◆状況
スペイン継承戦争の結果、スペインの領土は各地で縮小。南ネーデルラントをオーストリアに、ジブラルタルをイギリスによって奪われた上に、イタリアでの反乱を鎮圧することができずにナポリ王国の独立を許している。サルデーニャ島はサヴォワ公爵家の所有となり、新たにサルデーニャ王を称している。(ゲームではサヴォワのままだが)
オーストリアはトルコより新たにセルビアを手にし、さらに西方に勢力を拡大。ロシアはクリミアと戦い、黒海への出口を手に入れた。
急速に拡大を続けるプロイセンは北ドイツをほぼ統一。南ドイツのカトリック諸侯はオーストリアと同盟し、プロイセンの拡大に対抗している。
◆戦略
残り100年を切っているが、ドイツ統一までの時間的余裕は十分ある。このプレーレポートではBBレートをあまり上げないことを心がけていたため、急速な拡大を続けてきた1740年時点においてもBBレートはいまだ5.8(*1)。
残るドイツ諸侯はカトリックがバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンで、バイエルン以外はオーストリアと同盟中。プロテスタントのヴュルツブルクはプロイセンと同盟を結んでいる。
陸軍技術は既に他国を引き離して世界一であり、内政方針の極端な陸軍主義・質重視のボーナスも受けて非常に高い士気を誇っている。この技術差を生かして、鉄と血でもってドイツを統一していくことにする。
1840年時点での技術力 |
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普 |
英 |
仏 |
墺 |
蘭 |
葡 |
露 |
西 |
瑞 |
土 |
波 |
丁 |
陸軍 |
40 |
35 |
31 |
37 |
35 |
26 |
25 |
30 |
34 |
26 |
20 |
27 |
海軍 |
27 |
43 |
22 |
16 |
35 |
27 |
6 |
20 |
32 |
12 |
8 |
26 |
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拡大するプロイセン領土
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1740年の内政方針
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指揮官フリードリヒ2世
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◆オーストリア継承戦争
1740年、先代フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が没し、フリードリヒ2世が即位。同年オーストリアでも皇帝カール6世が没し、娘のマリア・テレジアがその所領を継承する。
1724年にカール6世は女子の領土相続権を宣言した国事勅令を発布していたものの、これに反対するバイエルン・フランス・スペインが異議を表明。プロイセンも史実通りに反ハプスブルクの立場を取り、共同歩調を取るこの3国との関係が大きく改善される。
1741年、プロイセンはオーストリアに宣戦布告。高い技術と士気を持つプロイセン軍は各地でオーストリアを破り、シュレジエン・ベーメンに侵入。救援のヴュルテンベルク・バーデン軍も退け、1年後にはオーストリア領の3州を占領する。
翌1742年、シュレジエンを割譲させ講和。鉄を産出するシュレジエンには既にオーストリアによって武器工場が建設されており、これによりプロイセンの陸軍技術開発はさらに加速されていった。戦後、同盟国ヴュルツブルクを属国化することに成功する。
◆ブレーメン危機
1745年、デンマーク領となっていたブレーメンで反乱が発生。これをドイツ編入を求めるブレーメン市民の意思表示と解釈し、デンマークに宣戦布告。この頃には既に両国の陸軍技術の差は15まで開いており、プロイセン軍は各地でデンマークを破る。
圧倒的な装備と兵力の差にデンマーク軍は手も足も出ずに、ついにコペンハーゲンが陥落。結局ブレーメンを併合し、400ダカットもの多額の賠償金を得てデンマークより兵を引いた。
◆七年戦争
1752年、属国ヴュルツブルクを外交併合。これで残るドイツ諸侯は残り3国となった。
オーストリア継承戦争以来シュレジエンの奪回を目論んでいたマリア・テレジアであったが、1753年にプロイセンに宣戦布告。3年早い七年戦争の幕開けである。
オーストリア側にはロシア・ヴュルテンベルク・バーデンの3国が参戦。一方プロイセンはヴュルツブルクを併合したばかりで対外関係を改善する暇も無く、同盟から孤立している状態でのことであった。
こちらは技術で勝っているとはいえ、オーストリアとロシアの二正面作戦をするのは厳しい。とりあえずは急ごしらえでシュリーフェンプランもどきの作戦を立て、ロシアは国境でくい止めることにして陸軍の大半を南ドイツに差し向ける。
戦況は思うようには動かず、特に1州のみの小国ながら4万もの大軍を抱えていたバーデンに大苦戦。一時はヴュルツブルクを占領されてしまう。それでも月収を国庫に入れ、ひたすら募兵を続けてなんとか1755年にはバーデンを、1756年にはヴュルテンベルクを占領。それぞれ属国化して分離和平し、戦線から脱落させることに成功した。
一方ロシア方面では、30万を越えるロシア軍の前に東部方面軍が壊滅。後から後から送り込まれるロシアの大軍を前に、1756年にはクールラントとメーメルが陥落していた。
執拗にクールラント割譲を迫るロシアの使者を黙殺し、バーデン陥落で得たオーストリア方面の余剰兵力を東部方面に差し向ける。さすがに技術力の差からロシア軍を押し戻すことに成功し、1757年にはこちらから150ダカットを払うことで分離講和した。
これにより全兵力をオーストリアに向けることができたため、戦況は一気に好転。ベーメンに進軍し、1759年にエルツを占領する。しかし国庫は空になり、戦争疲弊によってポズナニでは反乱が勃発。これ以上の戦争継続は得策でないと判断し、オーストリアより50ダカットの賠償金を得て講和した。
国力は大きく疲弊したものの、ドイツ2国を属国化することに成功したために得たものも大きい戦争であった。
◆普仏戦争
1766年、属国バーデンとヴュルテンベルクを相次いで外交併合。これで残る諸侯はオーストリア継承戦争以来フランスと同盟を結んでいるバイエルンのみとなった。
1767年、フランスがヒューロンを併合したことにより一時的な大義名分を獲得。バイエルンの同盟参戦を狙ってフランスに宣戦布告する。
早速バイエルンが参戦、圧倒的な兵力を送り込みバイエルン軍を破り、要塞突撃によってわずか3ヶ月でバイエルンを属国化させた。
フランス方面においては、ライン川を超えてエルザスに進軍。しかしながらフランスの動員力は侮れず、数十万もの軍勢が救援にくる。こちらも全兵力を国境地帯に集結させるが、両軍決め手に欠き睨み合いが続いた。
1769年、両国は現状の国境の承認を条件に白紙和平を結び、普仏戦争は終結した。
このとき属国にしたバイエルンは1777年に外交併合し、これで小ドイツ統一はフランス領のエルザスを残すのみとなった。
◆世界情勢
第一回のポーランド分割イベントが発生し、新たにポズナニが中核州に。とはいえ既にポズナニはプロイセン領であり、戦争に発展することはなかった。
1760年代以降自立の動きが高まっていた北米のイギリス植民地であったが、度重なる本国からの課税に対しついに植民地人が武装蜂起。13州は独立に向けて結束し、1773年にはアメリカ合衆国を宣言してイギリスとの独立戦争が始まった。3年にわたり続いた戦争は合衆国側の勝利に終わり、イギリスの威信は大きく失墜することとなってしまった(*2)。
プロイセンに二度敗れたオーストリアは専ら内治にまわり、ヨーゼフ2世の元で農奴を廃止するなど啓蒙的改革に努めている。
幾度にもわたる大戦争を経たプロイセンは以後国力の回復に努め、その後は積極的な軍事行動に出ることはなくなっていった。
(*1)英語版ではBB1につき、安定度上昇コストが1%上昇する。
(*2)イベントにより勝利ポイント-400。
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