◆状況



弱国は淘汰され、各地で大国が成立しつつある。
トルコ・オーストリアが中欧で勢力を拡大する一方、イングランド・フランス・オランダといった後発の植民国家が多くの海外植民地を持ち始めてきた頃でもある。
特にアイルランドの大半を征服し、スコットランドを属国化した上に北米に多くの植民地を建設したイングランドの勢力伸張が著しい。
ブランデンブルクは前世紀から2州増え、合計5州を領有するドイツの中堅国となり、北西の4州を持つオルデンブルク、西ドイツのクレーフェと同盟中である。



◆戦略

領土が拡大したものの、周辺国は大国ばかりで単独で立ち回るのは難しい。
ただ、南方のオーストリアはトルコの圧迫により思うように拡大政策が取れず、ポーランドも技術でやや劣っているため領土の大きさほどの脅威ではない。
当分の間はドイツの新教諸侯と友好関係を保ちつつ、イベントで領地が拡大するのを待ってから攻勢に出ることにする。
探検者の登場を期待していたものの、国内政策が陸軍主義重視ということもありさっぱり登場しない。もはやこの時代には収益の出る植民地は全て他国に抑えられているので完全に植民は諦め、ヨーロッパでの覇権に全力を挙げることにする。


◆三十年戦争

1605年、三十年戦争の幕開けともいえる福音同盟の誘いが来た。当然新教諸侯について参戦するつもりなので、異もなく加盟することにする。これにより新教諸国およびフランスとの関係が大幅に改善。まあ、史実ではフランスの参戦はもっと後になってからなのだが。
相手方も同じく福音同盟を受けているので、二重のイベント効果により周辺の友好関係が大きく上昇した。
一方オーストリアをはじめとする旧教諸侯はカトリック同盟を結成してこれに対抗するものの、元から新教と旧教間の関係は最悪なのでこちらへの影響はない。イベントによりすぐに戦争ということはないが、国際関係は自然と緊張することになった。


◆クレーフェ継承

1609年、クレーフェの男系が断絶。遠縁のブランデンブルクが相続することになり、イベントによりクレーフェを併合。ついでにクレーフェとミュンスターの2州に中核州を得た。中核州はナショナリズムが発生しない上に、自国の中核州を持つ国に対しては永久大義名分が与えられるので非常に重要なものである。
現在ミュンスターを領有しているのは同盟国のオルデンブルク。国力は同程度であり婚姻→属国化→併合の流れは使えないため、同盟の期限切れを待って攻撃することにする。
また、クレーフェはカトリック州であるため、資金が貯まり次第宣教師を送ってプロテスタントに改宗させたい。


◆北ドイツ戦争

翌年、オルデンブルクとの同盟が期限切れとなたったため兵力を増強。新たにプファルツ・ザクセンの同盟に加入し軍隊の準備ができたところでオルデンブルクに宣戦する。ちなみにプレイから約200年経って、これが初めての宣戦布告となる。
対するオルデンブルクはヴュルツブルクと同盟、この戦争は北ドイツの大半の諸侯を巻き込んだ大規模な戦争となる。
クレーフェより出発した軍がミュンスターを包囲。一方オルデンブルクもブランデンブルク領のハノーファーに攻撃をかける。相手はハノーファー攻撃に全軍を向けており、こちらはクレーフェとハノーファーに軍を2分していたためあっけなく壊滅。ハノーファーが包囲される。
同盟国プファルツ・ザクセンもヴュルツブルク相手に一進一退であり、包囲までは至っていない。現在はミュンスターとハノーファーで包囲をしあっている状況だが、このままでは要塞の小さいハノーファーが先に陥落することは目に見えている。急遽予算を国庫に入れて軍資金をため、ブランデンブルクで軍を再編する。
半年後、速成のブランデンブルク軍2万5千がハノーファー包囲軍を撃破。陥落寸前のハノーファーは辛くも窮地から脱することができた。
その後、ミュンスターが陥落。更なる戦果のために敵首都オルデンブルクに軍を進めるが、直後にミュンスター割譲で和平を打診してきたため受諾。こちらも資金が尽きてきたため、戦争継続は割に合わないと判断した。
ミュンスター獲得により、クレーフェの飛び地は解消される。しかし領地は細長く守りにくい形になり、先ほどのハノーファー包囲の教訓から各地の要塞を拡大していくことにした。


◆同君連合

1615年、ホーエンツォレルン家のプロイセン公アルブレヒト・フリードリヒが後継者無く没し、プロイセンは同じホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントが継承することになった。これによりブランデンブルクがプロイセンを継承し、新たにプロイセン・メーメルの2州を飛び地として得る。
なるべく早めに飛び地を解消して税収ペナルティを解除したいので、今後は対ポーランド戦に備えていくことにする。
1637年、ここで少しずるい手ではあるが、ポンメルン継承イベントを発生させるために属国としてポンメルンを作成する。
同年2月、ポンメルン継承イベントが発生。これによりポンメルンはスウェーデン領となり、代わりにブランデンブルクは前後ポンメルンとダンツィヒを新たに中核州として得た。完全にプレーヤーチートではあるが、結果的に1州を失ったので収入は減ってしまった。ただ、ポーランド領の後ポンメルン・ダンツィヒに中核州を得たことで、念願のポーランドに対する大義名分を手に入れることに成功した。


英語版では飛び地の収入ペナルティは海軍/陸軍スライダの影響を受ける

「ブランデンブルク軍の改革」イベント

◆第1次ポーランド戦争

ポンメルン喪失後、しばらくは領内の軍備と要塞の整備にいそしむ。時間が経つほどブランデンブルクとポーランドの技術差は開いていくため、しばらく時間を稼いだほうがいいと判断したためである。
1640年になり、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが即位。同年「ブランデンブルク軍の改革」イベントが発生し、陸軍技術の投資額が上昇する。
1644年、陸軍技術に3の差がついたのを見計らい、同盟国オランダを誘いポーランドに宣戦布告。ポーランドの同盟国は南独バーデンであったが、内陸で領土が隔てられているため参戦は不可能。 実質的にブランデンブルク対ポーランドの2国間戦争となった。
まずは海軍でポンメルンを海上封鎖。ポーランド海軍は完全に殲滅され、バルト海の制海権は一方的にブランデンブルクのものとなる。同時に陸軍が後ポンメルンとポズナニに進撃。多くの犠牲を重ねたのちに包囲に成功、数ヵ月後には陥落させることに成功した。
このあたりで国庫が尽きてきたため、後ポンメルンの割譲のみで講和。本来ならダンツィヒまで割譲させたかったのだが、必要ポイントが72%であったため全く受け入れてもらえなかった(*1)。


◆ラインラント戦争

ローマ教会が寛容令を発し、旧教と新教間の婚姻が解禁。早速南の大国オーストリアと婚姻を結び背後の脅威を和らげる。
1665年、ランダムイベントによりヘルヴェティアへの大義名分を獲得。早速ヘルヴェティアに宣戦する。とはいえ目的はヘルヴェティアではなく、その同盟国の中部ドイツの小国を狙ったものである。
こちらの宣戦に乗り、プファルツ・ヴュルツブルクが参戦。参戦を拒否して同盟を脱退したマインツは、後にオーストリアを盟主とする同盟に加入した。
戦力はほぼ互角であるため、こちらは戦力を集中させて野戦での敵軍戦力の壊滅を目指す。騎兵主体のブランデンブルク軍は各地を転戦、ヘルヴェティア同盟は戦力を集中させることができずに各個撃破されていく。同時に別動隊がプファルツを包囲、半年後には陥落させ、1州しか持っていなかったためそのまま属国化し、プファルツは戦争から脱落する。
とはいえ同盟軍の国庫は裕福だったらしく、次から次へと軍隊が増員される。戦況が泥沼化してきたため、ヴュルツブルク攻略は諦めてわずかばかりの賠償金を得て講和する。


◆低地帯進撃

戦後、同盟が心もとないために近場で孤立していたデンマークを誘い、新たに同盟を結成。ついでに属国にしたプファルツも加盟させる。
ところが前回の戦争の余韻もさめやらない1668年、スペインがデンマークに宣戦布告。ここは同盟履行を拒否したかったのだが、属国プファルツが参戦してしまったため、これを保護するために仕方なく参戦。こちらからスペイン本土を攻撃できる海軍力は無いため、まずはスペイン側に付いたケルンを攻撃する。
とはいえ1州しかないケルンが敵うはずもなく、あっさりと陥落させ属国に。ケルン攻略によりスペイン領ルクセンブルク・ブラバントへの道が開けたため、軍を増員。どうやらスペインは低地帯の軍を全てデンマークに向けていたらしく、何の抵抗も無く包囲に成功。たまたま要塞が最小であったので突撃を行ったらあっさりと占領でき、ここで多額の賠償金を得て分離和平を結んだ。
その後デンマークはスペインに大敗北したらしく、新大陸の植民地を割譲させられて講和した。


◆第2次ポーランド戦争

1674年、オーストリアとポーランドの間で戦端が開かれる。オーストリア優勢を見て、翌年ブランデンブルクもポーランドに宣戦布告。目的はダンツィヒの獲得と、それによる東プロイセンの飛び地の解消である。
この頃になると陸軍技術の差はさらに開き、兵数で劣っていても簡単には負けなくなっていた。オーストリアによりポーランド陸軍がほぼ壊滅していたこともあり、ブランデンブルクはやすやすとポーランド領を占領。ダンツィヒ、ポズナニに加えて首都のマゾフシェ・クールラント、リトアニアを占領。ポーランドよりダンツィヒ・ポズナニ・クールラント割譲の打診があったため快諾し、戦争はあっけなく終結した。


細長く伸びたブランデンブルク領

新都サンクトペテルブルク

◆この頃の国際情勢

この後はしばらく大きな戦争も無かったので、国際情勢を紹介する。
第2次ポーランド戦争終結後まもなくして、ルイ14世の拡張政策に対抗してドイツ諸侯の間でアウグスブルク同盟が発足。イングランドとオランダも加えた大規模な対仏包囲網が起こった。
1682年、ブランデンブルクアフリカ会社イベントが発生。これにより初の探検者を獲得した。とはいえ世界中を回ったものの既に開いている植民地は存在せず、ヨーロッパ外の地図が分かっただけであった。ここで得た地図を活用して、盛んに地図交換を行う。それにより各地の交易センターに商人を送ることで、貿易収入は年を追うごとに急増していった。
清教徒革命以降混迷が続いていたイングランドであったが、オリヴァー・クロムウェルの死後にステュアート朝が復活。しかし名誉革命によりジェームズ2世は亡命し、オランダのウィレムを王に迎えてオランダとの同君連合が発足した。
東のロシアでは、新都サンクトペテルブルクが建設され、ピョートル大帝の元で改革が行われている。1689年にはネルチンスク条約が結ばれたようで、どうやらシベリア東端にまで達したらしい。

◆ポンメルン戦争

1690年、満を持して前ポンメルンを所有するスウェーデンに宣戦布告。スウェーデンにとっては飛び地であるポンメルンには守備兵はほとんどおらず、同じくスウェーデン領となっていた隣のメクレンブルクと共に陥落。たまにスウェーデン軍がドイツに上陸してくるものの、大きなペナルティーを受ける上陸作戦は沿岸のブランデンブルク軍によって全て食い止められ、前ポンメルンを割譲させて講和した。
1700年、属国化していたザクセンを併合し、武器工場を建てる。



(*1)州の割譲に必要なポイントは州の収入によるため、交易センターを持つダンツィヒは非常にポイントが多く必要になる。こういった州は自分から割譲を要求するより、相手の提案を待ったほうが受け入れられやすい。


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