◆状況



百年戦争は終結し、イングランドは大陸での拠点を失った。その一方でフランスが王領を拡大し、諸侯は王権の元に組み込まれていった。
ポルトガルは植民大国としてアフリカに多くの植民都市を持ち、新大陸を発見したスペインも徐々に植民地を拡大しつつある。
東方ではノヴゴロドを併合したモスクワが勢力を拡大。キプチャクハン国はカザン・アストラハン・クリミア等に分裂している。
ブランデンブルクは80年経ってもわずかに1州が増えたのみ。隣国のハノーファーを属国にできたのが数少ない収穫である。
東のポーランド、南のベーメンは相変わらず脅威。北方のポンメルンは目まぐるしく領有者が変わったのち、反乱により再独立。ポーランドよりポズナニを奪い、現在はブランデンブルクを盟主とする同盟に加入している。


◆戦略

特に真新しい変化は無く、相変わらず同盟の隙を縫って勢力を拡大するほかない。技術は周辺国に比べてやや遅れ気味であるが、収入を増やすあても無いので当分は同盟国頼りとなるだろう。
ある程度中央集権化と自由貿易も進んだので、今後は軍隊の士気を高めるために陸軍主義、質重視、自由農民制を進めることにする。陸軍主義に傾倒すると植民政策に悪影響を及ぼすが、内陸国である上に小国で植民する財政的余裕が無いので、今後は植民は完全に無視していく。
ただ、海軍が無いと沿岸州の包囲に手間取るし、こちらからデンマーク・スウェーデンを攻撃する方法が無いため、なるべく早期に沿岸州を手に入れ海軍を創設したい。


◆ポーランドとの小競り合い

1500年、ポズナニ回復を目論むポーランドがポンメルンに宣戦。ブランデンブルクもポンメルン側として参戦する。
ポーランド・チュートン対ポンメルン・ブランデンブルク・ザクセン・ハノーファーの戦いは、終始ポーランド優勢で推移。こちらは軍隊を壊滅させられた挙句にキュストリンをチュートンに攻落されてしまう。ポンメルンもポーランドに敗北し、結局ポンメルンがポズナニ・後ポンメルンの2州をポーランドに割譲することで講和。まあ、キュストリンを割譲させられなかっただけよしとする。
1508年には再びポーランドがポンメルンに宣戦。ポンメルンはチュートンに敗れ、1州しか残っていなかったため再び滅亡した。ただ、ブランデンブルクはポーランドとの野戦で数度にわたり勝利。50ダカットを得て単独講和した。
ブランデンブルクが戦線から離脱したため、ポーランドとザクセン・ハノーファー間の交通路が遮断され、戦争遂行が不可能に。3年後には自動的に講和した。


◆宗教改革

1516年、属国となっていたハノーファーを外交併合。これで計4州を領有し、名実共にヨーロッパの中堅国に。同年、スペインにてカルロス1世が即位し、カスティーリャとアラゴンが合併。1519年にはカール5世として神聖ローマ皇帝に即位し、ハプスブルク帝国が完成する。
同年12月、マルティン・ルターが「95箇条の論題」を発表。これによりゲームでは北ドイツ・スカンジナビア諸州が一斉にプロテスタントに改宗する。しかし国教はカトリックのままなので、税収に-30%のペナルティが。ここでプロテスタントに改宗すると税収ペナルティが無くなるが、全ての同盟関係を失う上にカトリック諸国との関係が大幅に悪化するため、改宗するのはある程度プロテスタント国家が増えてからにする。
1523年、世界に先駆けスウェーデンがプロテスタントに改宗。1527年にはルターのパトロンであったザクセンもプロテスタントに改宗。同年ブランデンブルクもプロテスタントに改宗し、ザクセンと同盟を再締結する。
翌年にはチュートン・デンマークが、1532年にはイングランドが改宗し、その結果カトリック諸国との関係は大幅に悪化していくことになる。今後は同盟相手の選択肢も非常に限られていくことになった。
また、改宗したことによりシュマルカルデン同盟の参加要請が打診される。ここは史実どおりに支援を供与し、新教諸国との関係を改善することにした。


プロテスタント化する北ドイツ諸州

トルコの領土拡大

◆トルコ・オーストリアの拡大

16世紀以降、オスマントルコの軍事活動が非常に活発化する。既に技術力は世界一であり、執拗にハンガリー・エジプトに侵攻を始める。1519年、オスマン軍がハンガリーの大半を占領。「ハンガリー国王ラヨシュの死」イベントが発生し(*1)、ハンガリー全土がオスマン統治下におかれることとなる。ラヨシュはベーメン王でもあったため、ベーメンでも同様に直系が断絶。こちらはオーストリアのフェルディナンドが継承することになった(*2)。
1524年には「スルタンが「カリフ」へ」イベントによりオスマントルコがマムルーク朝を併合(*3)。既にアルジェリアもイベントで属国化し、以降はオーストリアやポーランドと戦争を重ねていった。


◆プロイセン公国

この頃ポーランド・チュートン同盟はスペイン・サヴォワ同盟に敗北。プロイセンとメーメルがサヴォワに割譲された。
しかしサヴォワは反乱を鎮圧することができず、1536年にプロイセンが独立。直後に「ホーエンツォレルン・プロイセンがポーランドの公領となる」イベントが発生。プロイセンはホーエンツォレルン家のアルブレヒトによる世俗諸侯となり、ポーランドの宗主権下に入りその属国となった。ちなみにプロイセンの存在は後々ブランデンブルクにとっても非常に重要な要素となるので、ここでポーランドの属国となることは非常に喜ばしい。宗教が違うから外交併合されるおそれも無いし。


◆ポンメルン獲得

1567年、ルブリン合同によりポーランド・リトアニアが合併。
1569年、突如としてポーランドがブランデンブルクに宣戦布告。とはいえこちらもザクセン・オルデンブルク・ヴュルツブルクを同盟に引き入れており、戦力はほぼ互角である。この頃にはポンメルンはポーランド領となっていたため、先んじて前ポンメルンを包囲。ポーランド軍がキュストリンに攻撃をかけるが、援軍のザクセン・オルデンブルクの前に敗退していた。
その直後にオスマントルコがポーランドに宣戦。ポーランドは南北から挟撃されることになり、多数の兵力が南方に振り分けられていった。おかげで北方は空となり、ブランデンブルクはやすやすと前ポンメルンとポズナニを占領。翌年前ポンメルンを割譲させて講和した。
これにより初の沿岸州を獲得。とはいえ艦隊を作る財政的余裕が無いため、艦隊作成は後回しにする。技術面では海軍に隣国ボーナスが入るようになったため、以後の海軍技術は目覚しい進歩を遂げていった。
早速ポンメルンに収税官を置く(*4)。


前ポンメルン獲得、海軍技術はまだ低い

オランダ独立戦争

◆その後の情勢

1543年にカルヴァン派が登場して以降、スイス、スコットランドが改宗。ネーデルラントにも改革派が広まり、支配者のスペインより独立運動を始める。 1570年、オランダがスペインより独立し、これにより低地帯の改革派地域がスペインより離脱する。同じ新教であり、今後はオランダとの友好関係を築くことにする。
1575年、トレントで公会議が行われ、カトリックの教義が再確認された。これによりオーストリア・スペイン・教皇領・ジェノヴァが次々と反改革派に改宗していく。
1595年、中部ドイツで大勢力を築いていたヴュルツブルクが内乱により国家崩壊する。旧ヴュルツブルク領の諸国は一斉に独立し、その中にはクレーフェ公国が含まれていた。クレーフェは後にイベントで重要なものとなるため、金を送って友好度を上げた後に同盟に引き込んだ。



(*1)日本語版では1526年に発生し、オーストリアがハンガリーを併合するイベント。しかし英語版ではトルコがペスト・マジャール・マロシュを占領すると発生し、このイベントによりハンガリーがトルコに併合される。
(*2)これも英語版で効果が変更されたイベント。ベーメン側の選択によりベーメンがオーストリアに併合されるか属国にされるかが選ばれるが、日本語版では属国化される場合が多かったのに対して英語版では併合される場合が多くなっている。
(*3)*1、*2と同様、これも効果が変更されたイベント。日本語版では単にイスラム諸国との関係が改善されるだけだが、英語版ではトルコがエジプトを占領すると発生し、問答無用でマムルーク朝がトルコに併合されることになる。
(*4)英語版では州の統治者が変わると収税官が消えるので、再び置き直さなければならない。


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