という奴だ。人の感情を理解できないというなら、いくら言葉を重ねて説明しても、お前は納得しないだろう」

 緊張に乾く唇を僅かに舌で湿しながら、極力さり気無い口調を装って、慎重に言葉を選ぶ。

 「スイは……あの子は、私にとって、他の何者にも変えられない存在だ。大げさな言い様に聞こえるかもしれないが、あの子の存在そのものが私の生きる目標であり、義務であり、呵責の全てでもある」
 「……お前の言い方は、不可解だ。第三者的視点からの明瞭な説明を要求する」
 「人の機微が解らないなら納得しようがないと言っただろう。とにかく、スイにこれ以上の危害を加えるなら容赦はしない。私の抵抗を封じた気になって増長するな、化け物。どんな手を使ってでもお前を殺してやる」

 四肢を拘束された体制からの恫喝が、眼前の人外に対してどれほどの牽制になったものかは解らない。それでも、どうあっても主導権の一端を手放すわけにはいかない以上、気概の上で相手に遅れをとることはできなかった。

 「……忘れるな。お前が私に対する牽制に使った「切り札」は、お前にとっても自爆装置だ。それでも最悪の事態をお前が招くなら、その時は私も生きてはいない。お前の研究の、生きたサンプルにはけしてならないからそう肝に銘じておけ…っ」


 翠明の身に万一の事態が生じた時は、自分も死ぬと言外に言い捨てて、詰問者との問答を白鳳は強引に打ち切った。敢えて主観的な述懐に終始した返答は、あからさまに「ノーベル学者さん」の不興を買ったはずだが、頓着する必要も感じなかった。
 「ノーベル学者さん」の方も、釈然としない問答に対する物言いは幾つもあったのだろうが、なによりも固執する「生きたサンプル」の完全な保存を優先したのだろう。面白くもなさそうな声で一言、了解した、と返すにとどまった。



 相手の出方を窺うような沈黙が研究所の空気に浸透してから、どれ位の時間が流れた頃だろうか。
 そういえば、と、まるで明日の天気を話題にするかのような気負いのない語調で、沈黙を破ったのはこの研究所の主である人外の方だった。


 「お前のセクシャリティは?」
 「は?」

 突如かけられた、耳慣れない言葉に思わず間の抜けた返し手となってしまう。意味が通じていないことがこちらの声音と表情から伝わったのか、「ノーベル学者さん」は一瞬考え込むような素振りを見せると、質問の言葉を置き換えた。

 「つまり、性的嗜好だ」


 それは、白鳳の身に纏う衣装や、肌や髪の色などから、おおよその出身地を見当付けて選んだ言葉だったのだろう。確かに、そう言い直されれば質問の意図を取り違えようもなかった。そういった方面への自分の行儀悪さは、ほかならぬ白鳳自身が自覚している。
 だが……だからといって、向けられた質問を白鳳が歓迎できるかどうかは別問題だ。

 何が嬉しくて、ほぼ初対面の、それも敵対するモンスターから、自分の性癖云々を取り沙汰されなければならないのか。
 急場である事も忘れ、白鳳は、真顔で自分の答えを待つ人外に白い目を向けた。


 「……私が魚色家だろうが禁欲家だろうが男色家だろうが、それがお前に何か関係があるのか?そもそも、この状況でそんな個人的な話題を持ち出すこと自体に、無理があると思うんだが」

 言外に相手の不調法を揶揄する言葉は、質問者になんら感銘を与えるものではなかったらしい。「彼」は形ばかりの謝罪をした後、大いに興味深く関係のある命題だと続けてみせた。

 「お前の言うとおり、お前が私のオリジナルとなる因子の提供者であるとする。そうなれば、おまえ自身の嗜好が先天的なものであるか後天的なものであるかは、研究に値する命題だ」
 「……いまいち、話が読めないんだが」
 「研究者の探究心を、余人が理解できるとは思わない」

 先刻の問答への意趣返しであるかのように、言葉尻にこめられた皮肉でちくりと釘を刺すと、それでも「ノーベル学者さん」は出来の悪い生徒に噛み砕いて言い聞かせるかのような口調で解説を続けた。

 「飲食に関する嗜好、情操面に端を発する嗜好などは、往々にして後天的な環境と教育によって形成されることが多い。それは誕生後の要因でいくらでも「調整」がきくものだから問題はない。だが、それが先天的な要因によるものであれば、遺伝子レベルでの干渉を行わない限り、「補正」は不可能になる。お前という生体からのサンプルによって私自身の進化を追求するからには、お前に「補正」不可能な、歓迎されざらかる因子が内在していては困るのだ。ましてや……」
 「……っ」

 言って、予備動作もなく伸ばされた「ノーベル学者さん」の白い指先が、拘束されたままの白鳳の顎を捉えた。反射的に逃げを打った被験者の抵抗を抑え込むように、尚も指に力をこめながら、探求者を自称する人外の双眸に、不穏な光が宿る。


 「―――ましてや、性的嗜好ともなれば、生殖能力の可否にも関わってくる。次世代に遺伝子を継承できるか否か……より完全な進化を目指すからには、見過ごし出来ない問題だ」
 「な……っ」
 「「白鳳」、お前自身の性的嗜好など、本来であればなんの研究価値もない。お前達人間の言葉を借りるなら……そう、まさに「他人事」だ。だが、お前という人間を構成する遺伝子情報が関与してくるとなれば話は別だ。遺伝子レベルの刷り込みがなされている可能性が否定できない以上、嗜好の方向性は正しく把握する必要がある。そしてそこに、見過ごし出来ない「欠陥」を発見した場合……」



 それまで言葉面は淡々と紡がれていた探求者の論述が、思わせぶりな沈黙を以ってふつりと途切れた。
 相手の出方を待つよりない状況に置かれ、せめて外面だけは付け入る隙を晒すまいと、白鳳は眇めた双眸で「ノーベル学者さん」をねめ据えた。
 跳ね上がる自らの鼓動と戦いながら十秒が過ぎ、二十秒が過ぎ―――



 「……排除、もしくは可能な限りの組み替え作業を、念頭に入れておかなければならない」
 「……っ」


 さながら品定めであるかのような、人外の続く言葉を、白鳳が知覚できた時……
 伸ばされた指先によって拘束を受けたままだった白鳳の喉元に、時を同じくして、硬質な金属を思わせる物体が押し当てられた。



 束縛された簡易寝台と噛み合わさる大仰な物音に、それが自らの両手両足を拘束するものと同種の枷であることを悟った時……白鳳は、既に頭一つ動かすことも出来ない状態に陥っていた。




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