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「神子殿、どうなっさったのです。顔色が宜しくありませんが、体調が悪いのですか?」
疲れきった顔のりんに、幸鷹が眉を顰めた。
「寝不足。昨夜はほとんど眠れなかったんだ。」
脇息に肘を付き、頭を支えた。
昨夜は船岡山での出来事が頭から離れず、一種の興奮状態で眠るどころでは無かった。悪いのは自分、あんな場所で居眠りしてしまった花梨が悪いのだ。だが、りんを抱き締めたあの男が恨めしい。
「そんな状態では辛いだろう。今日は休みなさい。」
翡翠も心配して優しくそう言ったのだが。
「ううん、大丈夫。明王様の課題は終わったけど、怨霊はまだ沢山いるんだし、頑張るよ。」
勢いよく立ち上がった。
と、その時。
「神子殿、お早う御座います。」
りんを寝不足にした張本人が室に入って来た。
その声が聞こえた途端。
「うわっ!?」
りんは飛び上がった。
ガン!
ゴットン、ゴンゴンゴンゴロ・・・。
その拍子にすぐ先ほどまで使っていた脇息に躓き、蹴っ飛ばした。勢いよく転がって行く様子に動揺し、一歩二歩と下がる。
ドン!
「あ。」
だが、今度は肩が几帳にぶつかった。
バタン!
ガタガタ、ガシャン!!
几帳が引っくり返り、文机の上に置いてあった文箱を吹っ飛ばした。
「りん?」
「神子殿?」
白虎の二人が驚き立ち尽くしている間に、頼忠がその二人の間を抜けて足が縺れて転ぶ寸前のりんの腰に腕を回して抱き締めるように支えた。
だが。
「ぎゃあ!?」
悲鳴を上げて暴れ、りんが頼忠の腕を振り解いた。しかし反動で倒れ込む。そのまま四つん這いの状態で離れて行った。
「どうしたと言うのだね?」
翡翠がりんの側にしゃがみ込んだ。と、りんは真っ赤な顔でジタバタしていて、思わず苦笑い。
「神子殿、大丈夫ですか?」
幸鷹が倒れた几帳を起こしながら尋ねた。
「いや、駄目なようだね。」
翡翠が代わりにそう答えると、幸鷹はぎょっとして几帳を放り投げて近寄った。
しかし。
「頼忠、お前は神子殿に何をしたのだね?」
「え?頼忠?」
続けられた言葉に、怪訝に思いながら頼忠を見る。と、頼忠までが真っ赤な顔を手で隠していた。
「全く、これでは役目どころでは無いな。今日は一日休んで頭を冷やしなさい。」
「え?おま、お前はみ、み、神子殿に何をし、したのです!?」
動揺のあまりどもりながら詰問している幸鷹の腕を掴むと、翡翠は様子のおかしい二人を残して強引に連れ出した。


その日の内に、二人のおかしな様子が八葉に伝わった。



数日後のある日、頼忠がりんの室に入って来た。
「神子殿。失礼致します。猫が行方不明なのですが、御存じありませんか?」
『シィ〜!』
途端、りんは唇に一本の指を立て、静かにするように合図を送った。
『どうなさったのです?』
忍び足となって近付くと、囁くような小さな声で尋ねた。りんの視線を辿ると、膝の上で子猫がりんの手を枕にしてスヤスヤと眠っていた。
『子猫が逃げてしまいまして、大騒ぎとなっているのですが。』
『うん。それは聞こえたけど、寝ているのを起こすのは可哀想で。』
りんが額から後頭部に掛けてゆっくりと撫でると、子猫は眠ったまま気持ち良さげに微笑んだ。
『そうですね・・・・・・。』
りんの子猫を見る眼つきにちょっとばかり嫉妬心を抱きながら呟いた。
と。
「神子。猫を見なかったか?」
泰継が入って来た。静かにするように頼むよりも早く、猫の気配に気付いてヅカヅカと近寄って来た。
「ミャ?」
危険を察したのか、子猫が飛び起きた。
「いたな。連れて行く。」
手を伸ばした。だが、子猫が嫌だとばかりに爪を立てた。
「痛っ!?」
「あ。」
細い筋が3本、りんの手の甲に付いた。血が滲み出て来る。
「神子?」
猫を探して泉水も室に入って来た。
「神子、すまない。」
「あぁ、大丈夫大丈夫。猫を相手した時は引っ掻き傷が付きもんだから。それにこんな傷、舐めればすぐに治るよ。」
さすがに子猫の反応を予測しなかった事を反省し謝る泰継に、軽い調子で言った。
だが。
「申し訳ありません。私の失態で御座います。」
さっさと連れて行けばこんな事にはならなかったと、頼忠が後悔していた。早く治って欲しいと、心からそう願う。
「大丈夫ですか?血が出ておりますが。」
泉水が手拭いを取り出したが、それよりも早く頼忠がりんの手を取った。そして。
「失礼致します。」
その言葉が言い終わるか終らないか、その傷口に唇を押し付け、血を舐めた。
「っ!?」
「あ。」
「・・・・・・。」
3人が茫然としている事に気付かぬまま、丹念に舐め続ける。
「あ・・・・・・。」
舌が傷の下の肉を撫でる度にゾクリとした寒気とは違う感覚が背中を駆け抜ける。もう片方の手で口を押さえた。
「あ・・・・・・と、え・・・・・・っと。」はっと我に返った泉水が周りを見回し、逃げだす口実を探した。「そう、猫が逃げてしまいましたね。また探さなくては。―――失礼致します。」
早口でそう言うと、泰継の腕を取り、あたふたと立ち去った。
「血が止まったようです。」
やっと顔を上げた。と、真っ赤な顔のりんと眼が合い、ぱちくりと瞬きを繰り返した。
「えっと・・・、治療、ありがとう御座います・・・・・・・・・。」
「?―――あ・・・・・・。」
己の行為にやっと気付き、真っ青になった。だが。
「あの・・・ね、人前では気を付けて欲しいかなって・・・・・・。」
困っていても嫌がってはいない様子にふっと笑みを零した。
「・・・・・・・・・。そうですね。申し訳ありません。」
「お願いします・・・・・・・・・。」
「以後気を付けます・・・・・・・・・。」



傍目からは男同士の恋愛事というちょっと戸惑う状態ではあったが、周りの者達は静かに見守っていた。そのおかげでお互いの想いをゆっくりと育んでいた―――の、だが。



「頼忠さん、大丈夫ですか!?」
りんが駆け寄った。怨霊との戦いの中で、頼忠がりんを庇って攻撃を受けたのだ。袖口から血が滴り落ちた。
「御心配お掛け致しまして申し訳ありません。不覚を取りましたが、そう大した傷では御座いません。」
手拭いでその傷を押さえるりんを、無事守れた事に安堵し嬉しそうに見つめる。
「大丈夫って傷じゃあ、無いよ!血が止まらないじゃない・・・・・・。」
手拭いが真っ赤に染まり、顔を歪めた。涙目で睨む。
「おい、頼忠!」りんの代わりに封印した札を拾った勝真が二人の元に駆け寄り、怒鳴った。「りんを守ろうとするお前の気持ちは分かる。だがな、それで自分自身の防御を忘れたら意味が無いだろうが!!」
「心配には及ばん。私は武士だ。鍛えている。」
しかし、どこか取り憑かれているようにも見える眼つきが不安を誘う。
「八人揃ってこそ八葉です。誰かを犠牲にしたら守ったとは言えません。」
怒りの形相で幸鷹が言った。しかし頼忠にその言葉は届かない。
「貴女は龍神の神子、唯一無二の大切な方です。この頼忠の生命を賭してもお守り致します。」
「だからそれはダメなんだってば。全然嬉しくないんだよ・・・・・・・・・。」
額を頼忠の胸に当てると、ポロポロと泣きだした。
「神子殿・・・・・・。」
困ったように、だが愛おしげにその髪に触れる。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
眉間に皺を寄せた二人は顔を見合わせ、ただ深いため息を漏らした。



四条の屋敷、頼忠を除く八葉が控えの間に集まった。
「困りましたね。」
彰紋が顔を曇らせながら庭を見た。
「そうですね。頼忠は神子をお守りする事しか頭にありません。」
泉水は祈るように胸元で数珠を握り締めた。
「恋とは恐ろしいものだね。あれだけ鍛練したものが全て無意味となるとは。」
「笑い事ではありません。」
幸鷹が睨むと翡翠は肩を竦めて見せた。
「確かに笑い事では無い。八葉が欠けては神子は力を発揮出来ぬ。放って置く訳にはいかぬ。」
泰継の言葉は正しい。だが、頼忠は子供では無い。言って聞かせて駄目だから罰を与える、という訳にもいかない。
「りんを守らなきゃいけないのは分かっているさ。だけど何をそんなにムキになっているんだ?戦いの場に出ているんだ。りんだって怪我の一つや二つ、覚悟はしているさ。」
イサトが苛立たしげに言った。
頼忠は一番の戦力の筈だった。だが、無茶をするせいで他の者達は余計な気を遣わねばならなくなっている。足手纏い、今の頼忠が正にそれだ。
「そうだな。あいつを守りたいと思っているのは、何も頼忠だけじゃない。俺だって、みんなだってそうだ。だが、女子供を守るのとは訳が違う。あれは共に戦うっていう態度じゃない。」
「えぇ。勇気があるのと無謀なのは違うと、何かの折に言ったのは頼忠だったのですが。これでは何時取り返しのつかない事態に陥ってもおかしくはありません。」
勝真が吐き出すように言うと、幸鷹も頷いた。
「確かに、頼忠が怪我をする度にりんの顔が曇っていくね。りんの方が倒れてしまうかもしれないよ。」
「・・・・・・・・・。」
りんは力のある龍神の神子だ。人を想う心は更に強くする。だが、弱点にもなる。翡翠の言葉が容易に想像出来てしまい、全員が黙り込んだ。







注意・・・温泉の翌日〜数日後。ゲーム第4章半ば頃。