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「頼忠殿。お帰りなさいませ。」 「只今戻りました。」 四条の屋敷。にこやかに挨拶する女房に、軽く会釈する。 「花梨様は室にいらっしゃいます。」 「そうですか。」躊躇いがちに尋ねる。「あの、お元気でしょうか?」 「もうそろそろ三ヶ月経ちますのに、未だに慣れませんか?」苦笑い。「直接お尋ね下さいな。何も遠慮する必要など無いのですから。」 「はぁ・・・。」 「頼忠殿は花梨様の夫君ですよ?ここではもっと堂々となさったら宜しいのです。」 「いや、しかしあの方は龍神の神子であり―――。」 「神子の役目は終わりました。」何時の間にか側に来ていた花梨が言った。「今はもう、ただの一市民です。」 そう言ってから、ふっと自嘲気味な視線を庭に向ける。 「尤も、神子だったからこんな我が儘な願いが叶えられたんですけどね。」 『妻』の室の中で寛ぐ。 「今日は何をなさっておいででしたか?」 「勝真さんと法勝寺に行ってきました。」 「お二人で、ですか?大丈夫だったのですか?」 驚き心配して尋ねる。 「うん。帝側だった勝真さんだから遠くからじろじろ見る人はいたけど、警戒しているという雰囲気ではなかったです。」 「それは良う御座いました。」 「幸鷹さんにも途中で会ったんだけど、幸鷹さん、図書寮に気軽に行けるようになったって喜んでいましたよ。」 「さようで御座いますか。」 「慣れていない場所だと少し緊張するけど、そこにいる人は誰も気にしていないようだし、もうどこでも自由に行けますよ。」 「貴女のおかげです。」 「いいえ。」にっこり微笑む頼忠に対して、花梨は首を振った。「みんなで頑張ったからです。」 ふと室の隅に積み上がった文箱が眼に入った。若い貴族からの文―――恋文。 「まだ諦めないようですね。」 「うん。」興味無さそうに白湯を一口飲む。「折角、彰紋くん達に神子は結婚したと噂を流してもらったのにね。こんな恋文が人妻に堂々と送られてくるとは想像出来なかったよ。」 人妻でも気にしない一人の好色な男が花梨に恋文を贈った。「貴女の御名を耳にする度に、何故その男よりも早く出逢えなかったのかと、この運命の非情さに涙を流しております。」と。それがきっかけとなり、遠慮していた男達も我も我もと贈って来るようになったのだった。 「そうですね。」 「でも、独身だったらもっと凄かったのかな?」文箱を見ながら考える。と、頷いた。「うん、そうだろうね。これでもマシなんだろうな。やっぱり頼忠さんに頼んで良かったんだろうね。」 返事など、当然書いた事なんてない。最近はさすがに面倒で、読まずに処分している。だが、捨てても捨てても次から次へと届く。そう、この山はたった今日一日に届いた文で出来たのだ。しかも幸鷹達の話では、成り行きを見守っている者もまだ大勢いるらしい。『元龍神の神子』の肩書きは、こんなにも魅力があるのか。 「・・・・・・・・・。」複雑な瞳で手の中の椀を睨む。「神子殿は―――。」 「もう神子じゃありません。私は花梨です。」 「しかし、主をそのようにお呼びするわけには・・・。」 「ふぅ・・・・・・。」ため息。「夫が妻を神子殿って呼んでいたら不自然でしょう?」 「・・・・・・・・・。」 「この文の贈り主達が諦めるように演技をして下さい。」 「・・・・・・・・・。か、花梨殿。」 もごもご。 「呼び捨ては出来ませんか?」 「それはさすがに・・・・・・お許し下さい。」 「分かりました。諦めます。」 劇の中で夫婦を演じていても、花梨は『妻』にはなれない。花梨は『主』を辞められない。 「申し訳ありません。」 「で、さっきの話の続き。何?」 「あ・・・。か、花梨殿は、何故この役目に頼忠を選んだのですか?」 「・・・・・・・・・。」 「夫のふりなら、私以外の者の方が良かったのではありませんか?」 心にも無い事を口にする。 武士の妻だからこそ、貴族はこの少女を諦めない。貴族でも勝真や泰継は下級貴族だから頼忠と大して変わらない。だが、幸鷹や泉水なら家柄も身分も申し分は無く、その妻を奪い取ろうとは簡単に考えなかっただろう。それに翡翠ならもっと安全だったのではないか?海賊の妻に手を出そうとする度胸のある貴族はいないのだから。 「ここでは通い婚でしたっけ。」飲み終わった椀をもてあそびながらぽつりと呟く。「誰でも良かったんですよね。一年、長いけどたった一年ですものね。」 「・・・・・・・・・。」 『神子殿に頼忠の一年を差し上げる・・・・・・?』 困惑して訊き返す。 『生命を賭けて守ったこの京がどうなるのか、見届けたいんです。でも、煩わしい事に巻き込まれると面倒だから、隠れ蓑になってくれませんか?』 『隠れ蓑、で御座いますか?』 『はい。私が京に残る理由、になって欲しいんです。』 『それは・・・・・・。』 言っている意味が分からず、言葉が止まる。 『龍神の神子の肩書きを捨てたいんです。自由になりたいんです。』 『何をすれば宜しいのでしょうか?』 『えぇ・・・・・・、簡単で迷惑な事です。』真っ直ぐ頼忠の瞳を見つめ返した。『結婚してくれませんか?』 『――――――は?』 『一年。 長いけど、一年間、私の夫のふりをして下さい。』 『・・・・・・・・・。』 呆然と眼を見開き固まっていたが、花梨には返事を聞くまでも無く、頼忠が『従者』としてそれに従ってくれると分かっていた。頼忠にとって『主』の命令は絶対だから。 新年の行事が大体終わって町全体が落ち着き始めた頃、頼忠は四条の屋敷に正式に通い始めた。この屋敷に住む花梨という名の少女の夫として。―――実際は、庭でしていた警護を室の中からしているようなものだが。 「貴族の奥さんだと、姫君の生活になるんじゃありませんか?」 「・・・・・・・・・。」 「それだと自分の足で京を回る事は出来ませんよね?自分の眼で見て自分の耳で聞く事は。」 「翡翠は・・・・・・?」 「翡翠さん?」考える為に少し間が空く。「翡翠さんが結婚するって想像出来ませんけど?」 「・・・・・・・・・。」 「冗談は兎も角。今も配下の人達に追われている翡翠さんだと、余計なトラブルに巻き込まれそうです。」 「とら・・・ぶる?」 「えっと・・・騒動、です。伊予に戻って来てくれって、このお屋敷を取り囲みそうです。」 「それも・・・そう、ですね。」 その答えは納得出来るものだ。だが、どうしても信じる事は出来ない。 「頼忠さんが一番適任だったんです。運が悪かったと諦めて下さい。」白湯をもう一杯貰って来ようと呟き、立ち上がった。「その代わり、外でもここでも自由にして構いませんから。」御簾に手を掛けるとちらりと頼忠を見る。「女性と夜遊びしても咎める事などしませんから。」 「なっ!」 ぎょっと立ち上がりかけたが、花梨はそのまま御簾の外に立ち去った。 「・・・・・・・・・。」 追い掛けたい気持ちを抑え、無理矢理御簾から手の中の椀に視線を戻した。そう、頼忠は『夫のふり』をしているだけだ。少女に頼忠を一人の男としてみて下さいとは懇願出来ない。『真の夫婦』になりたいと願う事は許されていないのだから。 「花梨。」 心の奥底に住む愛しい女(ひと)の名を密かに呟く。 『貴女がこの京に残った本当の理由は何なのですか?』 関心の無い頼忠を夫にしてまで、京に残った理由は。 自然と視線は御簾の外に向かう。戻って来る筈の少女の面影を求めて。 「っ!」 故郷を恋しがって一人泣いていた少女を縛り付ける理由など、容易に想像出来る。 考えるな。考えてはいけない。 御簾から視線を引き剥がすと同時に、答えからも眼を逸らす。そしてすっかり冷めてしまった白湯を一気に飲み干した。 |