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「あれは・・・・・・?」
眼の端に見知った姿が見え、頼忠は急に向きを変えると大股で近付いて行った。りんが一人、走っては立ち止まって周りを見回し、首をひねりつつまた走り出す、を繰り返している。
「あれぇ?こっちだと思ったんだけどなぁ。」
「神子殿。」
頼忠が声を掛けると、立ち止まった。挑むような瞳で睨んでくる。
「何?」
「お一人で出歩くなど危のう御座います。誰か供の者はいないのですか?」
りんは今、東の札を探す為に青龍の二人、頼忠と勝真と行動を共にしている。だがあの口論の日以降、頼忠とは二人きりになった事は無い。だからしこりが残っている為にお互いに警戒し、口調はきつい。
「今日は前から休みの予定だったから誰もいません。」
「えぇ、そう連絡を受けておりましたから今日は屋敷には伺わなかったのです。それでは何故、屋敷内で休まれずに此処にいらっしゃるのですか?」
りんが休みを取るなんて珍しい。違和感を抱いたが、さすがに疲れて休みを取られたのだろうと思うようにしたのだ。ご自身の体調に気を御遣いになられたのなら嬉しい事だから。
「東寺近くに怨霊に襲われた人がいるって聞いたんです。だから穢れを祓おうと思って。」
「左様で御座いましたか。」確かに穢れは放って置く事は出来ない。頷いた。「では、私が供をさせて頂きます。宜しいですね?」
「・・・・・・・・・はい。」
有無を言わせないその瞳に渋々頷いた。



「神子殿、御顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
龍神の力を使うのは、体力的にも精神的にも消耗する。青白い顔色に、眉を顰めた。
「大丈夫です。屋敷からずっと走って来たから疲れただけです。」
呼吸困難を起こしている老人の側に座った。
薬師や陰陽師といった者に依頼する事の出来ない貧しい庶民は死を待つだけ。助けてくれる者も、頼れる物も無い。結局これが、今浄土を願う原因なのだろう。京を救うという事は、そういう者達に希望を抱かせる事。―――穢れを祓う事。
りんは骨と皮ばかりの老人の手を握った。
『龍神様・・・。このおじいさんの穢れを祓って下さい。お願い、助けて。』

シャ・・・ン。シャン・・・・・・。
―――神子、お前の望みを叶えよう。・・・・・・だが・・・・・・―――

りんの手先が光り、老人の頬の痣のように見える黒い影が薄れ、代わりに赤みが差した。
『え?何?何て言ったの、龍神様?――――――・・・・・・・・・・・・。』
「おぉ〜〜〜!」
「凄いぞ!!」
老人の呼吸が穏やかになり、周りの者達からどよめきが起こる。
だが。
「神子殿?神子殿!」
頼忠が揺れるりんの身体を支えた。
「・・・・・・・・・。」
「神子殿、どうなさいましたか?本当に大丈夫なのですか?」
「・・・・・・・・・。」
りんは眼を開けると、黙ったままふらりと立ち上がった。お礼を言ったり質問したりしている者達を避け、家を出る。
「神子殿!―――申し訳無い。今は急いでいるのです。―――神子殿、お待ち下さい!」
神子の代わりに頼忠に纏わり付いて来る者達を押し退け追い掛けた。



「神子殿、どこかでお休み致しましょう。」
「もう用事は終わった。だから帰る。」
側にいる筈の頼忠の声が遠くから聞こえ、頭がぐるぐると回っている。開けた冷蔵庫から出て来るような冷気が身体を包む。自分では早足で歩いているつもりだが、足元はふらつき、危なっかしい。頼忠はりんの腕を掴んだ。
「では、車をご用意致しますので少々お待ち頂けますか?」
「・・・・・・・・・っ。」
反論するのも億劫、りんは頼忠の手から逃れようと腕を引っ張った。だが、りんの具合が悪いのははっきりと分かる。支えが無ければ今にも倒れそうだ。頼忠はしっかりと掴んだまま離さない。
「ご病気なのではありませんか?それで今日、休まれたのでは無いのですか?」
「病気なんかじゃない。ただの物忌み。」
「物忌み?」さっと顔色が変わった。「星の一族のお二人から説明を受けたではありませんか。何故屋敷を抜け出されたのです!?」
「何よ、何で怒っているの?」怒りで頬が紅潮した。「これが神子の役目でしょ?だから役目を果たしに来たんじゃない。何の文句があるって言うのよ?」
「しかし今日は五行の力の影響を強く受ける日です。危険で御座います。」
「危険危険ってそれが何だってのよ!」怒鳴った。「怨霊と戦うのだって危険に変わりは無いでしょ?力の具現化だって穢れを祓うのだって、龍神様の力を使うのは体力も気力もすっごく消耗するんだよ。」
「ですから―――。」
「どんなに頑張っても、もっと頑張れ、もっと頑張ろう、でしょう?散々好き勝手に連れ回してこき使っているくせに、今更わざとらしい事言わないで!!」
心配顔が白々しく、苛立たせる。感情を一気に吐き出した。
「神子殿、そうでは無く―――。神子殿?神子殿!」
「・・・・・・・・・。」
だが、それで最後の気力まで使い切ってしまったようだ。意識が遠退いた。



「ぅ〜〜〜ん・・・・・・。」ゆっくりと意識が浮上する。何度か瞬きを繰り返すと薄暗い室内の様子がはっきりと見えた。「―――っ!」
飛び起きた。だが、眩暈がして褥に倒れ込んでしまう。
「神子殿。お目覚めでしょうか?」
几帳の垂れ布に映った影が揺れ、頼忠の声が聞こえた。
「頼忠さん?あの、此処は何処?」
今度は慎重に起き上がると周りを見回した。外は真っ暗、室の隅で燈台の明かりが揺れている。此処はりんの室ではない。掃除が行き届いて小綺麗だが、狭く、置いてある家具も簡素で四条の屋敷とは思えない。
「此処は私の所属する武士団の離れ、頼忠の室で御座います。」
「頼忠さんの?」
「はい。―――無礼だと承知しておりますが、物忌みの影響で倒れられたのですから一刻も早く休まれた方が宜しいと思いまして、四条の屋敷よりも近いこちらにお連れ致しました。それに。」声が小さくなった。「神子殿の意識がありません時に女房の手に委ねるのも・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
胸に触れると、セーターの柔らかく温かい素材の感触。一番上の衣は脱がされているが、その下はそのままのようだ。寝苦しいが、さすがに女の衣を脱がせるのは躊躇い、遠慮したのだろう。
「・・・・・・・・・。」
沈黙が気まずい。
「お世話になりました!紫姫が心配しているだろうから帰ります。」
掛け布団を捲り出た。だが。
「いいえ。四条の屋敷には、夜も遅く危険ですのでこのままお預かり致しますとご連絡致しております。」
「・・・・・・・・・。」
「ですから、私は隅で控えておりますので、そのままお休み下さい。」
「でも、これって頼忠さんの布団、褥でしょ?私が使っちゃ頼忠さんが寝る場所が無くて困るでしょう?」
「いえ、任務中ですと褥以外で眠る事もよくある事ですから慣れております。お気遣いは無用で御座います。」
「・・・・・・・・・。お休みなさい・・・・・・。」
物忌みの影響を受ける恐れの時間帯は過ぎている。だから外に出て、帰っても大丈夫の筈。だが、今まで無理をしていた疲れが一気に出たのか、全身ダルく、思うように動かない。大人しく横になった。


だが。


「ん・・・・・・・・・。」
今宵何度目かの寝返りを打った。疲れきっているのに、眠れない。男の室に泊まっている、室の隅に男がいる、という緊張が原因では無いのは分かっている。
『どうして・・・・・・?』
昼間までの頼忠と先ほどの頼忠の態度は同じなのだが、雰囲気がまるで違う。近付くのが怖かった男はいなくなった。しかし、着込んだ鎧にヒビが入ったような、心が裸にされたような不安感が胸を押し潰す。
「眠れないのですか?」
頼忠が低く静かな声音で話し掛けた。
『っ!』
びくっと身体が縮み込む。
そのまま沈黙が流れる。と、燈台の明かりが入り込んだ隙間風に揺れ、消えた。
すっと気配が動き、小さな音がして再び明かりが灯った。
「・・・・・・・・・・・・神子殿。真の龍神の神子であられるあなたを偽者かと疑い、非礼な態度で接した事を深くお詫び申し上げます。しかしあなたの御心を傷付け続けた日々をいくら謝罪しても許されるものでは無いと承知しております。どのような叱責でも受ける所存です。」
「・・・・・・・・・。」
叱責の言葉を待つが、りんは何も言わない。だが、起きているのは、頼忠の言葉に耳を欹(そばだ)てて聴いているのは気配で分かる。この思いが少しでも伝わるようにと祈りながら、一言一言はっきりと話す。
「これからはあなたが龍神の神子のお役目を果たされるが故に掛かるご負担が少しでも軽くなるよう、八葉として誠心誠意尽くす所存で御座います。私で代われる事は全て引き受けます。しかしその言葉だけで信じる事は出来ぬと思います。ですから、これからの頼忠の行動をご覧になっていて下さいませんか?そして御判断下さいませんか?」
「・・・・・・・・・。」
頼忠は普段ほとんどしゃべらず、何を考えているのか分からない所がある。だが、実直な性格は行動を見ていればすぐに分かる。その頼忠が考え選びながら口にした言葉は。
上掛け代わりの袿を震える手で握り締め、胸元に引き寄せた。
「頼忠の生命を賭してもあなたをお助けし、お守り致します。怨霊との戦いだけでなく、普段の生活でも、孤独感に苦しむ御心も。」
「・・・・・・・・・。」
「龍神の神子だけでなく、坂倉りんという御名の女人をもお守り致します。」
「・・・・・・・・・・・・。うん・・・、お願い・・・・・・します・・・・・・・・・。」
自分が何に対して苛立ち、何を望んでいたのか、ようやく分かった。そして、それを理解してくれる人がいると知った喜び、そして安心感に包まれた。
上掛けを引き被り、止めどなく流れ落ちる涙を、漏れて来る嗚咽を隠した。


『神子殿・・・・・・・・・。』
何時までも続く痛々しい泣き声を、頼忠は黙ったまま聴いていた。
これまでりんの苦しみや哀しみを見て聞いていたのに、今の今まで正しく理解していなかった。

―――龍神の神子は孤独―――

これは八葉がそうさせていたのだ。龍神の神子はこうであるべき、やって当然、と決めつけて心を持った一人の人間だという事を失念していた。
『いや、私が追い詰めたのだな。』
この地に降り立った瞬間から側にいて見ていた筈の頼忠が。
強い瞳は諦めの印(しるし)。八葉という従者が守ってくれる事は無いと、自分自身で望みを叶えるしかないと。
こんなにも強い力を持つ龍神の神子になられても、この京に降り立った時と同じ迷子の子猫のような女(ひと)・・・・・・・・・。
『お守り致します。貴女の御心に、二度と髪の毛ほどの掠り傷さえも付けさせません。そして必ず、貴女の世界にお帰し致します。』
几帳の奥で小刻みに揺れている小さな身体に誓っていた。






注意・・・第3章前半・物忌み。