20



「・・・・・・・・・。」
自分の室に戻る途中、りんはふと立ち止まった。そこからしばらくの間庭を眺めた後、階を下りる。頼忠が夜、警護をしている辺りで立ち止まった。
辺りを見回して木々や植え込み、柱の陰で人が隠れられそうな場所を探す。しかし、警戒心など持っていないりんには注意すべき場所など分かる筈も無い。
「駄目だ。私には警護のお役目は務まらないや。」
首を振ると、身体の向きを変えてそこから自分の室を見上げた。
頼忠とは身長差があるから、見える景色は全く違うだろう。しかし、ここが頼忠の立ち位置だ。そしてりんは、建物の中。
「頼忠さんは、どうして自分の生命も大切だって気付いてくれないの・・・・・・?」
あんなに言ったのに。しかし、何度言っても頼忠には伝わらなかった。りんは守るべき大切な女ではあるが、頼忠にはその価値が無いらしい。りんだって頼忠に生きていて欲しいと願っているのに。
「ばか・・・・・・。」
零れ落ちる前に、袖で涙を拭った。

「りん。」

顔を上げて声の主を探す。と、りんの室から翡翠が出て来て階の上で立ち止まった。
「お風邪を召してしまう前に戻っておいで。」
「うん、分かった。」
泣いていたのを悟られないように無理に笑顔を作ると、階に向かった。
「りん。」
階に近付いた時、翡翠が手を差し出した。何も考えずにその手に自分の手を重ねて上る。
だが。
「ありがと。―――翡翠さん?」
簀子に上がったのに何時までもその手を離さない翡翠を訝しげに見上げる。しかし翡翠は何も言わずに指をりんの眼尻に滑らせた。
「っ!・・・・・・・・・。」
身体が強張る。だが、普段は優しげな瞳の奥に隠されている想いが現れていて、りんはやっと全てを理解した。
胸に感謝の思いが溢れて来る。だが―――。
眼を瞑るとゆっくり手を引いた。
「・・・・・・・・・。」小さなため息を吐くと握っていた手から力を抜いた。りんの手を解放する。「今宵は冷えるよ。暖かくしてお休み。」
「・・・・・・ありがとう。・・・・・・ごめんなさい・・・・・・・・・。」
右手には力強くも優しい温もりが残っていて、りんはもう片方の手を重ねて胸の前で握り締めた。翡翠は大切な人だ。頼忠の身代りには出来ない。帰って行く背中に、小さく呟いた。



頼忠以外の八葉に守られ、明王の札を全て手に入れた。そして京を分断していた結界が消えた。京を滅亡に追い込もうとする元凶が姿を現す。明日、神泉苑で百鬼夜行を止める戦いがある。早く寝て体調を整えなければならないというのに、最後の夜だと思うと眠る気になれない。
「荷物整理でもしよう。」
室の掃除は毎日、神子付きの女房がやってくれていたし、花梨も自分の世界の物を見ると気が弱くなりそうで触っていない。だから片付けなければならない物なんて無い。だが、無駄にあちこち動き回る。
カサリ。
制服の皺を伸ばそうと広げた時、小さな音がしてポケットから何かが零れ落ちた。
「これって・・・・・・。」
小さな袋を拾い上げ、しげしげと見つめた。


花梨がこの京に連れて来られる直前、学校での朝の出来事。
『花梨!これ、美味しいから飲んでみなよ。』
新発売のお菓子やケーキなどの情報を教え合う仲の良い友人が、花梨に小袋を手渡した。
『何これ?って、コーヒーじゃない。私、コーヒーは苦いから飲まないって、知っているでしょ?』
砂糖やミルクを入れても、苦みがある。ジュースやココアは好きだが、コーヒーは飲まないのだ。インスタントコーヒーの小袋を返そうとしたが。
『ちっちっちっ。』人差し指一本立てて花梨の顔先で揺らした。『コーヒーはコーヒーでも、これはモカラッテだよ。チョコレートのように甘いの。』
『チョコレート?』
チョコレートは大好きだ。手を引っ込めて小袋の説明書きを読む。
『そう、チョコレート。コーヒーだから苦味はあるけど。』眉を顰めた花梨に、思わせぶりな眼つきで見つめた。『大人の恋と同じだよ。甘いのに、苦い。花梨も後学の為に飲んでみなよ。』
『何よ、小馬鹿にして。あんただって誰とも付き合った事無いじゃないの〜!』
奥手の花梨をからかう友人に、こちらも応酬してふざけ半分に軽く指で額を突いた。


「大人の恋、か・・・。」
その時は友人共々大笑いしたのだ。花梨達が通う学校は女子高の為、男の子との出会いはほとんど無い。だから恋なんてまだまだ先の事だと思っていたから。
「飲んでみようかな・・・?」
最後の夜だ。今まで頑張ったご褒美に、今夜ぐらい自分を甘やかしても良いじゃないか。
花梨は立ち上がり、お湯を貰いに室を出た。


廂に座り、下ろされた格子に寄り掛かった。凍えるほどの寒さの中、両手で包み込んだ椀から湯気が立つ。強張った指先を温めながら立ち昇る香りを十分に楽しむ。
「ん〜、チョコレートの香りって何だかホッとする・・・。」
唇を尖らせてフーフーと息を吹きかけ、冷ます。
「ほぅっ・・・。味もちゃんとチョコレートだ。甘い・・・。」
一口ずつ口に含み、じっくりと味わう。濃厚なチョコレートの甘味が口の中に広がる。飲み込むと、舌の上に微かな苦みが残った。
「頼忠さん・・・・・・。」
頼忠は容姿が優れているだけでなく、優しく暖かで、誠実な男性。女の子なら誰もが憧れる男性だ。そんな素敵な男性に生命を賭けても守りたいと想われるなんて、そして本当に実行してしまうなんて、漫画やドラマの世界に入り込んだ気分。奇跡。甘い夢。
だが、そんな甘いチョコレートの奥に潜む苦みに気付いてしまった。生命を賭けるという事は、失う危険性を含んでいるのだ。恋の意味を知った花梨はもう、甘さだけを求めて突っ走れるほど子供では無い。しかし、この苦みに耐えられるほど大人でも無い。
「モカラッテは大人の恋の味・・・・・・。」
自嘲気味に呟くと、一気に飲み干した。



「神子殿・・・・・・。」
頼忠は閉じられた妻戸を見つめていた。
頼忠は四条の屋敷の警備を任されている。だが、襲った日以降、当然の事ながら神子に近付く事は許されていない。
しかし、あんなに優しい微笑みを見せてくれたりんが何故急に頼忠を避けるようになったのか、納得出来る説明が欲しい。
「翡翠は分かっているのだな。」
原因は頼忠にあり、りんには避ける理由があるのだと。だが、いくら考えても頼忠には分からない。
「望み、神子殿の望み・・・・・・。」
りんの望みは、知らない世界にたった独りでいる苦しみや辛さを理解してくれる人が欲しいという事。何がなんでも守ってくれる人、味方が欲しかった。そうだった筈なのだが、今は違う。では、あの時と今では、何が違うのだろうか?
「八葉・・・か・・・・・・。」
八葉の全員がりんを真の龍神の神子と信じているだけでは無い。女人と気付いていなくとも、気遣い、大切に思っている。りんは今、独りぼっちではない。
「頼忠はもう、必要ではない、と・・・・・・。」
そういう事ですか?他の男の方が信頼出来ると、奴らの方が良いと・・・・・・。
握り締めた拳が震える。ただもう居ても立ってもいられず、りんに話が聞きたくて、逢いたくて階を上った。


「・・・・・・。」
頼忠が警護をしているという事で、以前は女房によっては油断して戸締りを忘れる者がいた。今夜はどうだろうかと、緊張しながら戸を押す。
キィーーー。
微かな音がして開いた。その隙間に身体を滑り込ます。
「もう、休まれているだろうか・・・?」
完全に入り込んだ途端、ふと気付いて立ち止まった。己は何をやっているのだろう。明日は早い。そして重要な日だ。既に御寝所に入られている時間帯、話など出来る訳が無い。
それでも未練がましく神子の室の方を見た。
と。
「っ!?」
室の前に、何だかこんもりと盛り上がっている不審な物がある。危険な物かどうか、確認しようと駆け寄った。
「神子殿?神子殿!大丈夫で御座いますか?」
怪しげな物体と思ったそれは、りんだった。気分が悪くて倒れたのかと、慌てて抱き抱えたが。
「ん・・・っ・・・・・・。」
煩そうに顔を顰めて頼忠の手を振り払うと、袿に顔を埋めた。
「ただ・・・眠っていらっしゃるだけ、なのか・・・・・・?」
椀が側に転がっている。ここで何かを飲んでいる内に、疲れからうっかり眠り込んでしまったようだ。それならば心配はいらない。安堵し、大きく息を吐いた。
椀を安全な場所に置き、りんを抱え直す。
当然の事だが、八葉は頼忠を警戒し、りんに近寄れないようにしていた。そしてりん自身、逃げていた。たった十日あまりの事だったが、もう何年も逢う事の出来なかった恋人に触れた気分だ。
「神子殿、これは・・・どういう事ですか?」
動揺が去ると、気付かなかった事が眼に飛び込んで来た。
りんは頼忠の袿を纏って眠っている。貸した頃なら兎も角、今は全てが真冬用の装いだ。散策に出掛ける時の衣は当然、御帳台や几帳、夜着から布団全てが。だから、頼忠の袿の代わりは幾らでもあるのだ。それなのに何故、わざわざこれをお召しになられているのか。
厭うているなら、衣だって見たくはない筈。ましてや、身に纏うなど考えられない。
「貴女は・・・頼忠をお厭いになられたのではないのですね・・・・・・。」
それなのに何故、拒絶なさるのですか?
嫌われた訳では無い事に安堵するが、それ以上に理由が分からず混乱する。
「うう〜ん・・・・・・。」
もぞもぞと頼忠の腕の中で身動ぎし、寝心地の良い姿勢で再び寝入った。
「・・・・・・・・・。」
頼忠の胸を枕とし、丸くなって眠るりんの寝顔を見つめる。それほどの重みは無いにしろ、確かな存在感。切ない思いが胸を締め付け、涙が頬を流れ落ちていく。






注意・・・最後の戦いの前夜。

イメージしたのは
ネ○レのHOMECAFE・MOCHA(モカラッテ)。
ゲームPC版が発売された頃はまだ、発売されていなかった気もしますが・・・・・・。