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夜、花梨はそっと室を出た。 井戸で水を汲み、桶に入れる。それを近くの椅子代わりになる大きな石の側に置いた。 「・・・・・・・・・。」 手に巻いてある布を外すと、掌には血が固まっていた。桶に浸し、もう片方の手で丁寧に擦り落とす。だが、親指の付け根のふっくらとした部分の傷は思っていたよりも深く、完全には塞がっていない。 「血、止まってないや・・・。」 チュク。 滲み出る血を舌で舐め、吸い取る。 『大丈夫ですか?』 怨霊との戦いが終わった後、頼忠が尋ねた。 『大丈夫。大した事は無い。』 怨霊の攻撃を受け、転んだ拍子に掌を擦ってしまったのだ。刺さっている尖った石だか陶器の欠片だかを抜くと、血が溢れた。 『お怪我しておりますね。薬を塗りましょう。』 そう言って懐から小さな入れ物を取り出したが。 『んな傷、唾付けときゃ治る!』イサトが怒鳴った。『もう一ヶ所行くんだろ?とっとと行くぞ!』 そう言ってさっさと歩き出した。幸鷹と泉水もチラリとりんを見たが、怪我の程度は軽いと判断したのだろう、歩き出した。 『置いて行かれちゃうよ。行こう!』 手拭いを取り出して乱暴に手に巻くと走ってみんなを追った。 再び桶に浸して血を洗い流す。そして布で押さえるようにして水気を拭った。 眼を瞑ると布を握り締め、傷口に爪を立てた。 「痛い・・・・・・・・・。」 じんじんと痺れるような痛みが、腕を伝って肩や胸の辺りにまで走る。 もしも、もしもりんが女だと知っていたら。そしたら心配してくれただろうか?可哀想だと思ってくれただろうか?傷が残るかもしれないと大騒ぎになっただろうか? 無理だろう。首を振った。 りんの力が増していくに従い、八葉は少しずつ信頼を寄せるようになってきている。だがそれは、龍神の神子として役に立つと思っているからだ。それを証拠に、その思いに反するような事態になればすぐにまた以前の状態に戻る。 ―――あなたは本当に龍神の神子なのですか?――― 『そうだよね。龍神の神子じゃなければ、私なんかいらないもんね。』 それは被害妄想だとも思うが、だからと言って優しく接してくれるようになるとも思えないのだ。まぁ、女を怒鳴るような真似はしなくなるかもしれない。だがその代わりに、胸の中で文句を言うだろう。面と向かって言われた方が、辛いが対処出来る。やはり黙っていよう。 「早く寝なきゃ。」 布できつく縛りあげると、立ち上がった。桶の水を捨て、綺麗に片付けると室に戻って行った。 ある日の事。 「怨霊、どこにもいないみたいですね。」 町中を散策しながら噂話に耳を傾けていたが、怨霊に関する話は一つもなかった。 「そのようですね。」幸鷹が微笑んだ。「最近、りん殿が戦い方のコツを覚えて下さったおかげで効率良く祓えるようになりましたからね。」 「被害に遭われる方が減るのは喜ばしい事です。ありがとう御座います。」 頼忠も頷きながらりんを見たが、りんはちっとも嬉しいとは感じなかった。 「じゃあ、力の具現化でもしましょうか。」 この近くに弱っている土地はありませんか、と二人に尋ねたが、幸鷹は遠くを見ている。その視線を追うと、大勢の人が笑い騒いでいた。 「沢山の人が集まっていますね。何かあるんですか?」 「今日はあそこで市が立っているのです。」 「市?あぁ、縁日のようなものでしたっけ。」幸鷹が検非違使別当として、騒ぎを起こす人がいないか気になるのだろうと納得し、頷いた。「少し寄って行きますか?あぁいう場所に怨霊が出ると大変な事になりますから。」 「そうですね。ありがとう御座います。」 ホッとしたように感謝の笑みを浮かべた。 市では食糧や生活道具などを売る店が並んでいる。どこの世界でも、人間にとって買い物は楽しみの一つのようだ。商品を選んだり説明を聞いたり、値段交渉で騒がしい。 そんな中。 「りん殿?」 頼忠が一人離れて消えたりんを探して周りを見回した。 「あぁ、あそこにいますよ。」 幸鷹が先に気付き、歩み寄った。 「・・・・・・・・・。」 「何を見ているのです?―――櫛?」 「うん、綺麗だね。見惚れてた。」手に取った櫛を見つめながら上の空で答えた。だが次の瞬間、はっと我に返った。これは女物、男のりんが興味を示すのは不自然だ。恋人への贈り物を探しているのではないのだから。「紫姫に似合いそうだなって。」 「紫姫?確かにこれは美しいですが、紫姫には少々大人っぽすぎるのではありませんか?」 「確かに。あの長い綺麗な髪の印象が強くて年齢は忘れてた。」これは若い娘用だ。だが、童用ではない。「紫姫の年齢だとこっちか。」 棚に戻し、代わりに端に置いてあった櫛を手に取った。可愛い花が優しい色で塗られている。 「そうですね。」 そんな会話を幸鷹としていると、横から腕が伸び、りんが気にしていた櫛を取り上げた。 「これを。」 『あ、買われちゃった・・・・・・。』 釣られるように代金を払う長い髪の男を見上げた。と。 「はい、どうぞ。」 りんに差し出した。 「翡翠殿!?」 「幸鷹さん、お知り合いですか?」 知り合いは知り合いでも、口調から友人でないのは分かった。 「りん殿、お気を付け下さい。その男は海賊です。」 「っ!」 瞬間、その男とりんとの間に頼忠が身体を入れた。 「こんな場所で騒ぎを起こすつもりかい?」翡翠と呼ばれた男は呆れたように肩を竦めると少し動き、再びりんに櫛を差し出した。「気に入っていたのだろう?」 「え?でも・・・ボク、女物は・・・・・・・。」 「ボク?」片方の眉を上げたが、すぐに微笑んだ。「美しい物を美しいと思う心を恥じる事は無いよ。」 強引に躊躇うりんの手に乗せた。 「あ。でも・・・。」 「要らないならお気に入りの女人に贈れば良い。」 「何故あなたがここにいるのです!?」 「忘れたのかい?京に用事があると言っただろう。」 「用事?どんな用事です!?」 「・・・・・・・・・。」 説明する気などないとばかりに睨んでいる幸鷹にからかいの視線を投げ掛けると、すっと人混みの中に消えて行った。 「くっ!」 騒ぎになってしまう為、見送る事しか出来ない。悔しげに背中を睨み続ける。 「・・・・・・どうしよう、これ・・・。」 「まぁ・・・あの男は返しても受け取らないでしょうから。」幸鷹はりんが、男が女と思われてばつの悪い思いをしているだろう、と思ってもごもご言った。「そのまま頂いておけば宜しいでしょう。」 「う・・・ん・・・・・・。」 困ったように何時までも手の上の櫛を見つめていた。 室に戻った花梨は、男に貰った櫛を長い時間、眺めていた。 「やっぱり私、女なんだなぁ・・・。」 『花梨』だけでなく、年頃も娘なら誰もが好む、繊細な細工の美しい櫛。何時間眺めていても飽きない。自分の物だ、自由に使える、と思っただけでワクワクする。 「あの人の眼には私が『女』に見えたのかな?」 ちょっぴり、いや、凄く嬉しい。女の子として優しく接して貰えるのは。だが。 「龍神の神子の役目が終わらない内は、帰れないんだよね・・・。」 花梨にとっての一番重要な事、それは一日も早く自分の世界に帰る事だ。 朱雀がりんを龍神の神子と認め、続いて青龍も認めた。疑いの眼差しで睨んでいた男達の眼が変わってきている。これで院を呪っている怨霊を祓う事が出来れば、りんは龍神の神子としての役目を果たした事になる。 「そしたら、帰れるんだよね。私・・・花梨に戻れるんだよね。」 それには『女の子』よりも『男の子』でいた方が良いのかもしれない。下手に気を遣われ、大事にされて役目を一日伸ばしにするよりも、追われるようにこなした方が早く終わる。 「この櫛は女性用・・・・・・。」 そう、『りん』には似合わない、いや、相応しくない櫛。 「・・・・・・・・・。」 今はまだ、高倉花梨には戻れない。戻ってはいけない。 ぎゅっと櫛を胸元で握り締めた。 「ボクは・・・坂倉りん・・・・・・。男の子だ・・・・・・。」 シュルシュルシュル。 「神子様、褥の準備を致しますね。」 花梨と同じ年頃の女房が入って来た。 「お願いします。」 「はい。」 微笑むとテキパキと動く。その動きに併せ、身長よりも長い髪がサラサラと揺れる。 「・・・・・・・・・。」 その髪を見ながら、膝の上に櫛を持った手を置いた。 そうだ、自分は龍神の神子となると決めたのだ。そして龍神の神子は男の子なのだ。この櫛は要らない。 「では、失礼致します。」 褥を整え終えた女房が御簾に近付き、頭を下げた。 「ちょっと良い?」 立ち上がり掛けたその女房に櫛を差し出しながら声を掛けた。 |
注意・・・第1章後半頃。 |