02



「頼忠殿。お帰りなさいませ。」
「只今戻りました。」
四条の屋敷。にこやかに挨拶する女房に、軽く会釈する。
「花梨様は室にいらっしゃいます。」
「そうですか。」躊躇いがちに尋ねる。「あの、お元気でしょうか?」
「もうそろそろ三ヶ月経ちますのに、未だに慣れませんか?」苦笑い。「直接お尋ね下さいな。何も遠慮する必要など無いのですから。」
「はぁ・・・。」
「頼忠殿は花梨様の夫君ですよ?ここではもっと堂々となさったら宜しいのです。」
「いや、しかしあの方は龍神の神子であり―――。」
「神子の役目は終わりました。」何時の間にか側に来ていた花梨が言った。「今はもう、ただの一市民です。」
そう言ってから、ふっと自嘲気味な視線を庭に向ける。
「尤も、神子だったからこんな我が儘な願いが叶えられたんですけどね。」



『妻』の室の中で寛ぐ。
「今日は何をなさっておいででしたか?」
「勝真さんと法勝寺に行ってきました。」
「お二人で、ですか?大丈夫だったのですか?」
驚き心配して尋ねる。
「うん。帝側だった勝真さんだから遠くからじろじろ見る人はいたけど、警戒しているという雰囲気ではなかったです。」
「それは良う御座いました。」
「幸鷹さんにも途中で会ったんだけど、幸鷹さん、図書寮に気軽に行けるようになったって喜んでいましたよ。」
「さようで御座いますか。」
「慣れていない場所だと少し緊張するけど、そこにいる人は誰も気にしていないようだし、もうどこでも自由に行けますよ。」
「貴女のおかげです。」
「いいえ。」にっこり微笑む頼忠に対して、花梨は首を振った。「みんなで頑張ったからです。」

ふと室の隅に積み上がった文箱が眼に入った。若い貴族からの文―――恋文。
「まだ諦めないようですね。」
「うん。」興味無さそうに白湯を一口飲む。「折角、彰紋くん達に神子は結婚したと噂を流してもらったのにね。こんな恋文が人妻に堂々と送られてくるとは想像出来なかったよ。」
人妻でも気にしない一人の好色な男が花梨に恋文を贈った。「貴女の御名を耳にする度に、何故その男よりも早く出逢えなかったのかと、この運命の非情さに涙を流しております。」と。それがきっかけとなり、遠慮していた男達も我も我もと贈って来るようになったのだった。
「そうですね。」
「でも、独身だったらもっと凄かったのかな?」文箱を見ながら考える。と、頷いた。「うん、そうだろうね。これでもマシなんだろうな。やっぱり頼忠さんに頼んで良かったんだろうね。」
返事など、当然書いた事なんてない。最近はさすがに面倒で、読まずに処分している。だが、捨てても捨てても次から次へと届く。そう、この山はたった今日一日に届いた文で出来たのだ。しかも幸鷹達の話では、成り行きを見守っている者もまだ大勢いるらしい。『元龍神の神子』の肩書きは、こんなにも魅力があるのか。
「・・・・・・・・・。」複雑な瞳で手の中の椀を睨む。「神子殿は―――。」
「もう神子じゃありません。私は花梨です。」
「しかし、主をそのようにお呼びするわけには・・・。」
「ふぅ・・・・・・。」ため息。「夫が妻を神子殿って呼んでいたら不自然でしょう?」
「・・・・・・・・・。」
「この文の贈り主達が諦めるように演技をして下さい。」
「・・・・・・・・・。か、花梨殿。」
もごもご。
「呼び捨ては出来ませんか?」
「それはさすがに・・・・・・お許し下さい。」
「分かりました。諦めます。」
劇の中で夫婦を演じていても、花梨は『妻』にはなれない。花梨は『主』を辞められない。
「申し訳ありません。」
「で、さっきの話の続き。何?」
「あ・・・。か、花梨殿は、何故この役目に頼忠を選んだのですか?」
「・・・・・・・・・。」
「夫のふりなら、私以外の者の方が良かったのではありませんか?」
心にも無い事を口にする。
武士の妻だからこそ、貴族はこの少女を諦めない。貴族でも勝真や泰継は下級貴族だから頼忠と大して変わらない。だが、幸鷹や泉水なら家柄も身分も申し分は無く、その妻を奪い取ろうとは簡単に考えなかっただろう。それに翡翠ならもっと安全だったのではないか?海賊の妻に手を出そうとする度胸のある貴族はいないのだから。
「ここでは通い婚でしたっけ。」飲み終わった椀をもてあそびながらぽつりと呟く。「誰でも良かったんですよね。一年、長いけどたった一年ですものね。」
「・・・・・・・・・。」


『神子殿に頼忠の一年を差し上げる・・・・・・?』
困惑して訊き返す。
『生命を賭けて守ったこの京がどうなるのか、見届けたいんです。でも、煩わしい事に巻き込まれると面倒だから、隠れ蓑になってくれませんか?』
『隠れ蓑、で御座いますか?』
『はい。私が京に残る理由、になって欲しいんです。』
『それは・・・・・・。』
言っている意味が分からず、言葉が止まる。
『龍神の神子の肩書きを捨てたいんです。自由になりたいんです。』
『何をすれば宜しいのでしょうか?』
『えぇ・・・・・・、簡単で迷惑な事です。』真っ直ぐ頼忠の瞳を見つめ返した。『結婚してくれませんか?』
『――――――は?』
『一年。 長いけど、一年間、私の夫のふりをして下さい。』
『・・・・・・・・・。』
呆然と眼を見開き固まっていたが、花梨には返事を聞くまでも無く、頼忠が『従者』としてそれに従ってくれると分かっていた。頼忠にとって『主』の命令は絶対だから。


新年の行事が大体終わって町全体が落ち着き始めた頃、頼忠は四条の屋敷に正式に通い始めた。この屋敷に住む花梨という名の少女の夫として。―――実際は、庭でしていた警護を室の中からしているようなものだが。
「貴族の奥さんだと、姫君の生活になるんじゃありませんか?」
「・・・・・・・・・。」
「それだと自分の足で京を回る事は出来ませんよね?自分の眼で見て自分の耳で聞く事は。」
「翡翠は・・・・・・?」
「翡翠さん?」考える為に少し間が空く。「翡翠さんが結婚するって想像出来ませんけど?」
「・・・・・・・・・。」
「冗談は兎も角。今も配下の人達に追われている翡翠さんだと、余計なトラブルに巻き込まれそうです。」
「とら・・・ぶる?」
「えっと・・・騒動、です。伊予に戻って来てくれって、このお屋敷を取り囲みそうです。」
「それも・・・そう、ですね。」
その答えは納得出来るものだ。だが、どうしても信じる事は出来ない。
「頼忠さんが一番適任だったんです。運が悪かったと諦めて下さい。」白湯をもう一杯貰って来ようと呟き、立ち上がった。「その代わり、外でもここでも自由にして構いませんから。」御簾に手を掛けるとちらりと頼忠を見る。「女性と夜遊びしても咎める事などしませんから。」
「なっ!」
ぎょっと立ち上がりかけたが、花梨はそのまま御簾の外に立ち去った。
「・・・・・・・・・。」
追い掛けたい気持ちを抑え、無理矢理御簾から手の中の椀に視線を戻した。そう、頼忠は『夫のふり』をしているだけだ。少女に頼忠を一人の男としてみて下さいとは懇願出来ない。『真の夫婦』になりたいと願う事は許されていないのだから。
「花梨。」
心の奥底に住む愛しい女(ひと)の名を密かに呟く。
『貴女がこの京に残った本当の理由は何なのですか?』
関心の無い頼忠を夫にしてまで、京に残った理由は。
自然と視線は御簾の外に向かう。戻って来る筈の少女の面影を求めて。
「っ!」
故郷を恋しがって一人泣いていた少女を縛り付ける理由など、容易に想像出来る。
考えるな。考えてはいけない。
御簾から視線を引き剥がすと同時に、答えからも眼を逸らす。そしてすっかり冷めてしまった白湯を一気に飲み干した。







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